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宵の巫女  作者: シュリ


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第二十四話 蜘蛛と少女

 氷の枷が外された途端、蜘蛛は再び暴れまわった。這いずり回るたびに青ざめた体液が石床の上へ染みを広げていく。


「……レオ」


 苦悶する彼をいたわるように声をかける。するとレオの動きがぴたりと止まった。

 まさか、動けなくなってしまったのか?

 恐ろしくなり、リリーは急いで彼の傍に寄ろうとする。その瞬間、レオの体が突如巨大化した。しっかりと脚を床につけ、真正面からリリーを見据える。


「レオ、だいじょうぶ……? わたしよ、リリーよ」


 両手を広げ、微笑んでみせる。

 蜘蛛の鋏角がゆっくりと動き、口をかぱりと開いた。その奥から糸が濁流のように流れ出て、リリー体をからめとる。ほんの瞬きの間の出来事だった。彼の腹から出た糸が壁に張り巡らされ、リリーはそこに叩きつけられる。

 背を襲う鈍い痛みに、顔をしかめる。


「レオ……?」


 眼前に、六つ並んだ黒い瞳があった。そのひとつひとつに、少女の愕然とした白い顔が映っている。

 触肢が伸びて、リリーの体を抑え込む。息のかかりそうな距離で、大きな口がかぱりと開き、牙の先から唾液が糸を引くのが見えた。

 人間と違い、今の彼に表情などない。だが、彼が苦悶に顔を歪める様子がリリーにははっきりと見て取れた。

 彼はひどく混乱している。本能的な激しい渇望と、かろうじて残った理性の間で、もがき苦しんでいる。


 ――〝だがここへ来て、あなたは俺を遠ざけた。それから少しずつ、俺の中から力の抜けるような感覚があった。擬態を維持するのにも力が要る。熱糸を吐くにも、火を灯すにも……〟


 自分が離れたから、彼は力を失った。そこにどんな仕組みが働いているかなど、今はもうどうでもいい。

 体が弱り切ってもなお、彼は戦ってくれた。文字通り、命を賭して。魂を削り切ってでも、梟から守ろうとしてくれた……


「あなたに食べられるなら、本望よ」


 両手を伸ばして、今にもリリーを食らわんとする彼の顔に触れる。糸で縛られた体をむりやり起こして、黒々と光る蜘蛛の上顎に、そっと口づけた。


「……愛してるから」


 蜘蛛は口を開いたまま動かない。彼の持つすべての眼をまっすぐに見つめて、もう一度、囁いた。


「愛してる、レオ」



 体が熱い。心臓から足先までからからに渇ききって、耐えられない。

 目の前の獲物を食せば、きっと魂が満たされるだろう。獲物はいとも簡単に捕らえられた。抵抗するそぶりすら見せないで、ただ静かに、その白い瞳をこちらに向けている。


〝あなたに食べられるなら、本望よ〟


 その言葉は、砂漠に落ちた水滴のように、渇いた魂に瞬時に染みわたっていった。


〝愛してる〟


 柔らかで、あたたかな感触。からからに干乾びた身も心も溶かすような、どこか懐かしい感覚……


〝愛してる、レオ〟


 瞬間、視界を覆っていた真っ赤な覆いが剥ぎ取られ、今まさに自分が食らいつこうとしている存在が誰なのか、ようやく脳が認知した。


 世界で一番愛おしい少女が、世界で一番大切な少女が、無残にも胸を刺され倒れたはずの少女が今、自分の目の前にいる。自分の吐いた糸に囚われ、それでも愛らしく、健気な微笑みを浮かべて……

 今、自分が人間に擬態していたなら、叫び声をあげていただろう。自分は彼女に何をしてしまったのか……あろうことか、彼女を喰らおうなどと!


 狼狽え、一歩、二歩、後ずさる。どんな言葉を並べようとも足りぬことは重々わかっていたが、それでも今すぐ、己の口で謝罪を述べるべきだった。それなのに、擬態するほどの力はまだ回復していない。


「だいじょうぶ」リリーは優しく目を細めた。「蜘蛛の姿でも、あなたが何を言いたいのか、わたしにはわかるわ。本当よ。お屋敷でもそうだったでしょう?」


 目の前のリリーに、小さな少女の映像が重なった。暗い穴の底で、空腹と孤独に溺れていた少女……初めての夜空に興奮して頬を染めていた少女……黒の本に涙を流し、自分に縋りついてきた幼い少女……


「ごめんなさい。わたし、どうかしていたわ……いいえ、ちがう。あなたを生かそうと必死だったの。だけど……あなたと一緒に生きなくちゃ、意味がないの。あなたの隣で最後まで、生きていきたいの」


 両手を広げる。白い瞳に、光る涙を湛えて。


「勝手に離れて、ごめんなさい。あなたがいなくちゃだめなの。カイネの従者になんてなってほしくない。わたしはずっと、あなたのことを……」


 二本の触肢が再びリリーの肩を押さえつける。だが、今度はずっと優しい力だった。六つの瞳に見つめられながら、リリーは迷いなく身を乗り出して、もう一度、彼の上顎に口づけた。

 巫女と従者の、呪いではない。

 人間の生み出した、深い愛の証だった。


 柔らかな唇が押し当てられるたび、レオの胸のうちに言い知れぬ感覚が押し寄せていた。今にも魂が舞い上がってしまいそうな、全身が溶けてしまいそうな、この感覚はなんなのだろう。

 彼女の肩を抑える触肢が、いつしか人間の両腕になり、レオはその腕でリリーの体を掻き抱いた。放たれる黄金の光に眩し気に目を細めるリリーの、小さく開いた白い唇に、自らの唇を重ねる。


 かつて、暗い『塔』の底で、たどたどしく伝えた言葉。それは彼女の一番欲しがっていた言葉だった。だが、口先だけで伝えたわけではない。何より己自身が、彼女を愛していたかったから。永遠に、彼女の傍にいたいと強く願っていたから。

 華奢な彼女を抱きつぶしてしまいそうなほど強く抱きしめて、レオは自分の秘めてきた想いを唇に乗せ、夢中で訴えていた。


 ふと見ると、リリーの頬に涙が痕をひいていた。苦しかっただろうかと腕の力を緩めるが、リリーはその分、ぎゅっと強く腕を回す。


「あのね、レオ。わたし、あなたに食べられてもいいって思いは、今も昔も変わっていないの」

「……まだそんなことを。もう思わなくていい」

「ううん。違うの。死んでしまいたいとか、あなたに痛めつけられたいとか、そういう意味じゃなくて……あなたの一部に――あなたのものになりたかったの。当時のわたしは、それしかあなたへの気持ちを形にする方法を思いつかなかったから」


 なぜだろう。彼女の言葉を聞くたびに、唇が震える。胸の奥がじんと熱い。


「さっきも全然怖くなかったの。むしろ、胸がすごくどきどきして、どうしようもなく高鳴って……わたし、きっとどこかおかしいのね。でも、おかしくたってかまわないわ。わたしはこれからもずっと、あなたに食べられたいまま生きていくのよ」


 体の中が熱を帯びる感覚に戸惑いながら、レオはリリーを抱く腕に力を込めた。

 この気持ちは、おそらく誰に言っても理解を得られないだろう。かつての蜘蛛の同胞たちにも、雪の女王や馬たちにも。


 腕の中の少女の流す透明な涙や濡れた白い唇を見つめていると、魂の奥で何かが首をもたげて牙を剥く。それは彼女を傷つけようとする捕食者の本能ではない。ただ彼女を手にしたい、自分の内に取り込みたいという欲だった。彼女の「おかしい」想いと似た切望が己の内にもある。その正体がわからず、これまでずっと魂の奥に押し隠し、見ないふりをしていたのだ。


「だが、俺は蜘蛛だ。あなたは……」

「人間でも、巫女でもない」レオの言葉を優しく遮る。「わたしはわたしよ。わたしは、自分で望んであなたを愛しているの。だからもう、遠慮なんてしないで。見た目がどうとか、食事が人と違うとか、そんなことで悩まないで。わたしももう、二度と離れないわ。いつこの世を去るかなんてわからないけれど、この生が尽きる瞬間まで、あなたと共にいたいの」


 心臓がどくんと強く鳴り響く。胸の奥で、ずっと仄かに温められてきたものが、一度に燃え上がったような激しい感覚だった。

 リリーの体に巻きついていた糸が、はらはらと解けて地面に落ちる。こちらをまっすぐ見つめる美しい瞳を、彼もまた、静かに見つめ返した。

 

 願わくば、彼女の(うち)に 、一生消えない想いの痕を、刻みつけてしまいたいと思った。

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