第三話 一角獣
翌朝早く、ふたりは宿を出ることにした。
女将によれば、雪山の麓まででもここから丸一日かかるらしい。
「どこかで荷馬車でも見つけて乗せてもらえば、もうちょっと楽にたどり着くだろうね」
と言われてからしばらくして、ふたりは運良く麓の集落を経由するという荷馬車に出会った。
「旅のお方が、あんな小さな集落へなんのご用事で?」
気怠そうに馬を操りながら行商人が訊ねる。
「ええと……」
「あ、わかった。あれでしょう、神山」
「神山?」
「あの雪山、麓民にはそう呼ばれてますからね」
ゴトゴトと車輪が回る。リリーは幌から顔を出し、前方にそびえる純白の山を見つめた。
「あの、どうして、神山と……あそこは確か、魔女がいると噂されているんですよね」
「はあ、詳しくは私も存じませんがね。昔から棲みついているその魔女だか神だかが、あの山を守っているらしいんですよ。山を守るということは、山の脅威から麓の民を守っているということですから」
「どなたか、実際にその存在を見たという方は」食い入るように身を乗り出すリリーの肩を、レオの腕が掴んで引き戻す。
「さあ、それはなんとも。一部では山頂に真っ白い神殿を見た者もいるとかいないとか。ま、田舎特有の曖昧な言い伝えですよ」
行商人がちらとこちらを振り向いた。
「まさかあなた方、山に登るってんじゃないでしょうね。ただでさえ年中真っ白な山なのに、こんな季節に登っちゃあ、命がいくつあっても足りませんや」
「……ええ、わかっています」
それはそうだろうと、リリーも思う。
だが、うかうかしてもいられない。いつ金の羽毛の主が襲ってくるとも限らないからだ。今はただ、できることをするしかないのだ。
「もし、どうしても登るとおっしゃるなら、もっとあたたかい服装を手に入れるのがいいでしょうねえ。今、幌に積んである毛皮なんか、お手頃価格ですよ。いかがです? ――ああそうか、あなた方、路銀がないんでしたっけね」
行商人はぺらぺらと話して、頭を掻く。
「それじゃ、さっきくださった瓶詰めの油、もう二本でお譲りしますよ」
リリーは急いで革袋を開いた。小瓶がまだ残っているのを確認する。
「はい。それでお願いします」
「よし商談成立。いやあよかったよかった」
行商人は機嫌良く馬を走らせる。
空は灰色のヴェールのような雲に覆われ、その向こうで太陽が頼りない光を投げかけている。その陽が真上に昇って少し傾いた頃、ようやく荷馬車が停止した。
「さ、到着しましたよ。ちょっと地面が凍りついてますんで、お足元に気をつけて」
それを聞くとレオが真っ先に地面に降り立ち、周囲の様子を確認してからリリーの方へ手をさしのべた。その手を取って、リリーもゆっくりと足を下ろす。
集落、と聞いて思い浮かべていたよりも数倍寂しい光景が広がっていた。女将のいた村の半分の大きさもない。粗末な石積みの住居がいくつか散らばっているばかりで、あとはやせ細った田畑がうち捨てられている。
「山の反対側はもう少しマシなんですがねえ。こっちは今じゃすっかり寂れちまって」
商人が言い終える前に、リリーは思いきり息を吸い込んだ。
「……くしゅっ」
身体がぶるりと大きく震える。幌のなかでもひどく冷えるのに、外はさらに冷たい外気にみちていた。
「そら、おふた方」
行商人が幌のなかの包みをほどく。
「こちらを着てくださいよ。まだ少しはましでしょう」
ぶかぶかと大きな毛皮のコートが放られ、レオが二つとも受け取った。広げてみるとゆったりとした袖がついていて、前も閉じられるようになっている。
「それでも身の保証はできかねますけどね」
「いえ、助かります。ありがとうございます」
行商人は馬を引き、「それじゃ達者で」と言い置いて去っていった。
「……たしかにこれ、あたたかいわ」
リリーは毛皮の前をぎゅっと閉じて、白い息を吐いた。
「レオは平気?」
見上げるリリーの瞳を見つめ返して、彼はこくりとうなずいた。
「じゃあ、行きましょう。早いうちがいいもの」
「リリー、もし日が暮れるまで、何もなければ」
「引き返すわ。わかってる。ちゃんと、気をつけるから」
ふさふさとした分厚いフードを被り、リリーは改めて前方の雪山を見上げた。
「こんな、本格的な雪山は初めてね……」
正直に言えば、不安だ。こわい気持ちが強い。
だが同時に、雪山の魔女たる存在に強く興味を惹かれている。心配してくれるレオには申し訳ないと思いつつも。
山の麓からは細い坂道が延々と続いていた。道の端にはところどころ、申し訳程度の木の柵が取り付けられているが、下手に身を乗り出すとたちまち折れて落下してしまいそうな危うさである。
すっかり葉を落とした木の枝が頭上に黒々と伸びており、まだ陽は高いのに薄暗い。おまけに、時折どこかから何かの奇怪な声が響く。
「少し、休んだほうがいい」レオが後ろから声をかける。リリーは深く考え事をしていた様子で、レオの声にはっと意識を引き戻された。
「ええ……そうね。そろそろ何か、食べないと」
行ったそばから、薄い腹が盛大に音をたてた。途端にかっと頬を染める。
リリーの空腹の音など、レオは何度聞いたかしれない。今更何を恥じることがあるのか、リリーは未だにもじもじと顔をうつむける。
だから聞こえなかったふりをして、レオは革袋から女将にもらったわずかばかりの野草の端くれとパンを取り出した。
「でも、レオはどうするの」
倒木の上に腰を下ろしながら訊ねる。レオは周囲に目をやって答えた。
「近くで、適当に。心配しなくていい。すぐに戻る」
旅を続けるなかで、レオはずいぶん人間らしくなった。その影響だろうか、いつからか彼は、食事風景を見せなくなっていた。知らないところで知らないうちに野生の生き物を狩り、素早く済ませてしまう。
いくら擬態していても中身は蜘蛛だ。食事だけはどうしても変えられない。彼なりに気を遣っているのだろうが……
「ねえ、狩りができたら、ここで一緒に食べましょう」
毛皮の襟元をぎゅっと掴んで声をかける。
「わたし、待ってるから」
「……」
レオは薄い微笑を浮かべて首を振り、木立のなかに姿を消した。遅れて、金色の光が間から漏れて輝く。
リリーは冷えた昼食を見下ろし、小さく重い吐息をついた。
時折、思う。
彼は自分についてきて、ほんとうに良かったのだろうかと。
口と腹から糸を吐き、逃げ遅れた齧歯類の動きを封じる。じたばたともがく獲物の眼前で、ゆっくりと牙を剥いた。あとはただ、全身の体液を吸い尽くすのみだ。
それはいとも簡単な行為だった。生まれて自立してからずっと、繰り返し紡がれる時間。自分にとって当たり前のこと。それが、いかに特殊で、異質で、歪なものであるか、世界に出て、思い知らされた。
世界を知らない小さなリリーは、特異な存在である自分をたやすく受け入れた。すべてを許し、頼りなげな魂のよりどころにしてくれた。それに安堵して、見て見ぬふりをしていたのだ。
萎れて真っ平らになってしまった獲物の体から身を起こし、黄金の光をまとった。黒い毛に覆われた脚はすらりと長い一対の足と腕になり、目線は高く伸びて、視界に黒い前髪がはらりとかかる。その場に脱ぎ捨てていた衣服を拾い上げ、身に纏う。
火の力のおかげか、寒さなどは感じない。だが、人間は服を着るものだ。肌を露わにするのは、恥ずべきことだ。初めてリリーの前で人間になったとき、リリーはなにやら頬を染め、服を着るよう促した。長い髪は結べと言った。そうして改めてこちらを眺め、感慨深げに、「人間みたい」と言ったのだ。
人間みたい、と。
来た道を戻ろうと振り返ったとき、レオはふと、頬に受ける風の冷たさに気づいた。
苦にならないだけで、熱いとか冷たいという知覚はもちろんある。妙に冷えこむ風は、降りてきた道の先から吹いているようだった。
――リリー!
足を速める。妙な胸騒ぎがした。彼女は昨日、一度攫われている。金色の羽根を持つ者に。
木立の間から素早く躍り出ると、リリーは古い倒木の上に座ったまま、驚いたようにこちらを見た。
「レオ」
彼女の呼び声。だがそれよりも、彼女のいる場所から少し離れた茂みの切れ間に、目が吸い寄せられていった。まるで誰かがそこにいたかのように揺れている。
「ああ、逃げちゃったわ」
残念そうにリリーが言う。
「あのね、ついさっきまで、馬がいたの」
「馬……?」
「ええ。真っ白で――ううん、あれは、あの光沢は、銀色かしら。全身が銀色に輝いていた。毛も、たてがみも。瞳は緑色で……だけど、額に角があったわ」
馬は、旅の途中で幾度も目にしたことがある。だが……
「馬に、角など」
「ええ。だから、似ているだけで馬じゃないのかもしれないわ。だけどそんな生き物……実在するのかしら。まるで一角獣みたい……」
レオはもう一度、茂みの方へ視線を移した。枯れ葉に覆われた地面をざくざく進み、草木をかき分ける。――何もいない。ただ、冷えた土を踏み荒らしたような跡がある。
びゅう、と冷たい風が吹き抜けた。
「急に、寒いわね」
リリーはふさふさのフードを深々と被り直し、膝の上のパンを両手にとった。
「ねえ、食料、とってきた?」
レオは振り返らずに答えた。
「済ませてある」
返事はなかった。彼女がどんな顔をしているのか、あまり見たくはなかった。