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宵の巫女  作者: シュリ


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第十話 遺されしもの

 居館から出ると一面の銀世界――堅牢な城壁に囲まれた中庭があった。空から降る光を受けて白さが一層まぶしく、目に痛いほどだった。身を切るような風が吹くが、昨晩よりはましである。


「ああ、いい天気ねえ」カイネが上機嫌で空を見上げる。「さて、どこから案内しようかしら……」


 雪より白いふたりの後ろには、イグニスにイシュケ、レオもついていた。リリーが一歩踏みだし、降り積もった雪のなかにずぶりと足をとられそうになった瞬間、イシュケがさっと傍につく。


「だいじょうぶ?」とリリーの手を引いて微笑む。

「ええ……ありがとう」


 細身の体躯に似合わず、がしりとした力だった。元は逞しい馬だ、今の姿は仮のもので、擬態しているだけに過ぎない。

 ……擬態?


「あの……イシュケとイグニスは今、人間の姿に擬態しているの?」

 鏡合わせの兄弟は顔を見合わせ、ゆっくりうなずいた。

「擬態、ていうのかなあ。レオと同じだよ。クイーンが『地にまっすぐ立って、美しくなりなさい』って言ったから……」


 リリーの脳裏に、金の鴉の姿が思い浮かんでいた。彼らの主な能力も擬態だった。誰にでも、何にでもなれる力……

 レオの姿は、その金の鴉を喰らったことで得たものだが、既存の人物の姿ではない。彼が思い描いた、いわば彼の創造物だ。この双子も同様だろう。「擬態」ではなく、もはや「変身」だ。


 城内の散策は、一周するだけで午前いっぱいを使い切ってしまった。天をも貫かんとそびえる主塔、石組みの規則正しい胸壁、回廊、寒々とした空っぽの門衛塔……あちこち打ち崩れた礼拝堂(カペレ)もあった。城の凄まじい広さに驚くリリーに、カイネは終始自慢げだ。


「ふふ。この城はね、元々人間たちが暮らしていたそうなの。もうすっかり廃墟だけど……あの短命な人間たちが代々懸命に守ってきた城よ。ロマンがあるでしょう?」


 リリーもうなずく。あちこち崩れ、凍りついた城の様相からは気の遠くなるような年月を感じさせられる。


「私、ここで暮らしてもう三百年になるけれど……未だに感慨深い発見があるものよ。すり切れたタペストリーの裏に誰かの名前らしいインクの染みを見つけたり、階段下に地下通路があったり、その奥に胸元を貫かれた鎧がうち捨ててあったりね。そのたびに、そこにある理由に思いを馳せてしまうの。たった五十年あまりの生き物の生涯のなかに、どれほどドラマがあるのかしらって! そう考えると、人間って面白いわよねえ。関わる気はないけれど」

「そういう情報も、お母様の記憶から?」

「ええそうよ」

「記憶以外になにか、お母様が遺していかれたものはないの? 形見といえばいいのかしら……その、次に生まれる子供に対して、お手紙とか……」

「リリーったら、ずいぶんロマンチストねえ。そんな優雅な文化は巫女にないわよ。いえ、やってる者もいるのかしらね? 少なくとも、母親はなにも……いいえ、待って。ある。あったわ!」


 そう言うと突然カイネは手をぱんと打ち、「形見ね。あるわよ! 母親の日記が!」と興奮気味に言った。


「そうだ、せっかくだから見せてあげる。母の日記。ね? いいでしょう?」

「え、ええ、カイネがいいというのなら、ぜひ」

「決まりね。レオとイシュケは午後のお茶の用意をしてちょうだい。レオなら火を扱えるし、沸かせるでしょう。イグニスはついてきて」


 ここでもまた、当然のようにレオに命じる。レオの眼つきに険が降りたが、目が合う前にリリーは視線を逸らしてしまった。


「お茶は私の部屋でいただくわ。二人分、持ってきてちょうだいね」


 リリーの背後で、「じゃ、沸かし方は教えるよ」とイシュケの爽やかな声。彼は水を生み出せるのだ。今まではイグニスと二人がかりでお茶や食卓の用意をしていたのだろう。だが今はレオがいる。カイネはこれから先、存分にイグニスを連れ回し、いつでもどこでも暖を取れるのだ。いや、逆もあるかもしれない。レオで暖を取る……彼のふさふさした体毛に包まれて、眠りにつく……


「……だからね、ほんとうに人間って生き物は……聞いてるの? リリー」

 はっと我に返り、リリーは慌てて笑みを浮かべた。

「ええ。えっと……」

「なあに、ぼんやりして。寒さにあてられたのかしら? イグニス、もう少し温かくしてちょうだい」


 イグニスは「なんでオレがこんな小娘のために」と言いたげな目でリリーを睨む。だが、すぐに周囲の空気が柔らかくなった。

 居館に戻り、カイネはさっそくリリーを連れて自室へ向かった。もとは城主か、その家族が使っていたのだろう。中は広々としていた。正面に大きな窓があり、カーテンが開け放されているおかげで陽光が降り注いでいた。色あせ、すり切れているが絨毯も全面に敷かれている。暖炉前には何かの毛皮のラグ、部屋の奥には天蓋つきベッド。


「こっちよ、リリー」


 カイネが手招く。窓際に置かれた文机の蓋を開けると、ペンとインク、様々な書物が並べられていた。その中央に、リリーの視線が吸い寄せられていく。

 青に染め抜かれた本が一冊、ばらばらになっていた。革表紙も、表紙の台木も、背表紙も、折丁もすべて。


「これは……」

「これが母親の日記よ」カイネの手が、散逸された本の表紙を撫でる。「ずいぶん古くて……私が生まれたときにはすでに崩壊寸前だったの。何度か触れるうちに崩れちゃって。イグニスもイシュケももちろん修復なんてできないし、私も無理。だからこのままにしてあるの」

「でも……お母様の、形見なんでしょう?」

「形見、といえば聞こえはいいけれどねえ……顔も見たことがないし、知っているのは声だけ。それももう、三百年経つうちにほとんど忘れちゃったわ。だから思い入れなんてぜんぜん無いの」


 カイネは笑って、「触ってみる?」と訊ねてきた。リリーは「いいの?」とおっかなびっくり、うながされるままに手を伸ばして、崩れた本におずおず触れた。

 触れただけで、とても上質な本だとわかった。古びているが滑らかで上質な革……台木も隅々まで研磨され、折丁の綴じも丁寧だ。あちこちに貼られた金箔のギルティングも美しい。背表紙の糸のほつれさえ直せば、元のようにはいかなくとも、本の形自体は取り戻せるように思えた。


「カイネ、その、あなたさえよかったら……少し預かってもいいかしら」

「どうして?」

「わたし、旅の道中で旅賃がわりに教会の本を縫い直したことがあるの。といっても見よう見まねだし、職人でもなんでもないから美しさは保証できないけれど……本の形に戻すことはできるかもしれないわ」

「本当!?」


 カイネの白い瞳がぱっと輝く。「いいの? 本当に、頼んでもいいのかしら?」

「ええ……でも、それらしく直すだけよ。完全に元のようにはいかないわ」

「じゅうぶんよ! 私、これ以上壊れるのがこわくって、全然触れられなかったの。片付けたくても動かせないし、困っていたのよ。ああ、よかった!」


 さっそく、リリーは本の部品を丁寧に集め、ばらけないように紐でぎゅっと縛った。


「針と糸はある?」

「針……」カイネは困ったように首をひねった。「あったかしら。ねえイグニス」

「オレは見たことありません」


 イグニスがちょっと悔しそうな顔をして首を振る。そのうち、こんこんと扉が叩かれた。

「クイーン、リリー、紅茶が入りましたよ」爽やかな声だ。

 扉が開くと、紅茶の芳醇な薫りと共にイシュケとレオが入ってきた。盆を手に入ってくるイシュケにさっそくカイネが訊ねる。


「ねえ、針と糸、知らない?」

「針と糸? 何に使うの?」

「お裁縫よ。リリーね、あの母親の日記、直せるんですって」

「完全に、ではないわ」慌ててリリーが訂正する。「ただ、旅の道中で少しさせてもらった経験があって」

「それはすごいや。でも、針と糸か……この城のだれも、そんなもの使ったことないよ。クイーンは気に入った衣服がほつれたら棄てて、違う服を探して着るし。僕たちだって……」

「人間が供えてくるから何も問題なかったのよ! ああ、どこかで気の利く人間が裁縫道具をお供えしてくれないかしら」

「雪山の神様に裁縫道具は、さすがに捧げないんじゃないかしら……」


 遠慮がちに言うと、辺りはしんと静かになった。肩を落とすカイネにいたたまれなくなり、


「わたし、なんとか代用品を見繕ってみるわ。針と糸……だいじょうぶ、なんとかする。見つけられたら、日記を修復して返すわ。それで、いいかしら」


 なんとかなる、という励ましのおかげか、カイネはゆっくりと顔を上げ、「よろしく」とだけ言った。盆の上のカップから白い湯気が頼りなくゆらめいている。

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