第十六話 青の本
梯子は見当たらなかったようだが、イシュケが大急ぎで駆け戻ってきて、「僕はばかだ! 氷――ちょっと待って」と呼びかけ、両の掌からするすると氷の柱を下ろし始めた。ぱきぱきと音を立てながらあっというまに氷柱が眼前にそびえたち、イシュケがするすると降りてきた。
「リリー、だいじょうぶ? 怪我は? 結構な高さだよ、骨とか折れたんじゃないの?」
「だいじょうぶ、奇跡的にどこも無事よ」
「本当に? ……本当だ、全然擦りむいたりしてない……変だなあ」
イシュケは首をかしげながらも、手にした古い燭台を掲げる。
「ここは、なんだろう?」
リリーもつられて目を上げた。レオのことばかりに気を取られて気にもならなかったが、礼拝堂にこんな仕掛けがあったとは。
イシュケが立ち上がり、燭台を掲げて数歩進む。すると奥で何かがきらめいた。火の光を反射したのは、銀色の金属めいた何か――もっと近づいてよくよく照らせば、銀の鍵穴のついた小ぶりの四角い箱だった。蓋には取っ手がついていて、褪せてはいるが全体が青く塗られている。
「わあ、宝箱だ!」興奮し、蓋に手を掛けたがびくともしない。
「やっぱり鍵、かかってるよね……」
「そうでなくちゃ、宝箱じゃないもの」
くすっと笑って、リリーは改めて周囲を見渡した。小さな明かりのおかげで少しずつ見えてくる。宝箱が置かれていたのは大きな丸テーブルだ。その上には他にも高級そうな布地、古いデザインのドレスやマント、ブーツなどの衣服が雑多に積み上げられ、奥には鎧や盾、剣などがうち捨てられたように置かれている。さらなる奥へ、細い通路も見えたが、数枚の細い鉄板が雑に打ちつけられ塞がれていた。レオは、あの隙間から出ていったのかもしれない。
「なるほどね……昔、人間がここに宝物を隠してたんだ」
イシュケは両手に箱を抱き、じっくりと見つめた。
「うーん、気になるな……何が入ってるんだろう……」
難しい顔でぶつぶつつぶやいていたが、突如「あっ」と叫んだ。
「もう、僕ってばほんとにばかだ。なんですぐに思いつかないかなあ」
そう言うなり、人差し指の先を鍵穴に当てる。何をする気なのか……困惑するリリーを尻目に、彼は指先から小さな氷を伸ばしていった。ぱきぱき、梯子の時と同じように氷は伸び、鍵穴の奥へ入り込む。そうして指を回せば、かちりと微かな音がした。
「……開いたの?」
驚くリリーに得意げな顔を向け、人差し指を引き抜く。そしてかぱりと蓋を開けた。
「さあ、宝物とご対面……え?」
間の抜けた声が響く。リリーも横からのぞき込んだ。
赤い天鵞絨の敷き詰められた箱の中に、古い紙束が丁重に置かれていた。几帳面に並ぶ赤茶けた文字を目にしてリリーは目を見開く。
「日記だわ……!」今度はリリーが、イシュケよりも興奮して声を上げた。「これ、カイネのお母様の字よ!」
「ほんとに? なんて書いてあるの?」
破かないよう慎重に紙束を取り出し、蝋燭の火に照らす。
「……『あの男との出会いがすべてを狂わせた』……『人間なぞに手をかさなければ、ただ倦み、飽満な五百年を過ごせただろう』……『郷の有様を知らずにいられただろう』……」
口にしながら眉をひそめ、目を上げる。イシュケの視線とぶつかった。
「そう、書いてあるの?」
「……ええ」
「日記、じゃない、よね」
「そうね……どちらかというと、手記、という感じ」
「男……人間……それに、郷がどうしたって?」
リリーはもう一度紙面に目を落とす。だがすぐに首を振った。
「これはカイネのお母様のものよ。これ以上、カイネに無断で読み進めるわけにはいかないわ」
「律儀だね、リリーは」
イシュケは小さく息をつき、「じゃあ明日、クイーンに報告しよう」と紙束をしまいこみ、箱を閉じた。
翌日、日記の残りが見つかったことを知ったカイネは「うそでしょう!」と驚き、リリーの手からそわそわと紙束を受け取った。
どこで見つけたのか、と聞かれたので、礼拝堂の地下の話をすると「なんであなたたちだけ、そんな楽しいことをしているのよ」と機嫌を損ねられてしまった。
「まず、カイネが読むべきだわ」
「どうして?」
「だって、あなたのお母様の日記よ。まずはあなたに読む権利があるし……その上で、わたしの眼にふれてもいいものなら、改めて修復を再開しようかと思って」
「……そう」
カイネはいつもの傲慢な顔ではなく、躊躇うような、途方に暮れたような、奇妙な顔をしていた。何か気になることでもあるのだろうか?
そっと視線を動かすと、部屋の隅に立つレオと眼が合った。彼は壁にもたれる格好でリリーを見つめ、わずかに首を傾ける。昨夜、至近距離で触れ合ったのを思い出し、急に気恥ずかしくなって、目をそらしてしまった。
カイネは眼を伏せたまま、紙束をリリーに押し返した。
「べつに、読んでいいわよ」
「え?」
「今すぐここで読みなさいよ」
つっけんどんな口調である。
「何してるの? はやく」
困惑気味に受け取るリリーだったが、カイネの態度に対する戸惑いが、次第にある確信へと移り変わっていった。
「カイネ、あの……もしかして……」
――文字が読めないの?
と続けかけた言葉をすんでのところで呑み込んだ。彼女は巫女の覚え書きを〝日記〟と言い張った。なぜそんな嘘を、と当時は思ったが……今もこうして複雑な表情で必死に押し隠しているということは、文字が読めないことを従者たちに知られたくないのだろう。見栄っ張りな彼女のことだ、初めは小さなきっかけでついた嘘だったかもしれないが、それを三百年も続けてきた彼女の努力をないがしろにはできなかった。
「いいの? ここで読んでも」
「ええ。文字を目で追うのは疲れるし、あなたが朗読してちょうだい」
わずかに早口だ。頬も赤い。イグニスは「クイーンを待たせるな」とせっつくし、イシュケも「今から? じゃあお茶を淹れるよ」とティーポットを用意する。カイネはベッドの上に座り、隣をぼすぼす叩いた。
「さあ、こっちで読みなさい」
「わかったわ」
おとなしく従い、紙束を持つ。ほどなくして、茶葉の芳醇な香りが漂い、テーブルとティーセットが運ばれてくる。
ちらりと目を上げた。夜のしじまを思わせる黒い瞳がこちらを見つめている。気恥ずかしいのに、ほっと安堵した心地になって、リリーは紙束を構えた。
昔、彼に見守られながら、こうして魔女の手記を読んでいた……あの頃の気持ちと重なって、するすると言葉が口を衝いて出ていく。
***
あの男との出会いがすべてを狂わせた。人間なぞに手をかさなければ、ただ倦み、飽満な五百年を過ごせただろう。郷の有様を知らずにいられただろう。私は自ら安寧を手放したのだ。そうと知らずに……無知で愚か、なんという痴れ者……今、私の中で形成されつつある次の巫女のためにも、すべてなかったことにしてしまわなければならない。次の巫女はどうか人間との関わりを一切断ち、そして郷の真実に気づかぬままでいてくれるよう。
あの日、男は雪に埋もれて死にかけていた。私は従者フェリスと共に山頂の家を出て、巨大な雪崩が起こった場所を見に行った。山の安寧のためにわざと放置した雪崩だ。だが万一のことがあるからとわざわざ見に行ったために、下敷きになった男を見つけてしまったのだ。
男は、乱れてはいるが白髪交じりの髪を後ろへ流し、歳は重ねども見目は悪くなかった。身なりもいい。なぜこんな山奥に、初老の貴族がひとりで? と好奇心に流されたのがいけなかった。フェリスの背に乗せ家に連れ帰り、暖炉で温めて看病してやると、男は数刻で息を吹き返し、そばにいたフェリスに仰天した。巨大猫だと言うので「雪豹だ」と返すと今度は私の気配に驚き、自分が助けられたことを瞬時に悟り、平身低頭、礼を言った。
その時点で、私の目に彼は好印象だった。人間は私の姿を見ると泡を吹いて倒れたり、魔女だと言って石を投げたりとろくな反応を見せないが、この男はすぐに自らをルーウェンと名乗り、私を命の恩人と讃えたのだ。
ルーウェンは山の中腹にある城……バルシュタット城で城主の執事をしているという。バルシュタットの存在は私も知っていた。この山を含む膨大な領地を治めているつもりの傲慢な領主……もう百年前になるが、初代領主が「魔女を追放する」などと言って山頂まで攻め立てにきたこともあった……もちろん追い返したが。そういうわけでバルシュタットは大嫌いな姓だった。
ルーウェンはバルシュタット公爵家に代々仕える家系に生まれ、先代領主にたいそう世話になったからと、その子である現領主を「命より大事」と誠心誠意崇めていた。現領主は妻子に優しく領民に愛される貴族の中の貴族だと。大馬鹿者め。そんな男が、自分の大事な執事をどんな理由で雪山の奥へ……それも供のひとつもつけずに放り出すというのか。
ルーウェンが雪崩の下敷きになっていたのは、やはりバルシュタットの命だという。三歳の娘が〝雪虹花〟がほしいと泣くのでさがしてこいと。〝雪虹花〟などという花はこの地に四百年生きた私も知らない。幼い姫は絵本で見たのだという。架空の花じゃないか! 父親は絵空事と知りながら初老の執事に命じたのだ。そして一人で放り出した……公爵も娘と同様、頭がお花畑なのでないなら、考えられるのはひとつだけ。ルーウェン、おまえは嫌がらせを受けているのだ、と言ってやったが、困ったように笑うだけだった。
帰らなければいい、と言ったが首を横に振られる。私は意地になって、フェリスに氷で花を作らせた。恐ろしく透明度の高い、それでいて繊細な薄い花弁。角度を変えるたびに虹を映し出す。ルーウェンは突然現れた〝雪虹花〟に目を丸くし、私を見て微笑んだ……目尻に皺を寄せて、屈託のない……私がこれまで歩んだ人生のなかで一度も向けられたことのない顔……
あの顔が忘れられなかった。もう一度見たい。ずっと眺めていたい。その想いは日に日に強くなって、私はとうとう、愚行に出てしまった。
フェリスに憑依し、山の中腹まで走った。石造りの荘厳なバルシュタット城……天に向かって突き出た主塔を望む丘に出たとき、礼拝堂の鐘が鳴った。ここからでも、たくさんの人間が行き交い活気溢れる様が見えるようだった。そして私は、フェリスに憑依したまま姿を変え、城内に忍び込んだ。
城に出入りする商人に扮し、あるいは小間使い、あるいは仕立屋……様々に姿を変え、ルーウェンを捜した。――なかなか見つからなかった。執事というものは、主人の傍で仕えているものではないのか?
疑問の答えはすぐに出た。現バルシュタット家当主の男が妻と娘と話しているところに出くわしたのだ。わたしは召使いに扮し、せっせと茶を淹れるふりをしていた。
「お父さま、またあのひと、暇そうにしていてよ」
あどけない声。父に向けられる媚びるような視線。幼いながらに、人間の女の浅ましい艶が宿った顔。
「そうか。じゃあまた何か言いつけてみよう。おまえののぞみは? 小さな姫君!」
そのあとに続く会話は、とても最後まで聞けるものではなかった。領主は妻子をも巻き込んで四六時中、自分の執事に嫌がらせをしていたのだ。
庭掃除や主塔の地下の拷問部屋処理などまだいい方で、台所の屑処理や溝に落ちた糞便の掃除など、奴隷の仕事まで押しつけていた。彼に哀れみを覚えるより先に、領主一家に激しい嫌悪感を抱いた。
人間とは、ここまで落ちたものか……
二度と顔など見たくないし関わりたくもないが、私はさらに内情を探った。領主がなぜ一介の執事を執拗に虐めるのか……その理由がわかったとき、そのあまりのくだらなさと愚劣さに、憤りを超えて吐き気をもよおした。
執事は元々、領主の父君のお気に入りの傍仕えで、父の遺言により執事に昇格したらしい。領主は父君と馬が合わず、必然的に執事をも嫌っていた。憎き父に重ねて鬱憤を晴らしているたのだ。なんと矮小な男だろう。
私はあるときは奴隷、あるときは使用人に扮して不憫なルーウェンの手助けをした。まったく私は何をやっている?
「ああ、またあなたですか」とそのたびに彼は嬉しそうな顔をした。フェリスが人型になるとき、どんな姿に扮しようとも顔つきだけは彼の力の癖で似通ってしまう。さすがに中身があの白き魔女だとは思ってもいないだろうが、顔を覚えられていたらしい。
おまえも貴族の執事、なぜ奴隷のまねごとを平気でやるのだと問うと、彼は爽やかな笑みをこぼした。
「我が主の命ですから」
主が命じればなんでもやるのか? この場で死ねと言われれば死ぬのか?
それなら私が主人になればどうなのだ?
そう言いかけるたびに体を貸してくれているフェリスが諫言した。貴女は崇高なる巫女なのだ、ゆめゆめお忘れなく、と。
そんなことわかっている!
いや、わかっていなかったから、こんなことになったのだ。
「そこのおまえ、この茶をルーウェンに届けてくれ」
あるとき、小間使いの姿をした私に奴はそう言った。盆に載ったティーセット。執事を嫌う主人が茶で労うなど怪しさ満点だ。私は代わりの茶に取り替え、持って行ってから何食わぬ顔で奴に報告した。すると奴は小躍りして喜んだ。
長かった。やっと、ついに、あの男を消せる! と……
父の遺言の効力は死してから十年。効力が切れたので追放したいが、単に追い出したのでは世間体が気になる。だから不幸な事故にしてしまうのだと奴は言った。短絡、厚顔、姑息……「恥を知れ!」と私は叫んだ。叫んでしまった……
短絡で痴れ者は私だった。フェリスの牙を剥き、忌々しい男の太い首に飛びかかり、思い切り噛みちぎった。
耳をつんざく汚い悲鳴。それだけでますます憎さがつのり、跡形も無くなるほどに噛み砕き、ばらばらにして、奴の心臓を糞便のたまり場へ投げ込んだ。ルーウェンが綺麗にした溝に、穢れた血が飛び散る……
小さな悲鳴がこだました。振り返ると蒼白な顔で固まる母子がこちらを見ていた。『あのひと、また暇そうにしていてよ』……娘の悪魔のような笑みが脳裏をよぎり、視界が真っ赤に染まった。おまえも父と同様、断罪を受けるがいい!
ふたつの心臓を溝に蹴り落とし、私はフェリスの喉で声の限りに鳴いた。勝利に酔ったのではない、ただ怒りに身を任せ虐殺した興奮が、まだ己のなかに残っていたから……
そして私は、ルーウェンの体を咥えて窓から飛び出した。ルーウェンはすぐに目覚め、フェリスの姿に驚いた。我が家につき、彼にベッドを寄越し、「城に戻るな」と告げた。彼は驚愕と焦燥に顔を真っ青にし、私に反抗した。返してくれなければ困る、前領主から現公爵家のことを託された……私が戻らなければ……と言ってきかぬので、私は再び怒鳴った。
「おまえは奴に棄てられたのだ!」と。




