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宵の巫女  作者: シュリ


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第十七話 青の本 二

 おまえは棄てられた――渾身の言葉がまるで耳に入らなかったかのように、彼はベッドを抜け出し扉に向かって走り出した。仕方がないのでフェリスに命じ、心臓を凍りつかせてしばしの間、寝かせることにした。

 しばし……幾日……ルーウェンのやつれたような寝顔を眺めて過ごした。なぜ私が……悠久の時を生きる巫女が、人間の、それもこんな枯れた男の笑顔を見るだけのために……と忌々しくなり、彼の薄い腹を叩いて八つ当たりをし、だが日を追うごとにもの悲しさが募って、凍りついた男の体に縋りついた。この男を返したくはなかった。一生ここに閉じ込めて……だが、閉じ込めている限り、ルーウェンは笑わない……そのこともわかっていた。


 ある夜、雪山の異変にフェリスが気づいた。バルシュタット城が何者かに襲撃を受けている、と私に告げる。

 城を巡って争いが起こるのも、そのせいで代替わりをしたり領地が丸々滅亡するのも、何も珍しいことではない。「そうか」と言って忘れた。大地の安寧をはかるのが巫女の役割ではあるが、一方だけを守り続けはしない。争い合うのも人間の摂理、放っておくべきときは放っている。

 何より、私は人間同士の些細な争いなど気にもならぬほど、気がかりなことがあったのだ。


 人間の暦がひとつ巡り、凍てつく山の雪もいくらか柔らかくなり始めるころ、私の疑念は頂点に達した。

 巫女が自らの手で人間を故意に殺めたというのに、郷からなんのおとがめもないのはどういうことだろう。

 怒りに身を任せ、私は男一人、女一人、幼子を一人殺害した。巫女にとっての禁忌のひとつ――人間の命を奪う罪を、一夜にして三度も犯したのだ。私が郷を出る前、健在だった〝宵の巫女〟は何をしている? 私の罪をなぜ問わない? その千里眼は、巫女イレーヌの愚行だけを都合良く見逃したとでもいうのか?


 疑念は混乱を生み、恐怖を生み出した。冷たいルーウェンの腕のなかに潜り込み眠る日々が続いた。もはやルーウェンとフェリスの存在だけが私の確かな足場となり、その上で私は孤立していた。

 あるとき、私はとうとう、ルーウェンに施した氷の眠りを解いた。彼は目覚め、私の姿をみとめると寝ぼけたように「おはようございます」と言った。その微笑みの、なんと美しかったことだろう。

 彼は不思議そうに私の家を見渡していたが、やがて何もかも思い出したように青ざめていき、私が止める間もなく家を飛び出した。


 フェリスに乗って彼を追う。初老の男の足は雪豹に適わない。だが彼は恐ろしい顔で私をふりほどき、転がるように走り続けた。裸足の足はすり切れ、冷たい霜に肌の色が凍りつき、つま先が血にまみれても彼は止まらず……とうとう、バルシュタットを望む丘にたどり着いてしまった。

 城の周囲は不気味なほど静まりかえっていた。生き物の気配ひとつしない。壊され崩れた石壁、略奪に遭ったまま横倒しにされた市場の出店、なにより、ごろごろ転がる野ざらしの骨……そう、骨だ。かつてここに棲み、活気溢れる城下をつくりあげていた人々の骸がそこかしこに転がっているのだ。


 ルーウェンはよろよろと体を引きずり、廃れた城のなかをひとつひとつ、確かめるように触れていった。滅びた城を彷徨う彼の背中は亡霊のようで、私は一言も声をかけられなかった。

 やがてすべての部屋を見て回り、彼は居館から出て中庭の真ん中までくると、その場にへたりこんでしまった。


「イレーヌさん……」

 彼は初めて私の名を呼んだ。

「旦那様がたは……私の、閣下は、どちらにいらっしゃいますか」


 狼狽える私に振り向きもせずに、「巫女であるあなたなら、ご存じかと思い……」と続ける。

 おまえの「旦那様」たちはとっくに八つ裂きにして心臓を肥だめに投げ捨ててやったと、言いたかった。未練など棄てよ、私の元へ来いと言えたならどんなによかっただろう。だがそう口にする勇気はなかった。私は臆病だった。

 その意気地のなさを彼は背中で感じたのかもしれない。ふつふつと、肩をふるわせて、彼は足元に伸びた雑草に手を入れた。

 気がつかなかった――その手には錆びたナイフが握られていた。私は悲鳴をあげた。次の瞬間、舞い上がった鮮血が私の頬と腕に飛び散った。生温かな血のしずくの感触……そしてルーウェンは倒れた。


 すべて、二百年ほど前のできごとだ。それなのに未だ鮮明に、はっきりと思い起こせる。夢にも見る。つい今し方起こった出来事のように、繰り返し、繰り返し、私の魂に刻まれていく……

 バルシュタット家も、城も、ルーウェンも……すべて、私が殺した。私が滅ぼしたのだ。城主を失った城は野盗と異民族の結託した軍を前になすすべなく敗北し、略奪の限りをつくされた。その事実は、亡き前主君のために生きてきたルーウェンの、生きる理由をも奪い去ってしまったのだ。


 私は彼の人生に欠片も爪痕を残せなかった。私など初めから必要なかった。前主君が彼のすべてであり、愚かな主君の虐めや嫌がらせなど些事にすぎなかったのだ……


 それから今日を迎えるまでの間、約半分を怯えて過ごした。郷からいつ追っ手が現れ、私を捕まえるか……いや、いっそ連れ去られる方がマシかも知れない。こんな気持ちが続くなら、ひとおもいに殺してほしかった。だが、郷はついぞ沈黙した。〝宵の巫女〟は私の監視を放棄したのだ。

 ――そんなことがあり得るのか?


 普通に考えればあり得ないことだった。永い永い巫女の歴史において、唯一無二の力である千里眼……それこそが巫女を統制する唯一の方法であり、象徴だった。皆、千里眼を恐れながら地上で務めを守っているのだ。それが機能しなくてどうするというのだ。


 長い間、迷いに迷ったが、私はついに、郷に帰ることにした。〝鍵〟はまだそこにある。一度遣わされればそれこそ連れ去られるまで帰ることを許されない郷。その門は、郷の重役たちが決めた者しか出入りできないはずだった。当然、私も入れずにはじかれるだろう。だが、入れてしまった。

 そのときこの目で見た郷の有様は……今なお、信じがたいことである。だが、事実だ。何度も何度も、確かめた。ここに書くことさえ躊躇われるほどに……私の人生さえ否定するほどに……衝撃だった。


 私の寿命はもう残りわずか。フェリスの力も弱々しい。すべて忘れて切り替えて、次の巫女のために準備をしなければならない。いつまでもこんなことばかり考えてはいられない。私の魂に蓄積された知識の残滓は次の巫女に受け継がれる。欠片も汚してはならない……


 ああ、願わくば、このやりきれない想いを、誰かにぶつけたかった。私の魂を孤独の巫女の器に入れてこの世に生み出した神が憎い。五百年などいらない。次に生まれ変われるならば、私は人間のようにちっぽけでありたい。短命で愚鈍で、何も知らずにくだらぬことで争いあうような、そんな存在であればどれほど楽に生きられたか……

 そして人間ならば、きっとルーウェンの生き様を変えられた。同じ命の長さを共に生きられた。巫女など……巫女など……はやくすべて、滅びてしまえばいい!



 全身がすっかり冷え、リリーはぶるりと背を震わせた。それを合図に、止まっていた部屋の時が再び動き出す。イグニスは慌てたように「申し訳ありません、クイーン」と言って再び部屋を暖めなおした。イシュケは翠の眼をぱちぱちとさせてカイネを見る。カイネは……リリーの手の中の日記に眼を釘付けにして、黙りこくっていた。


「……カイネ」

 イシュケの淹れた紅茶のカップを差し出しながら、リリーは呼びかける。

「体、冷えていない? だいじょうぶ?」


 カイネは答えない。赤茶けた文字の羅列……はじめは判で押したように規則的だった美しい文字が最後には乱れに乱れ、書き殴ったようにインクが尾を引く様を、食い入るように凝視している。

 やがて、真っ白な唇が戦慄き、ゆっくりと開いた。


「今の、ほんとうに、ここに書かれているの」

 読めるふりをしていたこともすっかり忘れているようである。

「ええ」

「……これが、私の母親の……」


 元々白い顔がさらに血の気を失い、蒼白になっている。だが内容を思えば無理もない。リリーもひどく困惑していた。より衝撃を受けた様子のカイネを前に、かろうじて平静を保っているだけだ。

 短い日記なのに、恐ろしく濃密に、そして陰惨な悲劇が書かれていた……しかも破られ、地下室に隠されていたのだ。次の巫女へ向けた覚え書きだけを残して。


「〝宵の巫女〟とは?」


 今の今まで一言も声を発さなかったレオが、珍しく声を上げた。リリーもイシュケも同時に顔を上げる。


「〝宵の巫女〟は……カイネが言ってたことだけど……巫女の郷にいて、千里眼で常に世界中を監視している巫女だそうよ」


 レオは「そうか」と言ったきり、また黙ってしまった。腕を組み、眉間に皺を寄せている。

 そう、彼女は今も千里眼でここを見つけることができる……毎夜、リリーを悩ませる監視の目……だが、カイネによれば、力が弱まっているかもしれないという。そのおかげで、自分は今も生きながらえている、はずなのだ。


「そういえば、この日記のお母様……イレーヌさん、は何を見たのかしらね……郷に帰って……帰れるはずもないのに足を踏み入れて、そして……」

「もう、いいわ。すべておしまいよ」


 突然カイネが立ち上がった。リリーの手から紙束を乱暴にひったくる。その衝撃で端の方が破けたが構う様子もなく、部屋の扉を指差した。


「イグニスだけ残って。あとのみんなは消えてちょうだい。今夜の食事も別でいいわ」


 リリーはなおも心配の眼差しを向け、手をさしのべようとするが、イシュケに引っ張られるようにして部屋を後にした。レオも遅れて出て行く。


「カイネ、だいじょうぶかしら。だって、あんな……あんなこと……」

「兄がいるから大丈夫だよ」


 イシュケは口調こそいつものように軽いが、声はどこか沈んでいた。あんなものを聞かされたあとでは無理もない。


「じゃ、レオ、一緒に夕飯の準備しようか。この間新しい獣肉が届いてさ。まずは解凍からしてもらって……」

「あの、わたしも一緒にやってもいい?」


 リリーはおずおずと二人の間に入った。


「なんだか、ひとりになりたくなくて……足手まといにはならないわ、こう見えてこれまでの旅でいろいろとしてきたのよ」

「えー、クイーンに怒られそうだなあ。……ま、いっか。怒られたらちゃんと庇ってね」


 イシュケはそう言うといつもの調子で歩き出した。その後ろをリリーが、その横にレオがつく。

 彼は少しかがんで、リリーに耳打ちした。


「昨夜の話の続きを、どこかで」


 リリーの頬が微かに赤らんだ。それをごまかすようにぎこちない微笑を浮かべ、うなずいて見せる。


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