天女 第28回連載
「それにしても、よくここまで歩いたというのに、開かずに持ちましたね。」
「傷口ですか。」
「ええ。館からは此処まで少しありますから。」
「そこのところは気をつけて参りましたから。いつもよりもゆっくりと。」
「さすがですね。」
一つの世辞であったのかもしれない。だが、私は、世辞を述べられるのが苦手だった。だから、無難な「恐れ入ります。」とだけ答えた。もちろん、これしきのことぐらい難なくできるという自負があった。
「館からもう少し近い処に診療所がありましたが、閉院した様ですし。」
「サナトリウムですか。あの精神科の。」
「そうらしいですよ。」
「そうだったとは。」
然程に関心のない事柄だったが、大仰に返事をしてみせた。何の思案もなく、こんな具合に。そうして省みるのだ。時として、それが良からぬ方向に行くこともあったと。ただ、今回は、相手が、医師で、聡明な御仁だけに、そう慮る必要もないといえた。しかし、医師は、私が興味を覚えたと思ったらしく更にその話題を続けた。
「神経症だったとか。」
「そちらの先生が。」
「ええ。」
余計なことを述べてしまった、そんな向きを医師は醸していた。自分も、これというほどの知己でないにも拘らず、
「何か事情でも、あったのでしょうかと。」
と、形式を繕う様な物言いをしてしまった。
「詳しい事情は存じませんが、失踪したとも聞きました。器具も備品もそのままだとか。」
「それは、大変なことで。」
お館様にいつもの気まぐれだったかもしれない。一つの保養施設を、診療所と兼ねた体裁で提供するはずだった。ただ、辺鄙なこの地で成り立たすためには、お館様の支援が必要であった。でも、それも十分なものではなかったのかもしれない。




