第二十九話 禁忌、そして罰
――彼女の名はウルーラ。私は従者で、スリスという。我らの命の灯火は残りわずかだ。だが死ぬ前に、どうしても、あなたがたに話しておきたいことがあったのだ。
梟――スリスは翼を広げて指し示した。
――どこでも、好きな場所に掛けるといい。話は少しばかり長くなる。
「本当に、話すだけ?」
カイネはうさんくさそうに目を細めた。
「そうやって油断させて、リリーを襲おうって魂胆じゃないでしょうね」
――疑わしければ、蜘蛛の糸で私を縛るがいい。
レオは何のためらいもなく、かぱりと口を開いた。その彼を、横からリリーが静かに制した。
「必要ないわ」
死を待つばかりの巫女に寄り添う従者。あの豆梟と同様、この梟から悪意のようなものは微塵も感じられない。それどころか、何かとてつもないわびしさ、寂寥感、悲しみのようなものを感じてしまうのだ。考えすぎかもしれないが。
――感謝する。あなたは本当に優しい心の持ち主だ、リリー。
「どうしてわたしの名前を知っているの?」
――ずっと視ていた。あなたのことを。私の、千里眼で。
「千里眼……それは、〝宵の巫女〟の能力でしょう」
――開眼したのは私だ。ウルーラと契約を結んでから会得した。ウルーラは私に憑依して初めて、万物を視ることができるのだ。
憑依……巫女イレーヌの手記のなかで、彼女もまた、従者の雪豹に憑依し、その体を自由に操ることができていたのを思い出す。
「待って。ということは……あのとき、わたしたちを襲ったのは……」
――左様。私の意思ではない。ウルーラが私に憑依し、あなたがたを襲った。本当にすまなかった。いくら詫びても、詫びたりない。
スリスは精いっぱいに体を曲げて、こちらに頭を下げる格好をした。
――彼女が〝宵の巫女〟でいる間、私はこの体を彼女に明け渡し、巫女たちを監視することに力を貸していた。彼女が視た光景は、同時に私にも見える。郷の誰も持たない希少な力だ。……はじめは、私もこの役割に誇りを抱いていた。だが、眼に映る巫女たちの生き様は……いつ何を視ても、悲惨なものでしかなかった。
スリスは空っぽの眼窩をリリーの方へまっすぐに向けた。
――あなたを生み出した巫女が、最たる例だ。
「わたしの……前の魔女を、知っているの?」
――彼女はこの郷に生まれながら、巫女としての力が大幅に欠如していた。おまけに体も弱かった。郷は力のない者を巫女とは認めず、処分する。だが、あまりに心の純粋な彼女を憐れんだ重役が、彼女を地上に追放した。幼い彼女は郷の記憶を奪われ、名も与えられぬまま孤独に生きた。自分が何者かも知らず、ただ延々と生きながらえて……最後には、人間に愛を求めてしまったのだ。
スリスは、今度はカイネの方へくるりと首を向けた。
――あなたの母、イレーヌもだ。日記を読んだな。彼女も人間の愛を求め、人間の城を滅ぼした。
「くだらないわ。そんなことで自分の立場を危うくするなんて」
――そうかもしれない。だが彼女らは必死だったのだ。私の眼に映る巫女たちは皆、人間に愛されることを望んだ。そして絶望し、のたれ死ぬか、禁忌に手を染めようとしたのだ。
「禁忌……」リリーは無意識にレオの脚を強く掴んでいた。「それは、わたしの……」
――名もなき巫女の犯した禁忌は、血の穢れ。巫女の血は究極の神聖体だ。悪用されれば恐ろしい力を発揮する。だから巫女は常に清廉と潔白を極めなければならない。だが彼女は、その血肉を人間の肉体に注ぎ、自分の魂を分けたのだ。
そして、カイネ。あなたの母の犯した禁忌は記憶継承の断絶だ。あなたになら、皆まで言わずともわかるだろう。
「確かに、母の日記の内容は、私の生まれたときに持っていた知識と食い違うところがあったわ。一番大きいのはこの郷よ! 郷にはたくさん人がいるって。〝宵の巫女〟は健在で、今でも監視の目が光っているって……なのに、なによここ……誰もいないし、〝宵の巫女〟は死にかけ。おかしいと思ってたわ。だってリリーも、リリーの前の巫女も、郷からなんのお咎めもないの。どうしてかしらってずっと思ってたわ」
――イレーヌも同様に疑問を持った。そして、〝鍵〟を使って郷に帰ってきたのだ。そこで見た景色は、三〇〇年前と言えど、今となんら変わりないものだった。滅びに支配された郷の様相に、彼女のなかで張りつめていた何かが壊れたのだろうな。忘れたかった人間との思い出と共に、すべてを封印することにしたのだ。禁忌を使って。
「禁忌? まさか、あの青い箱が関係してるっていうの?」
――あの青は、元は彼女の血だ。
ヒッ、とカイネが顔をひきつらせる。
――箱はただの宝石箱だった。それを彼女の血で濡らし、忘れたい記憶を記したものを入れる。そして鍵を処分し、陽の当たらぬ場所に封印するのだ。そうすれば、書かれた記憶は自分の子に流れる知識の蓄積に一切残らぬ。彼女が元々信じ込んでいた郷の光景が事実としてあなたの魂に刻まれる。
記憶継承は本来、巫女の存続に必要な情報を蓄積させるための大切な仕組みだ。それをいたずらに妨げれば、郷の禁忌となる。
「それをどうして〝宵の巫女〟が見過ごしていたというの。やっぱり、力が衰えていたから? 今こうして死にかけているものね」
――いや。違う。彼女の力は死に瀕してなお衰えぬ。彼女は何も見過ごしてなどいない。ウルーラに憑依されるたび、私は自分の力で彼女の視界を偽っていたのだ。
「なんですって! そんな……そんなことが可能なの? あなた、従者でしょう? 巫女の意思を妨害するだなんて」
――あなたはずっと勘違いをしているな、カイネ。従者の役目は、巫女に傅くことではない。巫女が使命を全うできるよう、正しく仕えることだ。
カイネの頬にかっと血の気がのぼる。イグニスが宥めるように頬を寄せるが、彼女の血気はおさまらない。
――リリーの前の巫女やイレーヌ、他の哀れな巫女たち……愛に飢え、苦しみ、禁忌に手を染めようとする者たちの姿をウルーラに見せることなど、私にはできなかった。そして何より、リリー、あなたを守りたかったのだ。
「わたしを……?」
――あなたも他の巫女と同様、愛に飢え、愛に苦しんでいた。だが同時に、誰よりも他者を愛する者だった。巫女たちが不幸な死の結末を迎えるなかで、あなただけは幸せを掴んで生きようとしている。
どうしても、あなたの行く末を見守りたかったのだ。この命ある限り、蜘蛛に寄り添い強く生きるあなたの姿を。
リリーは傍に立つレオを見上げた。彼は身じろぎひとつしないが、きっとその広い視界で、こちらを見ているのだろう。彼の腹から伸びた細い糸が、リリーの手首に柔らかく絡みついている。
――だがそれも……ついに暴かれてしまった。ウルーラは私を疑っていた。あるとき、私の精神を無理矢理乗っ取り、私が見過ごしてきた数々の記憶を辿り、ついにリリーを見つけたのだ。潰えようとしている力のすべてを使って、あなたを殺そうとした。私も必死に抗った。精神世界で争い、互いに魂を疲弊させた。
「疲弊していて、あれだったの?」
イシュケが絶望的な声を上げる。「すごいね、ウルーラってひとは」
――それは彼女が膨大なエネルギーを持っているからだろうな。子を産むための力さえも、自らの寿命に変えて生きながらえているのだから。もう千年は生きている。
「千年! そのひと、千年も生きてるの?」
――だがそれも間もなく終わる。金の鴉の最後の一撃で、彼女の魂は修復不可能なまでに傷ついた。こうして翠砡水に浸かってやっとわずかな呼吸をしているのだ。
「メアリが……」
リリーは胸元をぎゅっと握りしめた。
彼女の死に様に涙したし、虚しさとわびしい気持ちは今もここにわだかまっている。だが、その彼女が、自分のためにとスリスの大切な巫女を死に至らしめたのだ。行き場のないいたたまれなさが胸にひりつく。
――あなたが気にすることではない、リリー。むしろ感謝している。本来死ぬべき時に死ねなかった彼女を、こうして休ませる時がようやく来たのだから。
「ねえ。宵の巫女は、どうしてそこまでして生きようとしたのかしら?」今度はカイネがずいと進み出る。「尋常じゃないわ。千年よ。私だって気が遠くなるわ。しかも、子孫を残す力を犠牲にしてまで……」
――彼女は生まれつき盲目で、力が弱かった。同胞から馬鹿にされ、虐げられていたのだ。そこへ私と契約し、私が千里眼を開眼した。千年前だ、郷はまだまだ活気にあふれ、多くの巫女を地上へ排出していた。千里眼は、彼女らが巫女の役割を全うしているか監視するために不可欠な力だった。ウルーラは郷のはずれから、巫女の管轄者にのし上がったのだ。
当時の彼女の喜びはいかばかりだったか。彼女は役割を与えられたことが嬉しくて、役割を生きがいとし、依存した。郷の重役たちが危険視するほど厳しく取り締まり、罪人はためらいもなく処分していった。ついには、郷長を凌ぐほどの権力を握り、頂点にのぼりつめた。文字通りすべてを掌握したのだ。その結果、巫女は絶滅の危機に瀕するほどに数を減らしてしまった。
言葉の出ない皆の顔を、暗い眼窩で見回しながら、スリスはぽつんと声をこぼした。
――巫女とは、いったい何なのだろうな。実に歪な存在だ。性別もなく、誰かと愛し合わずとも子孫を残すことができる体を持ちながら、愛を求めて自滅する。もしかすると、地上を管理するという役割さえ、誰かが勝手に考えた、誤った認識かもしれない。この狭い世界で慎ましやかに過ごすことが、神から与えられた命の本来の意味だったのかもしれない……
リリーとカイネは、無言でそっと目を見合わせた。声には出さずとも、互いの眼には、今朝の礼拝堂でのやりとりが浮かんでいるのがわかった。
巫女とはもはや、神に遣わされた存在ですらないかもしれない。本来、地上に存在しえないまったく別の生命体だったのかもしれない。だがそんな恐ろしいことは到底口には出せなかった。




