第三十一話 幸福の眠り
巫女の郷から戻ると、地上でも時は進んでいたようで、辺りはすっかり暗闇に覆われていた。城へ帰る道では誰も何も言わなかった。
ところが、城へついた瞬間、イグニスの背に乗っていたカイネの体から力が抜け、糸の切れた人形のようにふらりと倒れかけた。レオが咄嗟に糸を吐かなければ、頭を地面に激突させていたかもしれない。イグニスはみっともないほど慌てふためき、初めてレオに礼を言った。
カイネはイグニスの背に全身を預け、ぐっすりと眠っていた。
――体力の限界みたいだね。
イシュケが苦笑する。
――クイーンのことは僕たちに任せて。リリーも、もう部屋で休んでよ。
「うん……また明日ね、イシュケ」
レオと一緒に、別棟へ帰っていく。すっかり見慣れた城の光景を視界に映しながら、つい先ほどまで見知らぬ世界にいたのだと思うと、どうにも現実感がなく、奇妙な心地だった。
「わたしも、なんだかとっても眠たいわ。レオは疲れてない?」
彼はリリーを見下ろし、鋏角を軽く動かした。大丈夫、と言いたげに。
「レオってば、わたしの前で疲れたって言ってくれないのよね。少しくらい甘えてくれたっていいのに」
――甘える?
というレオのつぶやきは、もちろんリリーには聞こえていない。
*
リリーははっと瞼を開いた。寝ぼけた視界に、人間の青年のからだが横たわっている。暖炉の火の爆ぜる音を聴きながら、徐々に意識がはっきりしてくると、自分がベッドに寝転がっていることに気づき、「あ……」と小さく声を上げた。
「レオ……あの……」
レオは黒く澄んだ瞳でリリーを見つめながら、背を優しく撫でてくれていた。
「起きてしまったか」
「あの……ごめんなさい、わたし、いつの間にか寝て……」
部屋に戻ってすぐ、誘い込まれるようにベッドに突っ伏した。少しだけ横になろう、などと考えて……そこからの記憶がない。
「よほど疲れていたんだろう。見知らぬ世界をあれほど歩いたのだから」
「でも……いやだ、ごめんなさい。わたしったら」
レオの疲労を労るつもりでいたのに、まっさきに自分が倒れてしまったのでは本末転倒だ。恥ずかしくて目も上げられない。
言葉が出ないでいる間、レオも何も言わなかった。ただリリーの背を撫でている。互いに黙り込んでいると、この日の出来事が頭のなかに次々と湧き出てきた。見知らぬ世界と豆梟、滅びた郷、そして、巫女ウルーラとスリス……
「なんだか……いろいろありすぎたわね。今でも信じられないわ。郷が本当にあって、宵の巫女がいて……亡くなって」
スリスから語られた話も、戸惑いながら耳にしたが、ちゃんと覚えている。巫女のこと、禁忌のこと、レオのこと。
「スリスさん、言ってたわね。レオにとって、わたしが鉱石みたいな存在だって。その、つまり……わたしがそばにいるだけで、力が循環するって」
言いながら、レオの顔をおずおずと見上げた。
「今、こうしてそばにいるけれど……ちゃんと感じる?」
「どうだろうな……わからない。だがあのとき、礼拝堂の下では、力の枯れかけていた体に確かに心地よさを感じていた。もっとはっきり感じたのは、リリーに口づけたときだ」
瞬間、リリーはぼっと頬を染めた。慌てて下を向き、おろおろと視線を彷徨わせる。
「そ、そう……やっぱり、そうなのね」
「どうした。顔が赤い。熱でもあるのか」
レオの手が額を覆う。
「違うの。違う……熱なんかないの。気にしないで」
「違う、なら……」
レオはしばし思考を巡らせた。
「恥ずかしがっている?」
「そ、そういうことを訊かないで」
彼は蜘蛛だ。人間と価値観が違う。それはわかりきっているのに、こうして遠慮もなく気恥ずかしいことを訊ねられるとどうしていいのかわからなくなる。
もじもじとまごついていると、大きな手に頬を包まれ、上を向かされる。レオの顔が間近に迫っていた。美しい、艶やかな黒い瞳。蜘蛛の眼と同じ瞳が優しくこちらを見つめていた。
人間の頬が赤らむときは、熱に浮かされているときか、恥じらっているときだ。
蜘蛛と違って人間の感情はわかりやすい。加えて、ずるいようだが、体内の魔力の糸でなんとなくリリーの感情を読み取ってしまう。普段は抑えるようにしているが、わからなくて困ったときはつい動かしてしまうのだ。
リリーの体から、何かとてもいい匂いがたちこめていた。擬態していても、よくわかる。そしてそれは、自分がよく知る匂いに似ていた。だがあれほど強烈ではない。似て非なるものだ。ただほんのりと甘く、淡いものが、彼女の全身をやんわりと覆っている。
両手で頬を包み込んでやると、泣きそうに潤む白い瞳がこちらを見上げた。それだけで、胸の中が苦しくなった。彼女の発する匂いに応えるように唇を寄せて、そっと重ねてやる。
人間の、愛情の印。愛を表す行為。これ以外にもあるのだろうか。あるなら、知りたいと思う。彼女にたくさん伝えたいから。
「あの……レオ……」
か細い声が聞こえる。
「それ、あんまりしないで……眠れなくなるから」
「眠れない? なぜ」
「だって、心臓がずっと、強く動いて……胸が苦しくなるの」
彼女も今、自分と同じ気持ちなのか。この切ない痛みを同時に感じてくれているのか。
たまらなくなって、両腕にリリーを抱き込んだ。
人間の体は、強く抱きしめても、撫でても、傷つけないからいい。何より言葉を伝えられる。彼女にわかるように、はっきりと聞かせてやることができる。
「レオ、あの……そろそろ、元の姿に戻らなくちゃ」
「まだいい。もう少し……このままで」
「でも、明日、しんどくなるでしょう」
「いいんだ」
お願いだから、このままでいさせてほしい。それなのに、リリーはこの体をぎゅっと抱きしめ返して、つぶやいた。
「何度も言ってるのに。わたし、蜘蛛の姿も大好きよ。特に、眠るときは。蜘蛛のあなたに包み込まれていたいの」
人間があれほど毛嫌いする姿を、彼女は好きだと言う。以前は、気を遣われているのかと思っていた。彼女だって、同じ人間の隣を歩いていた方が嬉しいだろうと。
「本当に、俺の、あの姿が……」
「レオ、あなたを人間だと思ったことはないわ。あなたは蜘蛛……わたしの大切な、大好きな存在よ」
彼女の言葉のひとつひとつが、胸に深く沁みいって、痛くて、苦しい。
ほんの少し前まで、彼女はまだまだ幼くて、小さくて、弱々しい生き物だった。その体も魂も、自分が守ってやらなくてはと思っていた。暗い過去や境遇から救い出してやるのだと意気込んでいた。
だが今は、その彼女に救われている。抱いても抱き返されて、自分では思いもつかないような人間の言葉を、惜しみなく注いでくれる。
彼女の体がみるみる大きくなっていく。いや、自分が縮んでいるのだ。空っぽの衣服の中から這い出ると、リリーの人差し指が伸びて、頭部や背を優しく撫でてくれた。その柔らかな感触がたまらなくなって、思わず体を肥大化させる。八つ足でリリーの全身を包み込むと、彼女は嬉しそうに頬をすり寄せた。
旅の道中、眠るときはいつもこうしていたのに。なぜかひどく懐かしい心地だった。
リリーは徐々に瞼をゆるめ、ゆっくりと閉じていった。しばらくむにゃむにゃと何事か呟いていたが、それもやみ、穏やかな寝息だけが聞こえるようになる。
触肢の先で、傷つけないよう慎重に、彼女の柔らかな髪を梳いた。白い髪に埋めた黒い脚はひどく目立って見える。
そういえば、この黒い体については……結局、確かな答えを得られなかった。何か言いかけたところでスリスの命の限界が来てしまったのだ。
イシュケはカイネから離反して姿を変えたと言った。女王に対するあの馬の態度の変化を見るに、精神的な離反なのだろう。だが自分は。そもそも、離反する相手がいない。
黒い手記の蜘蛛と魔女の最後が、ふと思い浮かんだ。あの蜘蛛が、本当に自分の先祖か何かだとしたら……彼が、魔女に離反したのか?
いや。あの蜘蛛は最後まで魔女を愛していた。離反などありえない。――ならば、精神的なものではなく、肉体的な理由なら?
あの蜘蛛は最後に、魔女を喰らった。その補食行為が離反と見なされたのなら……
「レオ……」
腕のなかで、リリーの声がやんわりと聴毛に響く。
「だめじゃない……袖がほつれているわ……」
その寝ぼけた声を聞いていると、すべてがどうでもよくなった。
先祖がどうしたとか、体の色が妙だとか、そんなことはもう関係ない。郷は滅び、自分たちを縛るものは、ほんとうに何もないのだから。
腹からするすると熱糸を放出し、温かなブランケットを編み上げていく。それをリリーの体にふわりとかけてから、レオもまた、眠りに陥った。




