天女 第86回連載
「結構なことですね。愉快なことだとは。」
こんな物言いに、もちろん、辟易としない訳ではなかった。今や、弱みを握られているのだから、当然であった。ただ、直感として、平静を装った方がいい様に思えた。だから、こうしたまでだ。平生から、私に対しては、優勢に立つことを望んでいる節が、令室にはあった。それが錯綜であることは承知できていた。それに、令室が私を警察に突き出さないのは、分かりきっていた。だから、弱みを握られているというものの、それは実体として、動じるほどでもないと言わざるを得ない。
されど、どことなく癪に触ったのも事実だった。だが、これも一種のつまらない意地である。いわば手管としか言えない応酬を続けた。
「でも、全く気にならないというと嘘になるわね。その天女と呼んでる子が、殺人の動機に関わっているのなら。やはり、正義心から?」
「そうではありません。」
「だったら何なの?」
「それは、確信としてあるものではなく、あくまで漠然としたものです。」
「分からないわね。」
「敢えて云うのなら、この戦争によってと。」
「戦争が、どう影響したと。」
「この無秩序な状況を作り出したことです。」
「無秩序な状況?」
「そうですよ。殺人も許されるのではないかと思わせる、この無秩序ぶりに。」
「帝大の方が金貸しをした、あの事件と似ているわね?」
「近いかもしれません。でも、決して感謝しませんよ。市ヶ谷の法廷で裁かれている戦争指導者たちに対しては。」
令室は、唖然としていた。今度は、私自身が、これを愉快に思う番だと思えた。一向に興味は冷めなかった。あの戦争犯罪者を裁く法廷の報道については。
「あなたらしいわね。全て、哲学的な意味に置き換えるなんて。でも、それが人間としてどうなのか、なんていうつもりはないわ。そんなに、超然としていられる不思議さ。全くの嫌味でなくて、むしろ、あなたの魅力だと感じているわ。」




