第十九話 一角獣の告白
「はい、リリー」
イシュケがティーポットからたっぷり湯をそそぎ、湯気のたつカップをリリーに手渡した。
「ほんとにただのお湯でいいの? お茶とかミルクとか、なんでもあるのに」
「ありがとう。これでいいの。眠る前に飲むと、なんだかほっとするし……」
「まあ、君がそう言うならいいけど」
暖炉の前に置かれたソファに座り、熱い湯を啜る。舌が痺れるくらい熱いのが、ありがたかった。
ソファの端に身を寄せるのは、すっかり習慣になっていた。イシュケはいつもその空間に恐縮し、リリーが声をかけてから遠慮がちに隣に座る。だが、今日は違っていた。彼は自ずから隣に……リリーの肩と肩が触れあう距離に腰を下ろしたのだ。
「あのさ。日記の内容、覚えてる?」
「ええ。だって……最後まで声に出して読んだんだもの。しばらく忘れられないわ……」
「そうだよね。実は僕もあれからずっと、日記のこと、考えてた」
イシュケは膝の上に手を置き、じっと俯く。
「クイーンの母親は、執事のこと、愛してたのかな。わざわざ忍び込んで下界の人間のふりをして……汚い仕事に手を汚してまで、彼に尽くしてさ」
「わたしはイレーヌさんじゃないからわからないけれど、きっと愛していたにちがいないわ。そうでなくちゃ、何が彼女をそこまで突き動かしたのかわからないもの」
「でも、愛は返ってこなかった」イシュケの声は、思いつめたように深く沈んでいた。
「彼女は彼に、愛してほしかったはずなんだ。それなのに、あの日記にはとうとう最後まで、愛してくれなかった男への恨み言は書かれていなかった。それが不思議で……どうしても気になってたまらないんだ」
――〝私は彼の人生に欠片も爪痕を残せなかった。私など初めから必要なかった〟
見ず知らずの故人の言葉なのに、まるで激しい悔恨の声が耳にのぼってくるようで、リリーはぎゅっと目を閉じ首を振った。それからうなだれるイシュケに向かって優しい笑みを向ける。
「イシュケ。あなたはカイネを愛しているわね」
イシュケは顔も上げずに黙している。リリーは構わず続けた。
「もしもカイネがあなたの愛に応えなかったとして……ああ、例えばの話よ、大丈夫。……でももしそうだったら、あなたはカイネに、恨み言を言うの?」
「リリーはどうなの」
即座に聞き返され、一瞬面食らった。
「わたしは……どうかしら。でもきっと、言えないわ。悲しくはなるわね……彼のなかにわたしはいないんだって、ただそれだけが、つらくて苦しい……そして、そんな自分が嫌いになるかも」
「……〝彼〟、ね」
一瞬ぽかんとし、すぐにハッとするリリーを愉快そうに眺めて、イシュケは続ける。
「ふたりはさ、どうして旅をしていたの」
「……え?」
「旅、してたんだよね。二年も。初日、クイーンにそう言ってたじゃない。ふたりでお屋敷を抜け出して、金の鴉? 追っ手? から逃げて……」
「それは、……わたしたちの失った時を取り戻すためよ。脱出するまでの長い間、狭い世界に閉じ込められていたから」当時のことを思い出し、しんみりと噛みしめる。「それになにより、一緒にいたかったの。ひとりだったら、きっとどこへも行けなかったわ」
「当たり前のように言うんだね。契約もなしに、半分人間の巫女……いや、巫女混じりの人間かな? が蜘蛛とふたりきりで過ごしていたなんて、僕には到底、理解できないよ」
イシュケの眼がすっと細められる。リリーは一瞬、目の前の少年の笑顔が知らない誰かのものに見えて、背筋が寒くなった。
「契約なんて関係ないわ。そもそもわたしにそんな能力は使えないし……ただ、わたしが一緒にいたかったの。それだけよ」
「ふうん。――好きなんだね、彼のこと」
「ええ。好きよ」
「あはは、その言い方はわかってないなあ。僕が言いたいのは、番いとしてってことだよ」
リリーは見開いた目でイシュケを見つめながら、「番、い」と繰り返した。
「そう。僕、最初に君たちを見たとき……羨ましくて、妬ましくて……死ぬほど、心が燃え上がった。心の火に全身が溶かされそうだった……」
イシュケの言葉の意味がすぐに呑み込めず、リリーは固まっている。ぱちんと炎が爆ぜ、イシュケは暖炉に視線を投げた。
「山道のなか、君はことあるごとにあの蜘蛛のことを見つめていた。彼自身を欲するように、何度も何度も……彼も同じさ。君が気づいていないところでずっと君を見ていた。瞳を交わすこともなく、想いあっているさまが、ひどく羨ましくて……腹立たしくて。僕の想いは果たされないのに、彼らは成就している……そう思ったら、心が一気にどす黒くなってさ。気がついたら、僕の力が暴走していた。吹雪が津波みたいに押し寄せて、ふたりに襲いかかっていたんだ」
「では、あなたがあの吹雪を……!」全身の血が凍りつくような衝撃だった。「あそこにいた一角獣は、あなただったの?」
「すぐに我に返ったよ。そしてさらに絶望した。僕の暴走は君たちを凍てつかせるどころか、さらに強固な絆を見せつけられた……絆なんて生やさしいものじゃないな。愛……そう、愛だ。互いにかばい合って……彼は力を振り絞って、魂を削りながら君を守った。巨大な、黒い繭……僕の吹雪や氷の礫を溶かし、はじき返すあの繭が、君たちを強く覆って離さなかった」
炎の影の揺らめく瞳で、まっすぐにリリーを射る。
「君たちが来てから、僕はだんだんわからなくなっていった。クイーンの従者として三百年、ここで暮らして、彼女を愛して……彼女に愛されているつもりでいた。だって契約したんだ。あの瞳に魂を持ってかれて、血をもらって……その瞬間がとても幸福で。彼女のために力を使って消耗した夜は、いつも口づけてくれた。口づける瞬間、彼女は僕を見るんだ。僕だけに眼差しを注ぐんだ。それがたまらない快感で、ほしくてほしくて、僕は兄と争うようになった。あの瞳に見つめられていないと不安になるんだ。瞳を向けてもらうためならなんでもやった。それが僕の愛だった!」
肩を震わせ、頬を上気させながらイシュケはまくしたてた。
「でも、クイーンは僕を棄てた。見知らぬ女の子の面倒を見ろって言う。正直、君を厭ましく思ったよ。でも……君は優しかった。別に僕を愛しているわけでも、契約しているわけでもないのに、その眼差しは僕のなかに不思議な感覚をくれた。クイーンと同じ瞳なのに、全然違うんだ。その意味を一生懸命考えて……そして、わかったんだ。クイーンの瞳にはいつも哀れみとか、軽い侮蔑があった……雪山を管理するにはうってつけの能力だけど、彼女を温める力の無い僕だから……彼女の扱いはいつも都合が良くて、気まぐれだった。だけど君はただ僕を、僕として見ていた。それは初めての経験で……それに気づいたとき、君といるのがとても心地よくて、なんでもしてあげたいって思ったんだ」
「カイネは、あなたを……愛していなかったの」
イシュケは眼を伏せてふっと笑った。
「君とレオこそが愛だというのなら……きっとクイーンは、誰のことも愛していないよ。僕たちはあくまで巫女の従者で、自分のために役に立ってこその存在だし、役に立つからおいておきたいんだ。だからぬくもりをくれる兄を気に入っている。冷たい僕は、巫女の仕事をするとき以外はいらないんだ。これも……君に出会わなければ、わからなかったよ。心の底にあるもやもやした気持ちに気づかないまま、寿命を迎えていたかもしれない」
イシュケは顔を上げ、にっこり笑った。屈託のない、純度の高い笑み……だがその奥は深い悲しみに満ちて、今にもあふれかえりそうだった。
「ねえリリー、クイーンとの取り引きだけど……もし君が郷に見つかったら、僕も一緒に行くよ。君が処刑されるなら僕も一緒に死にたい。囚われるというなら、永遠にそばにいるよ。レオはここに残って、クイーンの従者だと言い張れば安全だけど、君はひとりで立ち向かわなきゃいけないなんて、心細いでしょう」
「何を言っているの?」リリーは急いで首を振った。「そんなことをしたらカイネが悲しむわ。わたしはひとりでいいの。レオもみんなも無事で迷惑はかからない……そのために呑んだ取り引きなのに」
「悲しむもんか! 僕の話、きいてた? クイーンは僕がいなくなったって平気さ。正直、巫女の務めとか、そんなものも彼女にとってはどうでもいいんだよ。クイーンはただ、永い人生をどう楽しく生きられるかしか考えていないんだ。そのために自分を温めてくれる兄が必要で、レオも欲した……僕はいらない。いらないんだ!」
細い腕がリリーの肩を抱く。華奢な少年の体から想像もつかないほど強い力で縋りついてくる。
「お願い、リリー。僕も一緒に連れて行って。いや、君が拒んだって一緒に行く。僕は君の従者だってはっきり言ってやる。なんなら、攫いに来た奴と戦ってやるよ! だから……」
「そんなの絶対、だめ!」
縋りつく腕をふりほどき、勢いよく立ち上がる。
「イシュケ、あなたが要らないなんて……そんなの絶対間違ってるわ。あなたのこと、とても好きだけど、カイネだってきっと思ってるはずよ。永い……あまりにも永い時間が、逆に言葉足らずにしてしまっているだけで」
「ちがうよ! ああ、リリー……君にわかるはずもないか。同じ寝室で、兄ばかり労わられて、傍に置かれて、触れられ、撫でられ、口づけられ、瞳を向けられる気持ちが! それでも愛されてるなんて、それなら愛ってなんなの?」
美しい銀髪を両手でぐちゃぐちゃに掻きむしる。
「兄が羨ましかった……妬ましかった……それに必死に蓋をして生きていた僕の目の前に、君とレオだ! ああ、レオが羨ましいよ。あのとき君は、躊躇いながらも迷わず取引を呑んだ……好きなひとに命までかけてもらえるなんて、そんな愛、僕は知らない……」
リリーはかける言葉も見つからないまま立ち尽くしていた。小さく丸められた華奢な背中……いつも天真爛漫で、朗らかに笑っていた少年が、その顔の下でこれほど苦悶していたなんて……
しばし経って、リリーはぎこちなく彼の目の前にしゃがみこんだ。
「イシュケ。……わたし、あなたにも死んでほしくないのよ」
努めて優しく、諭すように語りかける。
「さっき、わたしの従者だと申し出るって言ってくれたけれど、誰にもそんなことしてほしくないの。取引に応じたのはもちろんレオを救うためだけど、それと同じくらい、あなたにも傷ついてほしくないわ」
イシュケがわずかに顔を上げた。乱れた前髪がはらりとこぼれ、その向こうで大きな瞳が不安そうに揺れる。
「だから、お願い。もし、郷からお迎えがきてしまっても、わたしのことはどうか知らないふりをしてね。カイネが身寄りのないわたしに同情して、保護していただけだと……そう言ってほしい」
「でも、そうしたら、リリーが、連れ去られる……死ぬかもしれないんだよ」
「わたしだっていやだけど……怖いけれど、でも逃げられないのなら仕方ないわ」
――ぜんぶ、受け入れるつもりよ。
そう口にした瞬間、勢いよく扉が開いた。リリーもイシュケもはじかれたように戸口を見る。扉を開け放した格好のレオと、仏頂面のイグニスがそこにいた。
ぽかんと口を開くリリーへ向かって、レオがつかつかと勢いよく歩み寄る。慌てて立ち上がるリリーの肩を強引に掴んだ。
「今の話を、もう一度」今まで聞いたこともないような、恐ろしく低い声。「誰に命を狙われていると?」
後ずさりたくても動けない。肩を掴む手は痛いほど強く、びくともしなかった。
「それが昨夜の話の続きなのか?」追い詰めるように問う。「あなたが俺を遠ざけた理由も……」
「それしか方法がなかったの。何もしなければ、あなたはみすみす殺される……」言いながら、必死に目をそらす。この眼を見れば、彼に心の内を読まれてしまう。だがレオの両手がリリーの頬に手をかけ、強引に引き上げる。彼の瞳に真正面から捉えられ、みるみるひきつるその表情に、リリーは身をこわばらせた。
「そんなことをして、俺が喜ぶとでも!」
張り詰めたような声が響き、肩が大きく揺さぶられる。
「あなたを踏み台にしてまで生きる命など俺はいらない! 預けるだと……俺はあなたの何なのだ。何もかも、ひとりで勝手に決めて、それで俺を救った気でいるなど……冗談じゃない!」
ぎりぎりと、指先が肩に食い込む。今にも血が滲みそうな痛みにリリーは声も出なかった。リリーを万一でも傷つけないよう過剰に気遣う彼が……一度も声を荒げたことのない彼が、見たこともないほど激しく気色ばんでいる。
激情に揺れる黒い瞳と、慄く白い瞳……誰も何も、言わなかった。
ふいに、肩を掴む手から力が抜ける。黒い瞳が伏せられ、重苦しいため息が唇からこぼれ出た。
「昨夜、あなたは『言えば反対する』と言っていた」
うなだれたような、何もかもを諦めたような声が床に落ちる。
「反対するとわかっていて、その理由も自覚してなお……俺を手放すつもりだったのか」
口を噤むリリーに、もう一度深いため息をつく。それから改めてリリーの肩を掴む手に力を籠め、「……わかった」とつぶやいた。
「俺は今すぐここを出る。あなたを連れて。無理やりにでも」
リリーはばっと顔を上げた。
「だめ! そんなことをしたって追手からは逃れられないし、そもそも、また鴉が……!」
「俺が戦う。はじめからそうするべきだった。こんな雪山の、得体のしれない者たちに頼るのではなく……あなたを狙うもう一つの追手とやらも、来るなら俺が」
「それはあなたの身を犠牲にするってことよ。人のこと言えないじゃない!」
「俺は死を受け入れたわけじゃない。いざとなれば命を投げうってでもあなたを守るつもりでいるが、俺は最後まで、あなたの傍にいたいんだ」
血のにじむような声が尾を引き、辺りは水を打ったように静まり返った。瞬きひとつ、呼吸ひとつ……すべての時が止まったように静止している。
凍りついた空気を割ったのは、小さく息を呑む音。ソファにうずくまっていたイシュケががばりと立ち上がり、驚愕の眼で窓の外を凝視していた。
「何か――来る」そうつぶやきながら、わけがわからないというように首を振った。「雪がうねってる……大きい……それに、速い……!」
「おいイシュケ、なんだそれは。いつになく精度が荒いぞ。何が来るって?」
「わからない……速すぎて……それに、こんな力……」
戸惑うリリーの背後で、窓がぴしりと音を立てる。瞬間、イシュケが蒼白な顔で叫んだ。
「みんな伏せて!」
空が爆発したかのように窓ガラスが炸裂し、リリーはレオに抱かれて床に転がった。
ばらばらと降り注ぐガラスの雨……その向こうに燃えるような赤が羽ばたく。のっぺりと広くまるい顔に獰猛な眼がぎらりと輝き、鋭い嘴が開いた。




