天女 第12回連載
あの日、令嬢の尊父からあの出奔の計画を糺されたことを思い出していた。
伯爵は既に応接間のソファーに座し、決して、威厳を示さず、むしろ、しとやかといえた。そして、いつもの深みのある、あの落ち着いた物言いが始まった。それは、御令嬢の出奔に関してのものだったが、言葉として、脳裡に刻まれはしなかった。
それもそのはずで、その折、想いが逡巡していた。この出奔にあたって、いろいろと算段したことが。まずは、八ヶ岳山麓に身を潜めてもらうことにした。そこには、Kが管理する別荘があった。使わせてもらうについて、彼にとって不本意であっても承諾が取れるとの確信があった。なぜなら、Kにしてみれば、音楽学校を卒業している自分を、何かと有用にしているからだ。現に彼からの依頼であった伯爵家の令嬢のピアノ教師を務めている。だとすれば、無下にはできないはずだ。むしろ、無頓着な様子を呈するだろうと思えた。だが、その一方で、そう長くは滞在できないのも了解していた。それどころか、第一、生活の糧というか金銭の工面がままならなかった。私のわずかな蓄えとKより提供される食糧では過ごせるのは、数日に過ぎない。もちろん、これは、承知していたという主知的な面より、いわば、感覚に近い悟りであった。だからという訳ではないが、あえて、Kに告げるまでもないことだと考えてしまった。この計画が如何に無謀であるか自体を。
あの日、これも過日のことだ。K宅を訪れていた。それというのも、令嬢から出奔の手引を求められていることを打ち明けるためだった。この日のことでよく憶えていたのが、桜材の立派な座卓だったことだ。そうして、細君が淹れてくれたお茶はとっくに冷めていたことも。彼は、紬をまとうものの、全くくつろぐ様子など見せず、背筋は伸ばし座椅子に腰掛けていた。別段、威圧しようと言うものでもないが、つくり笑顔ともとれる薄笑みに、やや、嫌悪を覚えていた。そうして、くだんの八ヶ岳山麓の別荘の使用に言及した。
「一つ尋ねたい儀がある」
その梗概を述べ終えたときだった。Kは、私を質した。それを受け、「何だね」といささかいぶかしさを覚えた心情を顕にした。
「どうして、全面的に頼ろうとしない?」
いわば、金銭的な援助を、相当な期間、そこで生活できる様に見てほしいということをあえて言わなかった。
「請け合わないのが、分かっていたからだ。」
「そうか。」
Kの、その言葉に作為を感じずにはいられなかった。やはり、私のよみに間違いはなかった。
「君の態度からして蔑んでいることが伺われたからな。」
だが、Kは、表情を変えなかった。
「それは、心外だ。」
悟っていた。私に如何なる想いを懐いているか。
「やはり、蔑んでいるのだろう。異性に対し、盲目的な献身を施すことに。」
「確かにお前らしくない。」
Kはぽつりとそう述べ、沈思する。ただ、この方が楽だった。やはり、御令嬢に何らかの恋心があるのだと詮索されるとなると、どうしても、高潔に装い、聖人たらん素振りを示さねばならなかったからだ。
「むしろ失望に近いものを感じているよ。」
それにしても興味を覚える物言いだ。
「失望?」
「耽溺している訳でもないだろう。」
「否定はしない。」
聖書にある「マテリアルな関係」という言葉を思い出していた。それになぞらえるものではないが、そこにある高貴さと、無償、すなわち、これが「耽溺していない」の修辞で言い尽くせる、そうして、そこにKの完全に蔑んでいない心持ちを察していた。




