天女 第106回連載
「また、こうしてあなたにピアノを教えられる。ほんとご縁がありますよね。」
この私の物言いには作為があった。第一、ご新造は、どれほど承知しているというのだろうか。私がK の顔を立てるために引き受けたことを。そう考えると、やはり、一廉ともいえる蟠りがあることに気付かされる。こうして、皮肉混じりの物言いで、気を紛らわそうとした。
「でも、嬉しい。ピアノを教わることで、あのよかった頃を思い出せるから。」
「そうですか。」
顧みて少々冷めた物言いになってしまった。やはり、否定しきれないでいた。ピアノを教えていたころ、ご新造に溌剌とした若さでなく、世帯を持つ配偶者で、そこに翳りというものを見出していたことを。
「単なる惰性でなくて。」
「何がですか。」
「御令室とのことよ。」
「たとえそうであっても、今では、愛おしさも感じる次第となっています。」
よく臆面もなくこういうことが云えたものだと、感心した。もちろん、それなりに意味があってのことだ。やはり、一種の牽制球であるには違いない。ただ、単なる、自身の思い過ごしであるのは、自覚できていた。
「それはそれは。」
薄笑みだった。照れでもあり、どことなく小馬鹿にしていることも見出せていた。そうして、ご新造は、机に置かれた楽譜を、一冊手に取っては、ページをぱらぱらとめくるという行為を繰り返した。それは、何か訳ありだと言わんばかりの様子を呈し、この私に何か訊ねて欲しいと言っているようにも思った。だが、こういった場面では、どう切り出すかと、あぐねる仕儀となってしまった。
「でも、実際は、累卵の危うさにあるのではないですか。」
「累卵?」
「そう。卵を幾つも重ねた結果、いつ破れてもおかしくない状態のこと。」
このご新造の説明で、累卵なる言葉を知る次第となった。




