第一話 魔女の噂
冷たい細雨が降りそそぎ、昼日中の空を灰色に染めている。
雪に覆われた大地の奥まった田舎村に、ふたつの人影が訪れた。
「ごめんください」
みずみずしく、澄んだ少女の声。このあたりでは滅多に聞かない若い声に、宿屋の女将は訝しみながら扉を開ける。
「あら……」
女将は目の前に立つフードの少女を見て目を丸くし、その後ろに控えた見上げるほどに背の高い男の姿に気がつくと、「まあ」と小さく声を上げる。
「おや、まあ、あんたたち、旅をしているのかい?」
「はい」
少女がはにかむ。深めに被ったフードのせいで見えにくいが、女将の目は、少女の瞳とこぼれる髪のふさの、抜けるような白い色を見抜いていた。
「もしかして」
女将はつぶやき、戸口の外、遠く北方を見つめる。
「白の魔女の山に?」
「……え」
今度は、少女が目を丸くする番だった。
「白の、魔女……ですか?」
「なんだ、知らずに来たのかい。ほら、北っかわに高い雪山が見えるだろう」
女将が戸口から身を乗り出し、左手で北方を指した。少女も男も、その指先を追う。
「あの、真っ白な山に、魔女が……?」
「そうさ。いつごろからなのか、はっきりしないけどね。昔から言われてるんだよ。白の魔女が暮らしてるって。まあ麓の方じゃ、神だのなんだの、崇められているそうだけどね」
言いながら、女将は改めてじろじろと少女のフードの中に眼を向ける。
「あんた、まさか、魔女の噂と関係が……?」
「い、いえ」
少女は慌てて首を振り、気まずそうにフードを抑えた。
「髪も、目も……その、幼い頃に、病気で」
「まあ、そうだったのかい」
途端に女将は気の毒そうな顔をした。
「もしかして、教会の教えで聖地を巡礼しているとか? 病気を治すために……」
「あ、はい! そうなんです」
少女はすぐさまうなずいた。
「じゃあ後ろの人は、家族で?」
「ええ。えっと……兄です」
「そうかいそうかい。お兄さん。なるほどね」
女将はようやく、すべてのことに納得できたようで、その恰幅のいい身体をどかしてくれた。
「それじゃ、今日は泊まりだね。今はどの部屋も空いてるよ。好きな部屋を使いな」
「ありがとうございます」
「あと、駄賃だけど……」
「あ」
少女は慌てて後ろ手に持っていた籠を手前につきだした。
「あの、わたしたち、路銀がほとんど尽きてしまって」
「なんだって?」
「ですが、わたしは薬草屋、兄は狩人です。ちょうど、道中の森の付近で鹿を二頭狩り、香草漬けにしました。その……それで、足りませんでしょうか」
少女が見せた籠には、女将の見たこともない珍しい薬草や根、瓶詰めの油がぎっしり入っていた。男の背負っていたずだ袋には干し肉が詰められている。
「まあ、まあまあまあ」
女将は目を輝かせてそれらを見回す。
「じゅうぶんすぎるくらいさ。なるほど、薬草屋と狩人ね……それでなんとか旅を続けて来られたってわけだね」
「はい」
「そうかいそうかい。こりゃいい、夫が帰ったら喜ぶよ。この辺りは特に、今の時期ほんとうに厳しくてね。ろくな食料も手に入らないし、今までの蓄えだけで乗り越えなくちゃならないしねえ」
女将の顔は心底嬉しそうだった。少女もつられて、にっこり笑う。
「よかったです。この後ももし何かあれば、お手伝いできる範囲でなんでもやりますから」
「あらあらまあまあ、それじゃ、そのときはお願いしようかねえ」
朗らかに笑い、女将はふたりを宿の二階へ案内してくれた。
部屋はこじんまりとしているが、パッチワークのキルトで飾られ、簡素だが暖炉もある。
「落ち着く部屋ね」
濡れた外套を脱ぎ、暖炉の前に広げておく。
「あなたも、脱いで。風邪を引いたら大変だわ」
男も黙って黒い外套を脱いだ。少女にならって暖炉の手前に広げる。
「ほんとうにこの辺りは寒いわね。あの雪山のせいかしら。この雨のせいで、地面が凍ってしまったら嫌だわ」
暖炉の前に椅子を引き、座って温まりながら、ふと顔を上げる。
見上げた先で、男は突っ立ったままだ。表情が薄いのでわかりづらいが、どことなく憮然としているように見える。
「どうしたの? この宿、いやだった?」
「……また、あなたは」
低い声が、ぽつりとこぼれる。
「なんでもやる、などと言って」
「あ、あれは、だって、いくら物々交換といっても、やっぱり硬貨がないんじゃ申し訳ないもの。せめて……気持ちだけはって」
「もうじゅうぶん、色々やった」男の眉がつり上がる。
「少しは休んでほしい。ずっと歩き通しだ、リリー」
「それはあなたもだわ、レオ」
リリーは立ち上がり、もうひとつの椅子を指した。
「はやく温まって。それとも、擬態をといたほうが楽かしら?」
男は短く息を吐き、リリーの隣の椅子に腰をおろした。
「なにがあるか、わからない。元の姿は、夜中でいい」
「そう……?」
リリーは改めて、男――レオの横顔を見つめる。後ろで束ねた、優雅に波打つ長い髪も、切れ長の眼も眉も、濃い黒だ。それは本来の彼――黒い毛並みに覆われた凜々しい蜘蛛の姿の影響なのだろうと思う。
「わたしは、本当のあなたも好きよ」
レオがこちらに顔を向ける。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
彼の、滅多に見せない不格好な微笑は、すべてリリーのためにある。
「この姿は、あなたと話ができる」
「蜘蛛の姿でも、じゅうぶん伝わっていたわ」
レオは微笑を湛えたまま、すっと視線をそらした。
二年前の、怒濤のような記憶が甦る。彼女に伝えたくても伝えられなかった数々の想い。何度も心の中で呑み下して、そのたびに歯がゆい思いをしてきた。あんな思いは、もう二度とごめんだと思う。
「それにしても、ずいぶん言葉がじょうずになったわ」
リリーは椅子の上で膝を抱えようとして、つるりとかかとを滑らせた。
「いけない、椅子の上で膝を抱えるの、ずっと癖で……もう、背が伸びたのにね」
「……言葉は、リリーのおかげだ」
しんみりと、レオが言う。
「この二年……ずっと、教えてくれた」
「あなたが真剣に聞いてくれたからよ」
「リリーの根気が、よかったからだ」
こういう会話は、いつまでもきりがない。それはこの二年の旅で、互いによくわかっていた。リリーは思わず笑みをこぼして、ぼうっと暖炉に目をやる。
ゆらめく火の明かりは、いつ見てもいいものだ。旅はいつも火とともにあった。野宿するときはレオがたき火を用意してくれた。蜘蛛の姿で火をともし、その日に得られた獲物でリリーが食事を整える。そのあとは、木の下でふたり寄り添って眠るのだ。
「ねえ、さっき女将さんが言ってたこと……」
火を眺めながらリリーが口を開く。
「魔女って……白い魔女って、まさか」
「だめだ」
食い込むような鋭い声。
「まだ何も言ってないじゃない」
「どうせ、行くと言う。行ってはだめだ」
「どうして」
「何があるか、わからない」
「でも、ただの魔女じゃないのよ。白い魔女なのよ。もしかして、あの魔女と何か関係があるかもしれないじゃない。それに、本当にあの山に魔女が棲んでいるとして……もしなにか、困っていたりしたら」
――わたしみたいに。
最後の言葉は呑み込んでしまったが、レオには通じてしまったようだ。彼は長い足を組み、今度はあからさまに大きなため息をついた。
「リリー……」
その仕草は、どこから見ても人間らしい。人間そのものだった。擬態を覚えたての頃のぎこちなさからすると、この二年で彼もずいぶん板についてきたものだ。
などとぼんやり考えていると、彼は丸椅子の上で膝の向きを変えた。隣に座るリリーを真正面から見つめる。
「俺は、あなたが心配だ」
「心配?」
「人に言われれば、どこにでも行きたがる。なんでもやろうとする。俺はあなたを、守りたいのに」
一対の黒い瞳が、まっすぐにリリーを射貫く。
蜘蛛の眼を思わせる、一片の曇りのない、艶やかな黒。
「……」
反射的に、リリーは視線を逸らした。
なぜだろう。最近、この瞳に見つめられるのが苦手な瞬間がある。苦手というより、気恥ずかしいというべきだろうか。……こうして静かに、ただ見つめられているだけなのに。
「ありがとう。でも……」
逸らした視線を、そっと窓辺に移した。
「わたし、気になるわ。白い、魔女……どうして白なのかしら。髪も、眼も、なにもかもが白いのかしら……」
「リリー」
「もし――例えば麓の人たちに何かひどい誤解を受けていたら? 力のあるなしや、本物の魔女かどうかも関係なく、それだけで迫害を受けていたら」
「そうとは限らない。逆に力を持っていて、麓の人間を虐げているかもしれない」
レオはもどかしそうに訴える。
「そもそも、〝魔女〟が何か、俺もあなたも、何も知らない。危険だ」
「レオ。わたしたち、約束したわ。最初に、馬車のなかで。覚えているでしょう?」
ぱちん、と暖炉の火がはぜた。
「……失った十二年を、取り戻す」
「そうよ。そのために、世界中を旅して、できるだけたくさんのものをこの目で見たいの。そしてもし、あの山に〝魔女〟と関係するものがあるのなら、わたし、知っておきたい……」
重い沈黙が部屋に満ちる。
その時だった。こんこん、と軽快なノック音が沈黙を打ち破った。
「ごめんなさいね、お客さん。ちょっとだけ、頼まれてくれないかい。さっきの、駄賃と思ってさ」
「はい!」リリーが勢いよく立ち上がる。部屋の錠を外して扉を開けると、女将が申し訳なさそうな顔で立っていた。
「実はね、今日の料理で使うはずの香草を切らしていてね。だけどアタシは手が空いてないし、旦那はまだ出稼ぎから戻ってないんだ。それで、もしよかったら……」
「ええ、大丈夫ですよ。どこにあるんですか?」
「村のすぐそばに、森があるだろう」
女将が窓の方を指差す。
「宿からまっすぐ歩いて、森に入ればすぐに生えてるはずなんだ。こういうのなんだけどさ」
女将がふくよかな手を開いてみせる。小さくとげとげした葉をつけた細い茎がそっと姿を現した。
「ああ、それならわかります。一年中生えていますものね」
「さすがだね。ほんと、あたしもうっかりしていてね……とってきてくれたら、お湯もサービスするよ」
「まあそんな。ありがとうございます。では……」
リリーが外套を拾い上げる。羽織って出ようとするのにならって、レオもついてこようとした。
「待った。お兄さんには別の用事をお願いしたいんだ」
レオは表情を変えぬまま、実際はほんのわずかに眉をひそめて女将を見下ろす。
「……俺は、彼女についていかねばならない」
「だいじょうぶよ」
振り向きざま、リリーは気丈に微笑んだ。
「すぐそこだもの。心配しなくてもいいわ」
「でも」
「それより女将さんの頼み事をお願い」
そう言って、リリーは部屋を出ていった。
「お兄さん、ずいぶん訛った口調だね」
ふとした女将の言葉に、レオはすっと視線を戻す。
これといって特徴のあげられない、どこにでもいそうな恰幅のいい女――だが、その目つきは幾分、鋭い。
「どこか、異国の人なのかい? そんなわけはないか。だって、あの子のお兄さんなんだろう?」
「……用事とやらを、聞こう」
これ以上踏み込まれる前に、頼まれごとを片付けにかかる。
「まあ、いいさ。薪割りをお願いしたいんだ。いつもは旦那か、ちょっと前まで下僕がいたんだけど、もうここにいないしね」
「……わかった」
レオも外套を羽織り、部屋を出る。
若いふたりが建物を完全に去ったのを見届けてから、女将は下へ降りた。厨房へ入りかけたところで、ぴたりと歩を止める。
「あれで、よかったのかい」
それは、独り言ではなかった。
「ええ」
しっとりと落ち着いた女の声がする。
いつの間にか、厨房に人影があった。分厚いローブを身に纏い、フードを深々と被っている。声は女のものだが、その風貌も年齢も、よくわからない。
「じゃ、約束のもん、ちょうだいよ」
女将がすっと手を出すと、フードの女は懐へ手を入れた。ほっそりとした指先で小さな革袋を取り出し、厨房のカウンターに放り投げる。どさりと、金属の混じった重々しい音が響いた。
「これで残りの分もお支払いしましたわ」
女は涼しげに囁くと、静かに足を踏み出した。長いローブをひきずり、足音ひとつ聞こえない。
「あんた、何者なんだい。いきなり来て、男女の客が来たら、ああしろなんて……」
「ふふ」
女は淑やかに笑い、戸口を開いた。
「詮索好きの女将さん。それ以上足を踏み入れれば、戻ってこられなくなりましてよ」
女将の背筋に寒気が走る。
女は再び笑って、扉を閉めた。
店の中はもう薄暗い。外は夕闇に染まりつつあるのだ。