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宵の巫女  作者: シュリ


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第十八話 その瞳に溺れ

 その日の夜、扉の軋む音と共に、イグニスは気怠いうたた寝から目を覚ました。

 侵入者の気配には敏感なのだが、どうも違う。見れば、いつも部屋の隅でうずくまり眠っているはずの蜘蛛がいない。

 イグニスは四つ足のまま、首元にマントを引っ掛け、角で扉の取っ手を引っかけて外へ出た。暗い回廊の向こうに背の高い人影がある。主人の眠りを妨げぬよう、できるだけ音を立てぬように注意しつつも気は急いていた。

 回廊を抜け、別棟へ続く廊下へ出る。イグニスは角を構えた。


 ――おい、蜘蛛!


 そう叫びながら突進する。レオは声に振り返り、鋭い角の先を器用に躱した。……が、角の切っ先を躱しきれずに衣服の一部が破け、衝撃で大きく転倒する。


「なんだ、おまえ」


 呆れたような声。イグニスは銀髪の少年の姿をとるとしゃがみこみ、体勢を崩したレオを馬鹿にしたように見下ろした。


「ずいぶん弱くなったな。初日のおまえを思えばこれくらい、普通に躱せただろ」


 言いながら、ふと気がつく。怪訝な顔で手を彼の額に近づけようとして、強くはね除けられた。

 その一瞬ですべてを察してしまった。


「力、もう底を尽きかけているんだな」


 レオは答えず、立ち上がろうとする。それを無理矢理押さえつけた。


「せっかくクイーンがおまえを気に入り……気遣って、力をやると言っているのに、いつまでも意地を張っているからだ。おまえの無能な前の主人に頼ったところで、力をもらえるのか?」

「……おまえには関係ない」


 冷たく言い放ち、腕に力を込める。だがイグニスの腕はびくともしなかった。


「今のおまえじゃ、オレをはね除けるなど不可能だ、このうすのろ。このまま答えろ。おまえはどこに行くつもりなんだ? 夜中にたびたびどこかへ行っているよな。夜中どころじゃない、昼日中も気づけば姿を消している。おまえ、クイーンの従者になるんだろ? そんなことが許されると思うのか」


「何度も言っている」レオは静かに声を荒げた。「おまえの女王と契約を交わすつもりはない。(かしず)くつもりもない」

「なんだと。クイーンを侮辱するのか!」

「俺は(はな)からおまえたちなどどうでもいい。リリーが何を聞かされたのかは知らないが……これからリリーと話す。場合によっては無理矢理にでも彼女を連れてここを出て行くつもりだ」


 イグニスははじめ、怒りに顔を赤くしていたが、徐々に戸惑うような目つきになり、「……それほどまでに、あの小娘が大事なのか」 と、信じがたいような声を発した。


「契約も交わしていない、ただのエセ巫女が……? クイーンを前にしても?」

「おまえの主人の眼など、いくら見ようが何も感じない。俺ははじめから終わりまで、リリーについていく。それだけだ」


 イグニスはレオを押さえつけたまま、しばし言葉を失っていた。何か大きなものを丸飲みしたようだった顔が徐々にゆるみ、下を向いて肩をふるわせた。


「く、くくく……っははははは!」


 いつも寡黙で仏頂面、口を開けば文句か女王礼賛しか出ない少年が、盛大に笑い転げている。その珍妙な光景はしばらく続き、やがてイグニスは笑いすぎて滲んだ涙を拭い、ようやく息をついた。


「ああ、そうか……ああ、よかった……」


 何を言っているのかわからず訝るレオに、彼は初めて相好を崩して見せた。無邪気なイシュケのものとは違う、理知的で計算高い……だがどこか陶酔したような笑みだった。


「これでオレは、おまえを恨まずにすむ。厭まずにすむ……ただでさえあの弟がいるのに、愛想のない蜘蛛男まで加わったとなれば、クイーンの心はあちこち移り変わる一方だ……しばらくは新入りのおまえを寵愛するだろう。そう思うだけでオレは……オレは、死にそうなくらい苦しかった」


 ふらりと脱力したようにイグニスが座り込む。レオと対面し、ふっと自嘲気味に笑った。


「必死だと、馬鹿にしたきゃすればいい。ああ、オレは必死だ……クイーンはオレを美しいと毎日言うが、オレは醜い……醜男だ。彼女の眼を……あの瞳を自分の方へ向けるために一心不乱で、まるで道化さ。三百年前に戻れるなら、あの瞳に射貫かれ血を喜んで受け入れる前に、負傷した足で道ばたから転落して死んでしまった方がマシだったと思うくらい、毎日毎日……苦しいんだ!」


 彼女がイシュケに向ける瞳も、レオを欲する言葉も、リリーを呼ぶ声も、何もかも、ほんとうは独り占めしたかった。彼女をどこか遠いところに連れ去り閉じ込めて、自分がいないと何もできないようにして、昼も夜もわからぬくらいに抱きしめて……そんな衝動に駆られながらも、それができぬ現実に嘆き、一日の終わりに彼女の労いの口づけを受けるだけで心を満たしていた。


 魂を振り絞るように吐露し、肩を上下させるイグニスを、レオは口を閉ざしたまま見つめていた。いや、彼を通して思考は別の場所へ飛んでいた。


「それは本当に、契約を交わした故なのか」


 ぽつりとこぼした疑問に、イグニスは答えられなかった。不意を突かれたように宙を見、そしてうつむく。


「……わからない」

「おまえの中には、俺と似通うものが根ざしている、と感じる瞬間がこれまで何度もあったのだが。それも契約の所為(せい)というならば、契約とは、恐ろしい呪いだな」


 瞳に魅入られ、瞳を欲す……瞳に飢え、血を甘受する……たった一度のきっかけがその者の人生を狂わし、陥れ、生涯出られぬ禁錮に処すのだ。

 呪い、と言われ、イグニスがまた怒り出すかと思ったが、彼は意外にも肩を落とした格好のまま、ぼんやりと石床に目を落としていた。


「……呪い、か」再び、自嘲気味に笑う。

「いいさ。それでも。その呪いが、今は愛おしい……どうしようもなく、そう感じてしまうんだ。オレはもう、どこにも戻れないんだよ、レオ」

 白銀の長い睫毛が伏せられ、彼の脳裏に昼間の光景が甦った。


 ――ねえ、どこにもいかない? あなたは、私を愛しているわよね?


 弟も、蜘蛛も、小娘もすべて追い出し、自分と女王のふたりだけ……あの日記の凄惨な内容に心を痛めた彼女は、その痛心を慰めるのに他の誰でもなく自分を選んだ。その事実はこの心を甘く震わせ、高揚と陶酔を生んだ……


「レオ。おまえが小娘とここを出て行きたいというのなら、その説得に手を貸してやろう」


 つと立ち上がり、顔色の悪い蜘蛛の男を見下ろす。


「オレはおまえが嫌いだが、おまえはオレと同類だ」


 同類、という言葉に複雑そうに顔をしかめながらも、レオもまた立ち上がり、服の裾を軽くはたいた。


「ひとつ、忠告しておいてやるよ」

 歩廊を歩きながら、おもむろにイグニスが口を開いた。

「あの小娘とこれから先も生きていくつもりなら、おまえの魂に力を定期的に供給する方法を考えておけ。いつか死ぬぞ。そう遠くないうちに」


 レオはその場で歩を止めた。イグニスもつられて止まる。


「なんだよ」

「……毎晩、おまえたちがしている方法以外に、供給手段はないのか」

「それは……」イグニスの頬にやんわりと赤みが差した。「知るかよ。オレはただ、クイーンが望むままにしているだけだ。そして本当に魂が満たされる。クイーンがこうすればいいというのなら、それでいいんだ」

「俺は、誰ともそんなことはしていなかった。それでもこうして、力を使いながら生きながらえてきた……」

「そもそもおまえと小娘は契約関係じゃないんだろ。おまえが弱体化したのが小娘と離れてからというのなら、おまえが特殊体質で、小娘からなんらかの形で力を吸収していたと考えるのが自然じゃないのか。いやそもそも……クイーンの方法以外にもあるのかもしれないが……」


 そこで一度言葉を切り、雑念を振り払うように頭を振る。


「まあ、ともかくおまえがこの先もあの小娘と共に生きて、小娘を守りたいというのなら……考えておいた方がいいぞ。力を多量に失ったとき、小娘から補給する手段をな」


 レオはじっと足元を見つめて考え込んでいた。

 リリーの手が、自分の頬を包み、髪に手を入れ、唇を寄せる……その光景が一瞬、頭をよぎり、全身にざっと熱い血が上った。

 ここの巫女と従者がどういうつもりであれ、自分たちにとっては人間の(つがい)の証だ。決して許されることではない……なんと愚かで、罪深い幻惑か……彼女は、魔女の黒い手記でそのむなしさを知っている。番の証に嫌悪感を抱いてさえいるのに。


 ここに来る前までも、自分はどうにか力を得てきたのだ。おそらく、リリーの傍に寄り添うか、直接触れるかすれば、どんな原理か知らないが可能にしていたのだと思う。昨夜も穴に落ちたとき、全身で彼女に触れた瞬間、えも言われぬ高揚を感じた……たびたび襲っていた目眩も消え去り、体の底に少しばかり力が湧き出すような感覚もあった。


 番の証など必要ない。リリーが必要としない限り、自分から踏み込むことなど絶対に、ない。

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