第二十一話 この命、燃え尽きようとも
メアリは金色の瞳に地上の蜘蛛と馬を映し、そして空に羽ばたく赤い梟を見据えた。
「お嬢様、あの者はなんですか?」
「あれは……その……」
今この場で説明できるような単純なものではなかった。答えあぐねるリリーに向かって微笑むと、メアリはふたたび梟を睨む。
「なんにせよ、お嬢様のお命を狙う者ということであれば、容赦はいたしません」
そして、地上のふたりを冷たく見下ろす。
「ああ、忌々しい蜘蛛と……馬、ですか? また新しい者がお嬢様に付きまとって……本当、嫌気が差しますわね」
ばさりと黒いフードを後ろへ払う。艶やかな黒髪が風にあおられ、長い前髪がふわりとなびき……その下の醜い火傷の痕を露わにした。
――なんだ、おまえは。
梟が戸惑いの声を上げる。
――我に気配を悟らせぬとは……!
「生憎と、私は普通の鴉と違いますから。私の前ではいかなる猛禽類も天敵ではありませんわ」
背に生えた黄金の翼がはためき、ゆっくりと地上に舞い降りる。すっかり言葉を失ったリリーをそっと地面に降ろし、数羽の鴉を呼び寄せ、リリーの周囲につけた。
「そう警戒なさらないでくださいますか?」
メアリの声は、リリーを通り越し、その向こうで今にも飛び掛からんと構える蜘蛛に向けられる。
「私は確かに、お嬢様を取り戻しに参りましたけれど……今は、互いに争っている場合ではないでしょう? 何者か存じませんけど、あの梟が当面の敵ではありませんか?」
――おまえも、禁忌の従者か。
梟は信じがたいような、呆れたような、忌々しげな声で問う。
――おまえからも、あの穢れた巫女の気配がするぞ。
「巫女? 従者? なんのことでしょう……私はただ、お嬢様に仕えるもの。私が従者だとするならば、主はお嬢様ただひとりですわ」
メアリは優雅に振り返り、「ではお嬢様、そちらでどうぞお待ちくださいね」と人差し指を唇に当てて微笑んだ。
「すぐに片づけますから……私と共に帰りましょう。お屋敷へ」
そして彼女は黄金の光を纏い、瞬きの間に金の鴉へ姿を変えた。
――あの、君、金色の鴉……もしかして、リリーが言っていた……
戸惑うイシュケ。レオは無言を貫いている。
――まあ、誰にしたって心強いよ。あの梟、全然攻撃が当たらないから……
――そうでしょうね。ただでさえ相手は視覚と聴覚に優れた夜行種。蜘蛛と馬ではそもそも勝ち目などありませんもの。
――……ばかにしてる?
――ですが、勝ち目がなくとも勝たねばなりません。
突如矢羽根がふりそそぎ、全員がその場から飛び退った。直後、凄まじい風圧が頭上から叩きつけられる。
――片っ端からひとりずつ、などとは言わぬ……全員同時に処してやろう!
梟の周囲を舞う羽根が次々に合わさり、巨大な三本の槍に変貌する。その切っ先は、三人それぞれに向かって矢のように翔けた。
――メアリ、だっけ? 何か知らない? 弱点!
深紅の槍に追い掛け回されながら、イシュケが悲鳴のような声をあげる。
――僕、梟のことなんて知らないんだよ!
――弱点など、あるならば今頃……いえ、心当たりが、ないわけでもありませんが。梟は夜行種ですから……
槍は太く鋭く、それぞれを確実に追い詰めていた。走れば走るほど、どこまでも追ってくる。イシュケが分厚い氷の壁を張ったが、紙を破くかのごとく、いとも簡単に砕かれてしまった。
――それより、この槍をなんとかしないと!
――槍を、逆に利用してやればいい。
それまで押し黙っていたレオの声が響いた。
――三人で梟を一時的にでも捕らえる。そして……
――なるほど。時間差であいつを貫いてやるんだね。
二人のやりとりを聴きながら、メアリは夜空を旋回しつつ、不審そうに目を細めていた。
槍の追跡を躱し、空から降る矢羽根や風圧に耐えながら必死に勝ち筋を探す蜘蛛の姿に、ずっと違和感を覚えていた。やがてそれが、確信に変わっていく。
――蜘蛛の兵も、ずいぶんと落ちたものですね……いつからそれほどまでに力を失ってしまったのですか?
レオは答えず、槍に追われながらもイシュケの氷柱に糸を吐き、梟の元へと這い上がる。イシュケは雪の波に乗って、メアリは上空から急降下して、一斉に梟に飛び掛かった。
梟が例のごとく風圧で消し飛ばそうとするが、すぐそこに槍が迫っているのに気づき、急いで矢羽根を生成した。同様の槍を瞬時に作り出し、三人を吹き飛ばしながら槍を相殺する。
四本目の槍は相殺で砕けたが、中に埋まっていた細い芯は残っていた。梟が放った方向へ、そのまままっすぐに飛んでいく。
針のように細い槍は瞬きの間に駆け抜け、地上へ……リリーの方へ……
リリーの周囲の鴉たちは槍に気づいた瞬間から陣を作り、リリーの盾になった。だが細く鋭い槍の芯は鴉の盾をいともたやすく突き破り、リリーの胸を刺し貫いた。
ぱりん、と微かな音が響く。倒れるリリーの瞳に、砕けたブローチの破片がきらきらと瞬いた。それが、リリーの見た景色の最後だった。
白い雪の地に、碧血の染みが広がっていく。
凄惨な空気を打ち破るように、絶叫が響き渡った。蜘蛛か、鴉か、馬のものか――あるいは、その全てか。
この、肌をさかなでるような凄まじい熱風は、どこから湧き出るものだろう。
――イシュケ!
イシュケは一瞬、誰に呼ばれたのかわからなかった。脳を揺さぶるような、怒気と殺気に満ちた声……
――氷柱で奴を囲め! 可能な限り多く……
再び肌を熱気が差す。イシュケは全身が溶かされそうな恐怖を味わった。だが、彼の言葉に素直に従う気にはなれなかった。梟などよりリリーのことで頭がいっぱいだ。あんなに血が出て、今にも死んでしまうかもしれないのに、レオはなんとも思わないのだろうか?
まごつくイシュケに、再び怒声が降りかかる。イシュケは首を振って走った。視界の向こうで倒れているリリーへ向かって駆けながら、背後でいくつも氷柱を生みだす。雪の地のことは、視界に入れずともわかる。
白い雪の上に、夥しい黒と、痛々しい赤が広がっていた。倒れた鴉たちを鼻先でどけながら、倒れたリリーの傍に寄った。
胸のやや右がわに、細い矢羽根が突き刺さっている。無理に引き抜いては血が出すぎてしまうので触れはしないが、心臓だけは免れたようだ。
――レオ! リリーは心臓を射抜かれてはいないよ!
安堵のあまり、梟にも聞こえそうなほどの勢いで叫んでしまう。だが、聞こえているのかいないのか、レオは氷柱の間を凄まじい速さで行き交っている。
梟の奇声が聞こえる。黒い残像を相手に応戦しているようだ。メアリも隙あらば加勢している。イシュケは鼻先でリリーの頬をつついた。
――すぐに終わらせるから。ちゃんと、治してあげるからね。
そして上空を睨み、体を震わせる。ぴきぴき、と額に氷の角が現れ、蹄も氷に覆われる。そして雪煙をあげて走り出した。
氷柱に囲われた真ん中で、梟は目に見えていきり立っていた。翼を震わせ幾度も風圧で吹き飛ばし、矢羽根をまき散らす。だがふたりは一歩も引かない。レオの体は、よく見れば自らの体液に塗れ、全身が傷だらけだ。メアリも器用に避けてはいるが、梟の的確な眼と耳は、彼女の体に少しずつ傷を負わせていた。
レオはイシュケの氷柱を使い、縦横無尽に飛び交っていた。攻撃が梟に当たりはしないが、見えない翼があるかのように自在に飛んでいる。……いや、本当に当たらないのか? まるで、わざと避けているかのような……
イシュケの視界で一瞬、何かがきらりと強い光を放った。蜘蛛の糸のように細い光の線……いや、糸のようなのではない! これはまぎれもなく……
メアリも何かを察したらしい。梟の攻撃を躱しながらつぶやく。
――蜘蛛……あなた、まさか……
レオは氷柱につかまると、深く息を吐いた。
今からやろうとしていることは、自分の命を奪うかもしれない。周囲を巻き込み、馬や鴉まで傷つけるかもしれない。
だが、もはや構いはしない。
リリーが無事なら、リリーが助かるなら、リリーが生きてさえいてくれれば、それでいい。
梟の脅威がなくなれば、あの女王もリリーを傍に置き続けてくれるかもしれない。彼女を生かすためなら、自分はなんだってやる。
ふと、上空の鴉と目が合った。
まるで、こちらの考えを察したかのように、何気なくその場から飛び退る。――おまえも巻き込んでやりたいところだったが、仕方がない。
深く、息を吸い込んだ。体が熱い。魂の芯が熱暴走を起こしているかのようだ。自分のなかの、ほとんど尽き欠けている力を根こそぎ奮い立たせ、すべてを熱に……炎に変える。
暗い地の底で、この腕にリリーを抱いた感触が甦る。女王も馬も鴉も忘れ、ひたすら陶酔に溺れたわずかな時間……あの瞬間があらばこそ、自分は、己がすべてを、燃やし尽くすことができる。
体の内側が焼ききれそうなほどの凄まじい熱がうなりを上げ、口から、腹から、瞬く間に放出されていった。それは氷柱の間を縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の糸を一斉に燃え上がらせる。
狩りに長けた梟を糸で捕らえることはできない。ならば奴を、業火の光に縛りつけてやる!
糸の炎は凄まじい勢いで燃え上がり、その輝きは周囲の氷柱に反射して何倍にも強く照り輝く。
その光は、梟の鋭敏な眼を一瞬にして焼き尽くした。
耳をつんざくような悲鳴が響き渡る。最後のとどめ――レオは爪を振りかざして飛び上がった。瞬間、がくんと力が抜けた。――梟が、炎の海が、遠ざかる。
文字通り、全て尽きてしまったのか……
口惜しさに視界が歪む。そこへ、黄金の閃光が飛び込んだ。
鴉の剥き出しにした鉤爪が、炎に照らされぎらりと光る。その切っ先は悶え苦しむ梟の、のっぺりとした顔盤へ一直線に迫る。
炎に包まれた上空で、真っ赤な血潮が花火のように激しく迸る。それは梟の顔面と、鴉の腹部から噴出し、二羽は同時に落下していった。
そこで、レオの意識は途絶えた。




