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宵の巫女  作者: シュリ


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第二十六話 不変のもの

 さかのぼって、深夜。とっぷりと月の傾いた空の下、暗い歩廊を壁伝いに歩く少女の姿があった。

 背後でびゅうと風が吹き抜けるたびに肩をびくつかせ、ぴちょん、と水滴が落ちる音が響くたびに「きゃっ」と頭を抱える。それでも、温かな自室へ戻らなかったのは、どうしても行きたい場所があったからだ。従者に知られず、こっそりと。


 這う這うの体で、ようやくたどり着いた扉の前。もう寝静まっているだろうと思って来たのに、扉と床の間のわずかな隙間から火の光が漏れ出ていた。

 まだ、起きているのかしら。

 そう心の中でごちて、ごくりと唾をのむ。思い切って扉を押し開けてみた。ほんの数ミリ……数センチ……片眼が覗く程度の小さな隙間の向こうに、寄り添うふたつの影があった。


 ぱちぱちと爆ぜる暖炉の前に、背の高い男が座り込んでいる。その肩によりかかるようにしてリリーが眠っていた。

 その瞬間、ふいにレオの黒い瞳がこちらを見た。慌てて扉を閉めたが、もう遅い。


「何をしに来た」

 押し殺してはいるが、鋭い声が向けられ、カイネは小さく息を呑む。

「……リリーに、用事があったの」

「リリーはもう眠っている。そろそろベッドに移そうかと思っていたところだ」

「そう。……」


 うなずきはしたが、引き返す気にもなれないまま扉の前に佇んでしまう。その様子が扉越しにも伝わってしまったのか、小さなため息が聞こえた。


「話したいことでもあるのか」

「……ええ」

「おまえの馬のことか。それとも俺か」

「馬なんて、雑な呼び方はやめてちょうだい。彼らは私の……」


 言いかけて、イシュケの灰色の馬の姿がよぎり、口ごもってしまう。


「その様子では、帰るに帰れないのだろう。入りたいなら入ればいい。ただし、リリーを起こすな」


 思いがけない言葉だった。カイネはすぐに顔を上げた。それからおずおずと扉を開く。

 傲岸不遜、自由奔放、我儘放題だったカイネからは想像もつかないほどひどく萎れた様子に、レオはわずかに眉を寄せた。

 カイネは暖炉近くのソファに腰をおろす。顔は伏せられていた。

 どれほどそうしていただろうか。先に口火を切ったのはカイネだった。


「あなたたち、どうやって助かったの」


 レオが目を上げる。カイネは俯いたままだ。


「戦いは、ひどいものだったでしょう……私が見た時は、中庭は大荒れで血に汚れていたわ。イシュケが意識のないあなたを連れてきて、リリーは行方不明だった……」


 レオの視線が、暖炉の炎に注がれる。黒い瞳が揺れる炎に照り輝いた。


「俺が意識を取り戻したのは、リリーの血を呑んだからだ。リリーは、鴉に救われたらしい。何があったか、詳しくは知らないが……」


 レオはそれから、リリーから得た情報をもとに、自分の推測も含めて、雪の山頂でのことをかいつまんで語りだした。カイネは終始、押し黙って聞いていた。

 話が終わると、再びカイネが口を開いた。


「じゃあ、あなたたち、とうとう契約したのね」

「いや。そういう訳ではない」

「でも、血を呑んで、リリーの愛に応えたのでしょう。あなたは元々、リリーに夢中だったのだから、契約の条件にはじゅうぶん当てはまるわよ」

「例え契約という形をとっていたのだとしても、俺には関係のないことだ。これまでとなんら変わりはない。契約で培われる感情など俺には不要だ」


 それは、カイネの心を打ちのめすには十分だった。


「契約の前後で抱く感情が変わるなら……そこに、意味はないとでも言いたいの?」

「そこまでは言っていない。契約を機に育まれる感情もあるだろう。おまえの従者が最たる例だ」


 言葉を失うカイネを追い詰めるように、レオは続ける。


「契約で生まれた感情を愛しむ者もいる。逆に、契約に苦しむ者もいる。見目は瓜二つでも相反する者たち……それらと五百年を共に生きたいというのなら、おまえの中にも不変のものが必要だろうな」

「不変のもの……」

「それがなければ到底、叶いはしない。少しずつほころび、いずれは破綻する」

「あなたたちだって、破綻しかけたじゃない」


 心なしか、意地の悪い声音だった。


「私が引き離したなんて言わないでちょうだいね。だって、すべてリリーの意思、リリーの決めたことだもの」

「リリーは、俺を守ろうとした」


 彼女の細い肩を抱き、指先に力を込める。


「共にいたいという願いを心のうちに封じ込め、俺だけのために行動した。おまえには、それができるのか」

「……え?」

「馬を手放さなければ守れないという状況に陥ったとき、おまえは果たして、馬どもを素直に手放すことができるのか」


 カイネの唇が真一文字に引き結ばれる。白い顔がますます青ざめて見えた。


「あの馬の弟は、リリーを愛している。そうと気づいてなお、おまえは馬を追い続けているだろう。泣きわめきながら――」

「やめてよ!」


 ぴしゃりと声が叩きつけられる。カイネは両手で頭を覆っていた。


「イシュケは――イシュケは、私と契約したの……私の従者なの……」

「従者の姿を失った奴を見てもなお、そう言えるのか」


 カイネの瞳から、光が抜け落ちる。

 言葉を失い打ちひしがれる彼女に、なおもレオの声が続く。


「どうしても失いたくないのなら、示さねばならない。おまえの心の内を」

「示す……?」

「おまえがあの馬を、都合のいい道具(じゅうしゃ)としてではなく、個として愛しているのなら、それを示せ。そうでなければ、いずれおまえのまわりからは誰もいなくなる」


 そのときだった。


「カイネ……?」


 ふたりは揃って、はっとリリーへ目を向けた。彼女は寝ぼけ眼で顔を上げ、ソファに座るカイネの方へ、ぼんやりと瞳を向けた。


「泣いているの?」と訊ね、両手を広げる。「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……」

 言いながら、瞼が降りてきて、ふたたび眠りに陥ってしまった。


「……ばかじゃないの」

 両手をぱたりと落として静かに寝入るリリーへ、わずかに声を荒げる。

「十五年しか生きていない、赤子同然のあなたが、この私に……」


 レオは何も答えず、リリーの肩から落ちた上着をまたかけてやった。

「リリーを寝かせる」


 暗に「そろそろ出ていけ」と言われたようで、カイネはむっとした。つと立ち上がり、レオを見下ろす。だが、すぐに思い返したように力なく目線を落とした。


「ねえ。今、少しだけでいいから、蜘蛛の姿になってくれないかしら」

「……おまえは、その姿を嫌っていたはずだが」

「いいから、はやく見せて」


 訝しむように目を眇め、それでもレオはしぶしぶと黄金の光を纏った。リリーを抱く青年の姿が一瞬、小さく縮み、瞬く間に巨大な黒い蜘蛛になる。

 六つ並んだ単眼が、一斉にカイネへ向けられる。


「やっぱり私、蜘蛛は嫌だわ」

 力なく、カイネは笑った。


「私は巫女だから、従者になりうるあらゆる生き物に触れることができるけれど……どれだけ生きても嫌いなものは嫌いね。あなたは醜いわ。……だからやっぱり、あなたはいらない」


 それだけ言い残して、カイネは部屋を後にした。

 レオは、寝息を立てるリリーの体を持ちあげ、ベッドに寝かせた。そのまま、自分はベッドのすぐそばで横になろうとする。


「レオ」

 小さな囁き声がして、レオは動きを止めた。

「どこにいくの……?」


 振り返れば、半分眠ったままのようなリリーがこちらをぼんやり見つめている。

 どこにも行きはしない。ここで眠るだけだ。だがリリーは手を伸ばして、レオの脚に触れた。


「いっしょにいて。おねがい」


 そう真剣に言われれば、従うほかなかった。

 彼女のすぐそばに身を横たえる。そのまま足を伸ばそうとして、少し躊躇った。行き場のない彼の脚に、白い手が触れる。


「だれが、なにを言ってもね」


 ふさふさと黒い毛並みを撫でながら、リリーは柔らかな声で囁いた。


「わたし、あなたが好き。蜘蛛のあなたが、だいすき。あなたの糸に包まれるのも、綺麗な瞳で見つめられるのも、見つめ返すのも……すべて。あなたにしか、ないものだから」


 もしかしたら、夢うつつの中で、先ほどの会話が聞こえていたのかもしれない。だがそんなことなどもはやどうでもよかった。レオは反射的に脚を伸ばし、リリーの体を抱きしめていた。


 この顔を柔らかく押し包む白く柔らかな髪が、雪より白い肌が、その白よりはるかに白く澄んだ彼女の心が、好きだった。この世界に彼女に似た者が多数いるのだとしても、それは彼女にしかないものだから。

 牙が触れないように、この巨体で彼女を押しつぶしてしまわないように、大切に抱き包んで、彼女の唇に上顎を押しつける。何度も何度も、言葉にできない感情をぶつけるように……


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