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宵の巫女  作者: シュリ


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第二十三話 血の目覚め

 ここは昔、誰かが住んでいた跡地らしい。かろうじて残った天井や壁の一部、粉々になった壺の破片、壁にかけられた襤褸切れが、かつての様相をほのかに匂わせている。

 周囲は白一色で、厚く降り積もる雪の合間にわずかばかりの草と岩が頭を覗かせているだけだった。ここはいったいどこなのか――だがリリーはもはや、そんなことに頭を巡らす余裕はなかった。

 メアリの体はどんどん硬く、冷たくなっていった。石のような鴉の遺体を抱いて、薄い陽の光からひたすら守った。


 どのくらいそうしていただろう。

 背後で、雪を固く踏みしめる音が響き、はっと顔を上げた。人間のものではない、複数の足で雪を踏み、こちらに近づいてくる……


 ――リリー!


 柔らかな少年の声。はじかれたように振り向くと、少し離れたところから灰色の馬が歩いてくるのが見えた。


「イシュケ……?」


 見知らぬ馬のはずなのに、なぜか咄嗟にイシュケだと思ってしまった。実際そのとおりだったのか、馬は嬉しそうに目を細めて鼻を鳴らす。その口に見知った青い箱が咥えられているのを見つけ、リリーはぼんやりと目を瞬かせた。


 ――リリー、よかった。無事だったんだね。ああ、鴉に連れられてからどうなったかと、本当に心配で……


「あなたも無事だったのね、よかった……でも、どうして居場所がわかったの? それにその姿は……」


 ――リリーってば。僕の力、忘れたの? この雪山で起きてること、だいたいは把握してるよ。君たちの居場所もおおざっぱになら見当がつくし、あとは周辺を調べればいいだけ。強い血の匂いがそこかしこにこびりついてたしね……。僕のこの姿は――僕自身もよくわかんないや。


 イシュケは苦笑気味にぶるると頭を震わせた。その背後から黄色い陽の光が差し込んできて、リリーは慌てて背を丸める。


「イシュケ、来てくれて早々悪いのだけど、その箱を貸してもらえないかしら。メアリを……メアリを太陽から隠したいの。お願い」


 イシュケは翠の瞳を動かし、リリーの腕に抱きかかえられた金の鴉を捉えた。それから、ため息でもつきたそうな表情で、箱をそっと地面に置く。


 ――その鴉、君たちのこと、狙ってるんじゃなかったの?


「そう……だけど、死んでしまったわ。彼女は……わたしの乳母で……」


 従者(エキュワイア)だったかもしれない、とは、とうとう言えなかった。イシュケはやれやれと首を振って、鼻先を箱の鍵穴に押し当てる。ぴきぴきと氷の音がして、鍵がかちりと開かれた。


 リリーは静かに押し開けられた蓋の中を覗き込み、一瞬、言葉を失った。全身から血の気が引いていく。

 青い衣服が敷き詰められた中に、黒い蜘蛛の体が折りたたまれるようにして横たわっている。黒い体毛は体液に濡れ、背部は見るも無残に切り裂かれていた。


 ――大丈夫。まだ息はあるよ。でも、かなり危ない状況なんだ。


 茫然自失のリリーの方へ、鼻先で箱をすっと押しやる。


 ――梟との戦い、結果的には僕らが勝ったよ。レオが最後の力を振り絞って、あいつの眼を炎の光で焼いたんだ。文字通り、魂を削った。僕たちはね、力が空っぽになると、それだけで存命にかかわるんだ。ましてレオは、全身大ケガで……だけど、それを治すこともできないまま……


 リリーは黙ったまま、衣服ごとレオの体を箱から取り出した。ぴくりとも動かない、手のひらほどの小さな体。

 この姿の彼を見るのはずいぶん久しく感じた。いつもリリーのために人間の姿をとり、あるいは巨大化して、狩りをして、一緒に眠ってくれていた。本当は、これほど小さな蜘蛛なのに。

 リリーは鴉の体を箱に仕舞い込み、蓋をした。そして、左の袖を捲り上げ、むき出しになった手首にためらいもなく歯を突き立てようとした。


 ――何してるの!


 イシュケが慌てて鼻面をつっこみ制する。


「血を、あげるの。昔、彼が大怪我したときもそうしたら、意識が戻ったの。だから……」


 ――それにしたって、やり方ってものがあるでしょ!


 憤慨しながら氷を生みだし、薄く鋭い刃を生み出す。それを口に咥えてリリーに押しやった。


 ――せめてこれを使ってよ。深くやっちゃだめだよ。せっかく救われた命なんだから。


「だいじょうぶよ。ありがとう」


 気丈に微笑み、キンと冷たい氷の刃先を白い手首に押し当てた。ぷつりと細く湧き出た血を指先ですくい取り、膝の上のレオの口元へ、ぽとりと落とす。一滴、二滴、三滴……血はまるでその場から消失するみたいに、レオの体内へ吸い込まれていく。

 もう何滴めか、そろそろ手首がじんじんと痺れてきたころ、ひっくり返った蜘蛛の脚がぴくりと揺れた。


「レオ!」


 安堵が胸を駆け巡り、深いため息をこぼす。イシュケもほっとした様子で目を瞬いた。


 ――ほんとだ、すごいや。僕、ここまで瀕死になったことないから知らなかったけど、こんな風に回復できるんだね。


「ええ。きっとあなたも、いざというときはカイネに……」


 言いかけて、口を噤んだ。梟の襲撃直前までイシュケと交わしていた会話を思い出したのだ。

「イシュケ。あの……カイネのこと……」


 ――その話は、もういいよ。


 イシュケはぷいと顔をそむけた。


 ――僕の選択は、僕だけのものなんだから……


 そのときだった。リリーの膝の上で、突如レオが激しく痙攣を起こしはじめた。ひきつけのように震えていたのが、徐々に大きくのたうち回り、ついに膝の上から転がり落ちてしまう。


「レオ!」


 思いもよらぬ事態に、リリーはおろおろと手を伸ばす。そこをイシュケが突き飛ばすように蜘蛛から離した。


 ――なんだか嫌な予感がする……できるだけ離れて、リリー!

 

 レオは口から血を吐きながら背中で床を這いずり回っている。それがあまりに苦しそうで、見ているだけで胸底が冷たくなるような心地だった。


「とても苦しそうだわ……!」


 ――だからこそだ。わからないけど……もしかしたら、急に力が強く注ぎ込まれたから、錯乱しているのかもしれない。


 言いながら、イシュケはリリーの襟首をくわえてずるずると遠くへ引きずろうとする。「離して!」とリリーはもがき、襟首のレースがびりりと破けた。


「あなたの言うように、錯乱しているのだとしたら、一番苦しいのはレオだわ。ひとりになんてできない!」


 ――ばか、だめだ!


 ぴしぴしと、石床が凍りついていく。暴れる蜘蛛に向かって、白い霜がまっすぐに床を走っていった。


「何するの? やめて! お願いだから、レオを傷つけないで!」


 ――これ以上暴れないようにするだめだ! 君こそ自分が傷つかないようにしてよ!


 石床からぱきぱきと氷の壁が生じ、蜘蛛の周囲を覆う。


「だめ、やめて……!」


 レオが氷漬けにされてしまう。凍えてしまう……リリーは氷の壁にとびつき、拳を固く握りしめて力の限りに叩いた。


 ――リリー、今の彼は力が枯渇してるんだよ。リリーの血で、無理やり意識が呼び戻されたのだとしたら……最悪、君を食べようと襲いかかるかもしれない!


 それでもリリーは、その場から離れようとしなかった。


「お願い、イシュケ……氷を、解いて」

 透き通るような白い瞳が、まっすぐにイシュケを射抜いた。

「わたし、レオをたすけたいの」


 イシュケはしばしの間、沈黙していた。

 まさに今、彼の中で凄まじい葛藤が起こっていた。彼女を無理矢理にでも連れ去るか否か――彼女の安全と、彼女の望みと、自らの、欲……それが押し合いへし合い、せめぎ合い、イシュケの心を苛んだ。

 目の前の彼女はそれを知る由もなく、ひたすらレオを庇い、氷を砕こうと拳を叩きつけ続けている。

 イシュケはやり切れないように首を振り、ゆっくりと背を向けた。

 レオを覆っていた氷が徐々に溶けていく。


「イシュケ……ありがとう。……もうひとつ、お願いしてもいい?」


 ――お願いが多いよ、リリー。


「ごめんなさい。でも……メアリの体を巻き込みたくないの。これから何が起こるのかわからないから、メアリの体を持って、できるだけ遠くに逃げてほしい」


 イシュケは黙って首をかがめ、床に置かれた青い箱を口に咥えた。リリーは今、どんな顔をしているのか……見たくなくて、背を向けたまま、石小屋の跡地から離れていく。


 ――ああ。


 リリーに聞こえないように小さく、胸の内につぶやく。


 ――僕の気持ち、また、届かないんだね。


 見渡す限りの雪山。ここはバルシュタット城跡地からさらに登り詰めた頂上だった。

 雪を操り、リリーの気配を追って一心不乱にここまで来た。リリーのために命を投げうったレオを救ってほしかったというのももちろんだが、何より、リリーの無事をこの目で確かめたかったのだ。鴉に襲われているのなら、真っ先に助けに入りたかった。誰よりも早く。そうすれば、一途な彼女の視界にも、自分の姿をはっきりと映し出せると信じて……

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