第二十話 宵の梟
――見つけたぞ、禁忌の子よ!
脳内にわんわんと声が響く。赤い羽毛が舞い飛び、鋭い鉤爪がぎらりと光る。刹那、青ざめた透明な血しぶきがリリーの頬をぴしゃりと濡らした。
何が起こったのか、理解が追いつかなかった。自分を抱くレオの背が鋭く裂かれ、瞬く間に血の染みが広がっていく。
考えるより早く、体が動いていた。立ち上がり、レオを背にして両腕を広げる。眼前に羽ばたく巨大な梟を見据えて。
「宵の巫女――の、従者ですか」
情けなく震える声を必死に叱咤して言った。
「わたしは確かに、禁忌の存在かもしれません。ですがここにいるひとたちは、わたしとは全く関係ありません。彼らはわたしの境遇に同情し、滞在させてくれていただけです。だからどうか、処分はわたしだけにしてください」
「……ちが、う」「ちがうよ!」
レオとイシュケが同時に声を上げた。
「僕は彼女の従者だ!」イシュケが駆け寄ってきて梟を睨んだ。「リリーを殺したいなら、僕と戦え!」
「だめよ!」
叫んだのは、リリーではなかった。
全員の眼が一斉に後方に向けられる。いつからそこにいたのか――ネグリジェ姿のまま、肩で息をするカイネの姿がそこにあった。
「あなたたち、揃いも揃って……勝手なことは許さないわ」
静かな怒気に眦を裂き、次いで赤い梟を見上げる。
「私はここの主よ。罪人はリリーただひとり。私は身寄りのない彼女をここに泊めてあげていただけ。この子たちは関係ないわ。連れていくなら、彼女だけにしてちょうだい」
「いや、僕はリリーの従者だ、僕も同様に処すべきだ」
「何を言っているの⁉」
カイネが金切り声を上げる。混乱の状況を無理やり断つように、ふたたび脳内に声が響き渡った。
――いや、おまえは違う。おまえの魂の残滓はそこな巫女のものだ。
イシュケの顔がぎくりとこわばった。梟の視線が動き、今度は床で血を流すレオに留まる。そして、不可解そうに首をくるりと傾けた。
――おまえは……
「俺は、生憎と誰の従者でもない」血の噴き出す肩を抑え、レオが呻く。
――ほう。おまえの魂には覚えがあるぞ。
梟は忌々しそうに眼を眇める。
――かつて郷から追放された赤子のものとよく似ている……禁忌の子の、元凶の巫女だ。だが、その姿……離反したな。なんにせよ、おまえも穢れた魂を持つ者。生かしておくわけにはいかぬ。
「待ってください!」リリーは大慌てで叫んだ。「そんな……彼は、わたしの従者ではありません! 本当です!」
――黙れ!
空気を揺るがす一喝と共に、部屋中に突風が吹き荒れた。レオがリリーを庇うように覆いかぶさり、視界いっぱいに黄金の光が輝いた。黒い毛に覆われた巨体でリリーを抱き、開け放たれた扉から脇目も振らずに飛び出した。
「待って、レオ! だめ! お願いだからあなたは逃げて!」
声の限りに叫ぶ口が、優しい糸に塞がれる。暗い回廊を抜け、部屋をいくつも通り過ぎ、やがて大きく開いた窓を見つけると、リリーを抱きかかえたまま飛び降りた。
途中で何度も糸を吐きながら、壁面を伝って降りていく。だがそこへ真っ赤な矢羽根が降り注ぎ、レオの糸が断ち切られた。
――逃がさぬ!
恐ろしい声が響き渡り、四方八方から矢羽根が襲う。抱きかかえたリリーだけはかろうじて守れたが、避けきれない矢羽根の切っ先が蜘蛛の体を切り裂いた。
幾筋も飛ぶ青ざめた血潮に、リリーは声にならない悲鳴を上げる。だがレオは構わず中庭に飛び降り、一心不乱に走り出した。
*
「イシュケ……?」
部屋の中央で、白銀の一角獣が蹄を掻き、鋭い嘶きをあげていた。
「イシュケ、何をするつもり……」カイネがよろよろと部屋に踏み込んでいく。「馬鹿な真似はしないわよね?」
澄んだ翠の瞳がカイネを一瞥し、そして前を向く。
――リリーをたすけなくちゃ。
「どうして? これは取引なのよ。あの子に危険がせまったら、私たちは一切関与しない……そういう約束だったでしょう? さあ、こっちに来なさい。これ以上、あの子に関わっちゃだめ!」
――それは無理かな。
「無理ってなに? あなた、私の従者でしょう! 主人の命令がきけないの?」
イシュケの足もとで、ぱきぱきと氷の割れる音が響いた。銀の蹄が白く輝き、煙った冷気がまとわりつく。
――僕だって、契約なんかなくたって、誰かに惹かれて……愛することができるんだよ。
涼やかで、柔らかな声が脳内にこだまする。白銀の一角獣はふたたび嘶き、砕けた窓から高らかに飛んだ。
カイネはその場にくずおれ、へたりこんだ。顔色を失い、呆然と窓の外を見つめたまま。
後ろからイグニスが駆け寄り、肩に手をかける。
「クイーン……とにかく今は、安全な場所に行きましょう。事が落ち着くまで城の外に――」
「イグニス、イシュケを……イシュケとレオを連れ戻して」
白い唇が戦慄き、声を振り絞る。イグニスはぐっと唇を噛み、黙って首を振った。
「どうして? あなたも私の言うことがきけないの?」
「申し訳ありません……でも、オレにはどうしようもできません」
「何よそれ」泣きそうな顔に薄い笑いが浮かぶ。「レオはともかく、イシュケは私の従者なのに……こんなのおかしいわ。ありえない……」
「イシュケは、確かに従者でした。ですが……」
イグニスは窓辺に寄って、下を見下ろした。
氷を纏い、周囲の雪をうならせながら走るイシュケの姿が見える。だがその姿は、みるみる間に変貌を遂げていた。白銀に輝くたてがみは光を失い、灰色の体毛が露わになる。額の角も霞がかり、今にも消えそうだった。
「どういうこと……」カイネも横に来て、蒼白な顔で身を乗り出していた。「どうして……あの姿は……」
「オレは、従者の契約について、クイーン以上の情報は知りません。ですが……もしかしたら、あいつの契約は、破れかかっているかもしれません」
「そんなこと、あり得ないわ!」イグニスの言葉を拒絶するように激しく首を振る。「あり得ない……聞いたこともない! 従者が自ら契約を破るなんて! そんな……そんなこと……」
だが、見る間にイシュケの体から輝きが失せていく。三百年前、出会った当時の姿に返っていく。
従者は、契約によって得た力の影響で特異な姿に変貌する。それを失った、いや、かなぐり捨てたのだ。カイネの命令より、リリーを守るという自らの我を通して。
「どうして!」
身を乗り出し、窓枠を掴む。割れたガラスの切っ先が手のひらに食い込み、赤い血が筋を引いた。
「あなたは、私を愛しているのではなかったの⁉」
〝僕だって、契約なんかなくたって、誰かに惹かれて……愛することができるんだよ〟
脚からがくりと力が抜けた。視界が真っ暗になったような心地だった。
「クイーン」
石床にへたりこむカイネの肩を、背後からイグニスが強く抱き包む。
「オレがいます。オレは、ずっと……ずっと、あなたの従者です」
「従者……」
その言葉が、急に恐ろしく危うげなものに思えて、カイネは両手で顔を覆った。
「わからない……わからないわ……そんなの……もうなんの証にもならない……」
契約したのに、離れたイシュケ。
契約してもいない相手を、頑なに守ろうとするレオ。
その事実がカイネの中の何かを根本から打ち崩そうとしていた。
雪しぶきを上げ、力の限りに走る。糸を吐き、飛びながら中庭を駆け抜けようとするが、矢羽根のしつこい追跡に、レオはとうとう転がるように道を逸れ、雪の上にリリーを離した。
「待って、レオ!」
口元を縛っていた糸を解き、リリーが叫ぶ。
「だめ、逃げて! わたしがいれば、あの梟はきっとわたしを優先するわ。だから――」
刹那、頭上にくろぐろと影が落ち、巨大な梟が翼を広げて旋回した。
――ああ、リリー。この期に及んでもなぜわからない……
伝わらない声と共に糸を吐き、夜空へ飛び上がる。爪の先に炎を宿し、梟へ向かって振りかざす。
――あなたのいない生など、俺には必要ないのに。
爪は宙を掻き、炎の残像が尾を引く。梟は、まるで体中に目でもあるかのごとく、蜘蛛の攻撃を軽々とかわし続けていた。
――我は梟……おまえは我が夜に狩られる虫けらにすぎぬ!
咆哮と共に鉤爪がぎらりと光る。そのとき、〝レオ!〟と叫ぶ声があった。
梟の背後で雪煙が津波のごとく打ちあがり、梟を押しつぶさんとする。不意を突かれた梟に、ふたたび炎の爪が差し迫る。その真っ赤な顔盤を切り裂く寸前、梟の体が凄まじい勢いで回転し、風圧がすべてを弾き飛ばした。
吹き飛ぶ蜘蛛の体を、雪の波が受け止める。灰色の馬が駆け寄り、鼻先で黒い巨体を軽く突いた。
――大丈夫? 戦える?
見覚えのない体毛の馬に一瞬めんくらったものの、レオはすぐさまその正体を理解した。
問題はない。まだ、振り絞る力はある。
その時、再び脳内に恐ろしい怒声が響き渡った。
――その姿……おまえも離反したのか、この駄馬め!
赤黒い眼が灰色の馬を睨み据える。イシュケも負けじと睨み返した。
――離反? 契約破りって言いたいの? それなら、そうだよ。僕はもう、契約に縛られるのをやめたんだ!
地鳴りが走り、幾筋もの氷柱が積雪を突き破り伸びていく。レオは氷柱に糸を吐きつけながら飛び上がり、頭上で構える梟へ一気に距離を詰めた。
――従者の道を外れし者どもよ……
爪の斬撃と氷の礫を脅威的な動きですべて躱し、翼を広げる。夥しい数の矢羽根が一度に吹き荒れた。
――己が穢れを恥じよ!
レオは落下しつつも咄嗟に糸を吐き、体を繭で覆った。だが、氷柱を駆け上っていたイシュケは無防備だった。氷柱の氷をあやつり盾にしたが、凄まじい数の矢羽根から庇いきれるものではない。
蹄が滑り、氷柱から落下する。雪の波が彼の体を受け止めたが、刹那、頭上から深紅の雨が降り注ぐ。
イシュケの視界に、白い背中が飛び込んだ。両腕を広げ、矢羽根の雨を受け止めようと立ちはだかる。
繭を破り、レオが駆け寄る。イシュケは息をするのも忘れてもがいた。
矢羽根がリリーの体を貫く寸前、黄金の風が吹き抜けた。イシュケの体に突き上げるような衝撃が走り、雪の上を派手に転がる。直後、何もない雪の地面をどさどさと矢羽根が串刺した。
リリーの足は宙に浮いていた。誰かに抱きすくめられている。ばさりと羽ばたく音がして、リリーは首を振り向けた。――そして、我が目を疑った。
「危ないところでしたね」
気品のただよう、慈愛に満ちた優しい声。美しい微笑。たおやかな白い指先が、リリーの頬を愛しげに撫でる。
「間に合ってよかった……お嬢様がこちらにおられるだろうと察しておりましたが、邪魔な靄が雪山を覆って入れませんでしたの。ですが今、それが晴れて……そして、助けを求めておられる声を感じることができましたわ」
「メ、アリ……」
リリーの乳母であり、魔女からの使命を守るものであり、かつてリリーを騙し、偽りの家族で囲い込もうとした金の鴉……その長である彼女が今、背後に夥しい数の黒い鴉の群れを従えて、リリーを抱きしめていた。




