01 プロローグ
「やっぱり……これも」
私は土に埋もれたそれを掘り起こし両手に抱えた。腐らない木と私が名付けた物質に覆われ、錆びない鉄とこれも私が名付けたモノが裏に付いている。
表面に小さく文字が書かれているがそれはここで使われている文字である。文字の羅列に特別な意味を見出す事は出来ない。
この物体には小さな孔が空いていて、その中には小さな球体が埋まっている。同じような物体がそこらじゅうに散乱している。何に使うものなのかはわからない。
これ以上散策しても収穫はなさそうなので表に出る。この遺跡も例に漏れず巨大な白い塔の形をしている。
倒壊して半分土に埋もれているが、建物の外壁はこれ以上ない完璧な形で切り出された石をつなぎ合わせて作られており、数十個の石で丁度三百六十度の円柱を保っている。外部は蔦植物に覆われていて禍々しい。
内部と外部で土の体積具合に少し差がある。おそらく倒壊してから内部に土が堆積していったのだろう。倒壊してから数百年経過しているはずだ。
「おい、もう帰ろうぜ」
外で待っていた男はうんざりした様子だ。
「アフマドはどうした」
「先に帰るってよ。日没が心配らしい」
「そうか」
私と男は遺跡のある小さな森を後にして、大草原へと進む。
「ああ、馬があればなあ」
「そうだな。ここは最高だったろうな」
だが現実として馬はない。気の遠くなるような距離を徒歩で突き進むしかないのだ。
私と男が半日かけて天幕型の住居の集落に戻ると、夕食の準備がされていた。主人であるラコタという名前の男……と呼ぶべきなのであろうか、彼は四つの鉄鍋を並べて端から蓋を開けていく。
「思ったより遠くてびっくりしただろう」
「ああ、日が暮れてきて焦ったよ」
鍋の中身は蒸した草、煮込んだ草、液状になった草、油で炒めた草である。
「ではごゆっくり」
「今日もありがとう」
ラコタが我々の天幕から出て行った。途端に口を開く男。
「またこれかよ!どんなに料理しても草は草だろう!」
「文句を言うなマルコ。彼らは最上級のもてなしをしてくれているのだぞ」
先に帰っていたアフマドがマルコに注意を促す。アフマドは慣れた手付きで草料理を我々のこれまた鉄製の小皿によそう。
「だいたい何でいつもこの蒸した草が必ず入ってるんだ?これもういいよ。飽きた」
「これは栄養を気にしているんじゃないか?火を加えると失われる栄養がある。だが生だと寄生虫なんかが怖いからこうして熱を加えているのだろう」
アフマドの両親は医者で、兄二人も医者らしい。栄養学に造詣が深いのはそういった背景もあるのだろう。
「確かにこれは半生としては優秀な調理法だな」
私も料理を口に運ぶ。しかしいかんせん青臭い。
「ああ、肉が食いてえなあ。ラチェの集落は最高だったぜ」
「マルコ少し黙っていろ」
「こんなに草ばっか食ってるとまた痩せちまうよ。力が出ねえよ」
「お前、ただでさえまずいのを我慢して食ってるのに変な事ばかり言うな!余計にまずくなるだろうが!」
アフマドがマルコの口を抑えようとする。
「あっ!本音出たよこいつ。あーあー、言っちゃったー」
「子供かお前は!」
食事を終えると四つの鍋と食器をラコタの天幕に返しに行く。マルコは余計な事を喋りそうなので我々の天幕に残して寝具の用意をさせた。
ラコタは四つの鍋が綺麗に空になっているのを見て満足そうだった。ラコタの天幕にはラコタの妻、そして三人の子供が居た。
皆下着だけなので身体をよく観察することが出来た。ラコタは二周に螺旋を巻いている立派な角を持っているが、ラコタの妻は一周するかしないかである。
妻とラコタの体格差は二回り程。ラコタのほうが大きく筋肉質である。子供の角は小さく小指ほどしかない。また子供の体毛は驚くほど白い。
ラコタの天幕から出てアフマドと話をしながら戻る。
「どう思う?」
「どうって?」
「やっぱり羊だよなあ」
「食べ物の特徴はそうだと思うが」
「角とか毛とか。山羊ではないだろ」
「食べればわかるんだが、そういうわけにもいかん」
「おい物騒な事を言うな。聞かれたらどうする」
私達の天幕に戻るとすでにマルコは熟睡していた。私とアフマドも布団に潜り込んで天井を見上げる。この集落の集団の特徴は羊が当てはまるので彼らの事はオウィス族とでも呼ぶことにしよう。
この集団は草原で遊牧生活を営んでいる。まるでブルガールやマジャール人のようだ。草を食べるのが家畜か本人達かの違いであって基本的な行動原理や死生感は彼らのそれと大差ないように思える。誇りを尊び、客人を厚くもてなす。
身体的特徴は今までの例に漏れず、我々の世界の人間と動物を合わせたようなもので手は人間と同じであるが足は蹄である。鉄器を使って草を刈り取り、鉄器で調理して食べている。身体は毛で覆われているが寒冷した気候のせいなのか遊牧民の宿命か、衣服を沢山着るのを良しとしているフシが伺える。
殆ど自給自足の生活で物々交換をしているようだが貨幣も持っている。貨幣は今まで見たものと共通のものだ。そういえば彼らの特別な力はまだ見せてもらっていない。
この世界の部族はそれぞれ独自の特別な力を持っている。それはほとんど生活のために使われる力なのだがどういう原理でそのような力を生み出しているのかはさっぱりわかっていない。
この世界は不思議に満ちている。そもそもなんで我々がこの世界に来たかと言うと……
〆 〆 〆
あれは忘れもしない今から三年と六ヶ月前の事。私は誇り高き正統なローマ帝国の軍人であり首都コンスタンティノポリスで戦術の研究に勤しんでいた。
丁度その頃政争がありバシレイオスという男が新しい皇帝になった。
バシレイオスは旧皇帝派を次々と重役から外した。そのおかげでただの部隊司令官だった私も大分出世しタグマと呼ばれる中央軍に配属された。
バシレイオスは強い野心を持つ男だった。彼は地中海の覇権を帝国の手に戻そうと様々な遠征を試みた。
そしてある日中央軍を用いてシリアの穀倉地帯をサラセン帝国から奪還しようと大規模な遠征軍を結成した。
十二万から成るその軍は三つの艦隊に分けられコンスタンティノポリスを出発、エーゲ海に入ってアテナイ沖に停泊。
ヴェネツィア商人が持ってくる海戦時の漕ぎ手用の奴隷、橋頭堡となる砦を建築するための木材の受け渡しを待っていた。私は第三艦隊の副将に選ばれていた。
程なくしてクレタ島からサラセンの大船団が出航したとの情報が入った。艦隊規模から考えてサラセン帝国最強のエジプト海軍である可能性が高かった。
第一艦隊と第二艦隊は南進してそれを迎え撃ち、第三艦隊は継続してヴェネツィアから物資を受け取る。第一艦隊と第二艦隊が戻らなかった場合、第三艦隊はコンスタンティノポリスに引き返すという手はずになった。
第一艦隊と第二艦隊が南進してから三日後、我々第三艦隊はクレタ島に勢力を張るサラセン人の海賊の襲撃を受けた。
我々は伝統のギリシャ火を用いて海賊に対抗したが海賊の戦い方は正規軍のそれとは異なる。ヤツらはこちらに近づいてきて攻撃を仕掛けたと思ったらすぐに反転して逃げに走る。幾つかの船は血気に逸り深追いしたまま戻ってこなかった。
海賊との戦いは長丁場となり二週間が経過した。兵は疲弊し、矢も半分以上使いきり、頼みの綱のギリシャ火薬も底を尽きつつあった。
海賊の術中にハマってしまったと気付いた時、我々第三艦隊はエーゲ海を大きく離れクレタ島の東まで流されてしまっていた。
帆を張り全速力でこの海域から出る事を決めると今度は海賊に追われる立場となった。
海賊は我が帝国の領土である小アジアに我々を近づけさせまいと常に北側に位置し矢の雨を降らせてくる。
サラセン人の矢はよく飛ぶ。我々の矢は届かないので一方的に打ちのめされる。矢には油が塗られ炎の弾となって飛んでくる。数日間の晴天が災いして船体をよく燃やした。
我々は逃げるしかなかった。昼夜を問わない海賊の追撃を振り切った時、東にはシリアの大地が見えていた。
すでに沿岸にはサラセン帝国の軍が集結して我々を待ち構えていた。しかし上陸するには兵糧と兵数が圧倒的に足りない。かといって引き返そうにも風は西から東に吹いている。あの海賊達の船を潜り抜けて戻れるとは思えない。
二晩停泊して兵を休め様子を伺っていた所、西から友軍の船が近づいて来た。伝令はこう伝えた。
「第一艦隊と第二艦隊は激戦の末エジプト海軍の撃退に成功。これよりヴェネツィア艦隊と合流してシリアに向かう。第三艦隊は上陸作戦を遂行されたし」
我が第三艦隊の兵力はすでに三万弱まで減っている。一方相手のサラセン帝国軍はどんどん膨れ上がっている。相手の兵力が完全集結する前に上陸を敢行すれば打ち破れる可能性がないわけではない。
このまま沖に居ても兵糧が無くなるだけだった。苦渋の決断であったが我々は上陸を選んだ。
「見たところまだ一万以下。遊撃隊かな」
私の隣に居るこの男の名前はマルコと言った。そうあのマルコであった。マルコはヴェネツィア商人であり、取り引きの際の保証人として傍に置いておいたのだ。
奴隷と木材の取り引きが終わった際にはヴェネツィア艦隊に引き渡す予定であったが、結局こうして私の隣に残る事になった。
多言語を操り、商人ならではの切り口で物事を解釈するこの男を私は気に入っていた。
第三艦隊は船団を三つに分け、中央を将軍が、左翼に私、右翼にもう一人の副将軍を配置し、岸に対して平行に陣形を構えた。二段の列を組み、側面にも部隊を配置する帝国伝統の対サラセン用の陣形であった。
右翼には足の速い騎兵を配置し、私の担当する左翼は重装歩兵で敵右翼の攻撃を支え受ける算段であった。
上陸を開始すると途端にサラセン帝国軍の猛攻が加えられた。彼らは馬を自在に操り、右から左から矢を雨の如く降らせてくる。
右翼の軽装騎兵隊が敵内部に深く入り込み混戦になったのを見計らって将軍が前進の合図を出す。帝国伝統の重騎兵が前に出る。だが同時に敵も重騎兵を投入した。
重騎兵は動いている時は強いがその衝突が終わると途端にモロくなる。重騎兵同士で衝突が相殺されためお互いに動きは止まり、大激戦となった。
左翼の私の所は敵の攻撃が最も激しい場所となった。一方的に騎兵の突撃に晒され陣形は乱れ、どこに敵が居るのか味方がいるのか解らなくなった。
私の直属の兵の列が敵の騎兵突撃により弾き飛ばされ、戦列に穴が開いた。その隙間から兜の上にターバンを巻いた敵将が現れた。何やら大きな声で叫んでいる。
「名乗っている!」
隣に居たマルコが叫んだ。
「名前はアフマド!」
そう、この男はあのアフマドだった。この勇猛な男は護衛の兵士数人を槍で打ち砕き、真っ直ぐ私へと向かって来た。
私が馬上で剣を抜くとアフマドもまた槍を投げ捨て、両刃の剣を抜いた。
最初の接触は盾同士だった。強い衝撃を受けて体勢を立て直そうとした時、アフマドはすでに剣を振り下ろしていた。
剣は鱗状の鎧、我々がクリバニオンと呼ぶそれの一部にめり込み私は鈍痛を覚えた。返す刀で私の脇を狙うアフマド。そうはさせまいとその手首目掛けて剣を振り下ろすと手首を返して受け流される。
この男、相当な手錬れである。こんな猛将相手に生半可な私の兵法では敵うわけなどないと思った。せめて相打ちに持ち込もうと思いアフマドの身体を掴んで兜の最も堅い部分で頭突きを喰らわせた。アフマドは顎にそれを受けて脳震盪を起こし動きが鈍くなった。
この隙を逃すまいと剣を振るうがすべて飄々と裁かれてしまう。そのうちアフマドの動きに精彩が戻り、私は防戦一方となった。
私の劣勢を見るや周囲に居た護衛の兵士達が一斉にアフマドに飛びかかった。アフマドは何かを叫び、高笑いしながら去っていった。サラセンの兵はアフマドの退却と共に一斉に引いていった。
空を見上げるとサラセン帝国軍の本陣の方向に砂嵐が襲い掛かっていた。私は砂嵐に命を救われたのだった。
「また会おうってよ。気に入られたみたいだぜ」
マルコはそう言った。
「冗談じゃない。二度と会いたくない」
私は正直な感想をマルコに言った。
だがその願いもむなしくその夜再びアフマドと相見える事となった。我が軍の損耗は予想以上に大きく、陣を構築するだけで手一杯だった。
死体を埋葬する気力も残ってない部隊に塹壕を掘らせるのは困難であった。出来上がった野営地は堅固という言葉とは程遠いもので、あちこちにある塹壕の未完成の部分を突破すれば侵入は容易かった。勿論敵はそれを見抜いて夜襲を掛けて来た。
まず敵の弓騎兵が火矢を一箇所に集中させて来る。この火矢は燃やすのが目的ではなく、目印をつけるためのものだ。急いでそこにいる部隊を退避させ、敵の奇襲に備える。
兵士達の疲れは極限に達していた。クレタ島の海賊に襲われてからこの上陸作戦までロクに寝る暇もなかった。
消耗に次ぐ消耗。そして一貫してこの神出鬼没の持久作戦を展開するサラセン帝国軍。このような精神的損耗が大きい状況下では兵士の突撃行為に注意しなければならない。
火矢の第二派が着弾した。私の部隊のすぐ傍であった。一人の騎兵が精神的重圧に耐えかねて敵陣目掛けて叫びながら突撃を敢行した。多くの兵士もそれに続く。
これは集団狂乱であって、決して訓練された軍人の行動ではない。案の定待ち構えていた敵の歩兵隊に次々と音もなく殺されていく。それを察知して余計に集団狂乱に走る兵士達。
私は兵を抑えようと突撃しようとしている兵士の前に出た。兵の士気を正常な状態に戻すのが将たる者の勤めだ。深く息を吸い込みありったけの力を声に込めた。
「お前達!お前達は何だ!」
「誇り高きローマ帝国のタグマであります!」
「そうだ。お前達は帝国の訓練を受けた本職の戦闘集団だ。こんな見え透いた心理戦に引っかかるなど先祖への冒涜だとは思わないのか!」
「申し訳ありません。レオン副将!」
「良いか、敵はあの手この手を使って我々の心を揺さぶってくる。それは正面からぶつかったら勝てないからだ。誇りを持て!ローマの戦士達よ!」
私の激に対して兵士達からの返事はなかった。代わりに兵士達は盾を前に構え、衝突に備える構えを見せた。後ろを振り向くとサラセンの騎兵隊が突っ込んでくるのが見えた。
馬を反転させようとすると相手の先鋒が突っ込んできた。馬の横腹を見せていた私は対応できずに落馬してしまった。動きを止めないように後転して立ち上がる。目の前には同じように落馬したアフマドが居た。この猛獣のような男は剣を抜くとすぐに切りつけてきた。
周囲に助けを求めようにも各々が混戦になってしまっている。アフマドの太刀を受けるので精一杯の私はどんどん後退し遂に周囲には誰もいなくなってしまった。
私はアフマドの顔に盾を投げ付け視界を防ぐとその場から逃げ出した。
この戦は完全に負けだと悟った私はせめて好条件で降伏しようとマルコを探した。弁が立つマルコならなんとかうまく纏めてくれるかもしれない。将として部隊の殲滅だけは何が何でも避けなければならない。
幕舎に向かう途中でマルコを発見した。
「マルコ!この戦は負けだ!」
「そんなの見ればわかるぜ」
「降伏調停を頼みたい」
「レオン……その前にそいつを何とかしろ!」
後ろを振り返るとアフマドが剣を持って追ってきていた。
「大した自信だ、単身でこんなに深くまで追ってくるとは」
私は逃げるのを止めた。
「マルコ、通訳してくれ」
「何だ」
「私の部下の命を救ってくれるならここで勝負してやる、と」
マルコはアラブ語でアフマドに語りかける。アフマドも強い口調で返す。
「お前との力の差は大きい。お前は必ず死ぬ」
マルコの通訳。そんな事は百も承知であった。
「そうだ。わかっている。私の命と引き換えに部下を助けてくれ。だが私も武人だ。せめて戦って死にたい。死に場所をくれ」
アフマドに話しかけるマルコ。アフマドは大きく頷くと剣を前に静かに一歩を踏み出した。月夜に照らされる両刃の鈍い光。これが私がこの世で見る最後の景色かと思った。しかし太刀が振り下ろされる事は無かった。
突然何かを大声で叫ぶアフマド。マルコの様子もおかしい。二人とも私ではない何かを見ている。辺りを見渡すと兵士達も陣も見えない。
それは砂嵐だった。しかもただの砂嵐ではない。我々三人は球状の何かに包まれている。そしてそれが横に回転を始めた。
遠心力で壁のようなものに磔にされる三人。回転はそのうち縦になったり横になったりして滅茶苦茶な挙動を始めた。この辺で私は気を失った。
〆 〆 〆
次に意識が戻った時、私は月が二つある夜空を眺めていた。辺りは丘陵地帯で、その下にはよく整えられた耕地が広がっていた。私の傍にマルコが倒れていたのでマルコを叩き起こした。
マルコはうろたえて状況の説明を求めたが私に聞かれても困る。とにかく此処があの会戦の場所でない事だけは確かだった。
周囲は見渡す限り平地であるし、我々の兵もサラセン帝国の兵も居ない。
後ろで呻き声が聞こえた。振り向くとそこにはあの猛将アフマドが居た。意識が回復していない様子だったが、私の顔を見ると剣を拾って斬り付けて来た。
慌ててマルコが後ろからアフマドを羽交い絞めにし、アラブ語で何かを怒鳴りつけたがアフマドはそれに構わず私に向かってくる。何を言っても通じない。ならば態度で示すしかない。
私は二つの月を指差し、直立不動の姿勢を取った。
アフマドは剣を私に向かって振り下ろす、が、それは額の手前で止まった。二つの月を見たアフマドは剣を静かに地面に刺した。意識が戻ったようだった。
「マルコ、通訳しろ」
「何だ」
「我々三人はどこか違う所へ飛ばされてしまった。敵も味方もない。ひとまず剣を納めろ、とな」
マルコがアラブ語でアフマドに語りかけるとアフマドは頷き、剣を鞘に仕舞った。
アフマドは腰から羊の胃袋で作られた水筒を取り出し、ゴクゴクと飲みだした。マルコと私もアフマドに頼み込み、水を分けてもらった。
水を分けるという事は彼等の文化では友好を意味する。だから安心して眠くなってしまった。
幸いにしてそこまで寒くはない。我々は夜明けまで眠って、その後周囲の様子を見て動こうと決めた。
二回目の覚醒。鳥の声で目が覚めた。マルコとアフマドはまだ眠っている。空が白く光り、太陽が昇ってきているとわかった。農耕地に目をやるとすでに農民が作業を開始していた。
私はマルコとアフマドを静かに起こすと装備を整えて丘陵地を下った。
マルコとアフマドには私の後ろ遠方からゆっくり着いてくるように言った。全員が捕まったり殺されてしまっては困ることになるからだ。また三人同時だと農民も警戒する。
農民に近づくにつれ、おかしな点に気がついた。農民は非常に薄着でやたらと毛深い、というか褐色の毛皮そのものである。
腰巻ようなものを履いているがそこから伸びている足は獣のそれである。踵が非常に高い位置にあり、爪先立ちである。靴は履いておらず裸足である。
顔を見ると鼻も獣のそれであるが吻はそこまで突出しておらず人間のようである。目は瞳と結膜が分かれておりここも人間と同じである。だが顔は毛皮で覆われており、頭の上から二本の突起物が飛び出している。全員身長はとても低い。
農民達も私に気付いたようで作業を辞めた。農具を地面に置いて無言で私を見つめている。農民の緊張を解こうと話しかける。
「こんにちは。私はローマ帝国タグマの第三艦隊副将のレオンと言う者だ」
農民の一人が顎に手を置いて首を傾げる。手は人間のそれと同じだが指の外側と手の甲は毛皮に覆われている。爪はかなり厚く、黒い。
農民が口を開いて何かを言っているが全くわからない。なんという事だ。言葉が通じないというのは最悪の事態だ。後ろを向いてマルコを指さし、呼びつける。
だがマルコも彼等の言語はわからなかった。農民達はお互いに大声で何かを話し始めた。農民達は皆一様に前歯が異様に大きい。
「おいレオン、その前にこいつら人間じゃないぞ」
「そうかもしれん。だが逆に彼等から見たら我々は何に見える?」
「あっそうか」
マルコと私は剣を地面に置いて敵対の意がないことを示す。マルコは頭の回転が速くて助かる。農民達は徐々に静かになった。そのうちの一人、毛並みが他と違って灰色の奴が我々の後ろを指さした。
後ろを見るとそこには剣に手をかけてプルプル震えているアフマドが居た。慌ててアラブ語で何かを叫びながらアフマドを止めるマルコ。アフマドはマルコに強い口調で説得され、しぶしぶ剣を置いた。
マルコが身振り手振りで農民達に何かを伝えると農民達一様に頷く仕草を見せ、我々に付いてくるよう手招きした。マルコは我々の剣を拾ってその灰色の毛並みの奴に渡した。
「おいマルコ、何をお願いしたんだ?」
「食事と水だよ。付いて来いってさ」
後ろでアフマドが何か言っている。
「アフマドは何だって?」
「罠だったらどうするだってさ。アホくさ」
「この状況で罠も何もあるまい。飢え死にしてしまうぞ」
マルコは振り返ってアフマドに何かを伝えた。アフマドは再び何かを言っている。
「今度は何だって?」
「こいつらはウサギだぞ、と言っている」
「ん?確かにそう言われてみれば」
彼等の頭の突起物、よく見るとそれは耳であった。アフマドの言う通り彼等の身体的特徴はウサギと共通する部分が多い。
「ウサギにご馳走になるのはサラセン人のプライドが許さないのか?そのまま伝えろ」
マルコがアフマドに話しかける。アフマドは最初は何かわめいていたが、やがて大人しくなった。
「大人しくなったな」
「最初はグダグダ言ってたけど、ここで彼等に逆らっても得がない事を説明した。それからもてなしに答えないのはサラセン人の美徳と信仰に反さないのか?と言ったら大人しくなった」
「マルコ、頼りにしているよ」
前方に彼等の集落が見えてきた。三十軒ほどの家が集まっている。どの家も木造だが大きく立派で綺麗にしてある。
だが建築の水準は低い。帝国が共和制だった頃の農民の住居よりも確実に劣る。どの建物もきちんと水平を出せていないし、あちこちに隙間が空いている。
その中の一軒に我々は招待された。灰色の毛並みの奴は自らを指さし、「ハビ」と言った。周囲に居た者もかの者を指さして「ハビ」と言った。おそらく名前か役職名だろう。
家の入り口でハビと周囲の者達は桶に汲んであった水で足を洗う。見事なまでにウサギの足だ。我々に対しては靴を脱ぐように指示したのでその通りにする。
ハビが大声で叫びながら別室のドアを開ける。そこには簡素な寝床が六つあった。それぞれに子供らしき者が寝ていたが、ハビは片っ端からそれを叩いて起こしていく。マルコが笑い出した。
「どうした?」
「レオン、何だこいつらは。この人間臭さ。ウサギ人間だよ」
「そうだな。人間と殆ど変わらないと考えていいのかもな」
叩き起こされた子供達はそれぞれが大慌てで服を着て、別の部屋に走っていった。ハビはそのまま私達を居間に案内する。
居間には大きな木製の机、といってもそれは帝国のそれともサラセン人が使う地べたに置くそれとも違う中間の高さのものが置いてあり、促されてその周囲に座った。
我々の他の六人のウサギ人間も周囲に座った。簡素な布の敷物には背もたれのような突起物が付いていた。
居間からは別の部屋が見える。台所のようだ。台所では叩き起こされた子供達がセカセカと動いて何かを作っていた。
ハビは大きな甕を持ってくるとそれをテーブルの真ん中に置き、勺を使って小さな土器に水を分けていく。
水を頂く。少し泥臭いが普通に飲めるものであった。アフマドは最後まで用心して臭いを嗅いだり、指を突っ込んで舐めたりしていたが私とマルコがグイッと一気飲みしたのを見て諦めたように土器に口を付けた。
そうこうしているうちに食事の準備が出来たようで、子供達が大きな鍋を運んできた。動物だろうと人間だろうと、化け物だろうと子供というのはかわいいものだ。一生懸命取り皿にそれをよそってくれる様はとても愛らしい。
料理は煮込みであり、野菜がふんだんに使われていた。根野菜とキャベツ、それをニンニクとセロリで整えてある。マルコは気に入ったらしく遠慮なしにおかわりを頼んでいた。
「おいレオン、このニンジンすごいぞ。こんなに色がついたのは見たことがない。臭みもない。キャベツもうまいな。こんなに身が厚いのは初めて見た」
美食家のヴェネツィア人が絶賛するくらいだ。彼等の農業水準は高い水準にあると見ていいだろう。アフマドは最後まで怪訝な顔でおっかなびっくり食べていた。
食事が終わり、いよいよ本題に入った。私は知っている限りの国家、土地、宗教、民族の名前を出してみた。だが誰一人としてそれを知らなかった。つまり我々は全く別の場所に飛ばされてしまったと考えていい。月が二つあった事を考えると同じ世界なのかも怪しい。
アフマドが立ち上がり、壁にかかっていた木の皮に文字が書かれたものを手に取る。アフマドは頭を抑えるとそれを私に渡してきた。文字は我々が見たことのない種類のもので、大きな文字の下に小さな文字の羅列。文字には×印が加えられ、その列は途中で止まっていた。
「マルコ、これは暦ではないか?」
「そうだと仮定しよう。この大きな字が月、小さな字が日付だとして……」
「三十八ヶ月あるな。ユリウス暦ともイスラム歴とも程遠い」
「一ヶ月は四十六日か」
私は愕然とした。何もかもが私の知っている事と違いすぎる。私が今まで学習してきた事はこの土地では全く役に立たない。そしてそれは私達の生存が全く保障されないという事でもある。
ハビ達は私達に気を使ったのか、農作業の残りがあるのか、私達にゆっくりゆっくりという仕草をして、外に出かけていった。気前が良いというか、人が良すぎるというか、我々が強盗だったらとは考えなかったのだろうか。
「おいマルコ、我々の選択肢はもう二つしかなくなったぞ」
「何だ」
「ここで自給自足生活を送るか、このまま彼等の社会に溶け込むかだ」
「何でだよ。帰れる方法は探さないのかよ」
「さっき私が知っているものすべてを話してみたが彼等は知らなかった。つまりここと我々の国家は遠く離れているか、繋がっていないということだ」
マルコは暫く考えた後、アフマドに意見を求めた。
アフマドは冷静に力強く語った。それを訳して私に伝えるマルコ。
「どちらの道を選ぶにしろ暫くはここで厄介になったほうがいいと。情報が足りなさすぎる。地理もわからないのにどうやって食べ物を探すんだ、だとよ」
一番ここを嫌がっていたように見えたアフマドだが切り替えが早い。さすがはサラセン人、現実主義者である。
アフマドの提案はこうだ。
我々は言葉もわからないし、彼等の生業である農業にも疎い。しかしここの建築物を見ると我々の技術よりは大分劣る。我々は軍人であり土木や建築の心得がある。だから暫くは大工をやって糧を得ながら情報を集め、財が溜まったら行動を起こそう、との事だった。
私とマルコもこの提案に賛成した。そして三つの事柄を確認するために台所で後片付けをしていた子供達に話しかけた。子供達は無邪気に机に付いて、我々の顔を興味津々で見つめる。
第一にここにはどれくらいの家があるかだ。ここには三十軒ほど集まっているがこれが全部ではあるまい。だがもしこれで全部だとしたら大工商売は成り立たない。マルコが手に絵を描いて説明する。
子供達によるとこのような家の集まりが全部で十五ほどあるそうだ。つまり四百五十軒ほど家がある事になる。これは合格点だ。
次に材木、どこからそれを調達するかだ。これもまたマルコが絵を描いて説明する。子供達の言っている事を推測すると村の外れに森があるようだ。また河川もあるようで、運搬には困らない事も予測できた。
最後に財である。この原始的な社会で貨幣が存在するかどうか期待はできなかった。マルコが一応手に描いて説明すると、子供達は別室から小さな袋を持ってきて中にあった貨幣をテーブルの上に撒いた。
「これは……」
マルコが驚きの声を挙げた。
「どうした?」
「嘘だろ!金貨だ。しかも見ろ、この鋳造技術」
私は貨幣を手にとって見てみた。とても複雑で三次元的な絵が付けられており、また金の中央部の回りは別の白い金属で縁取りされていた。この素材が何であるかは誰もわからなかった。我々の技術ではとても作り得ない代物である。
貨幣があるならどこかに大規模な都市もあるはずだ。都市ならば我々の国家の情報もあるだろう。我々の心は期待に膨らんだ。
〆 〆 〆
計画を立てたら実行だ。我々は近隣の森に出かけ、まずは自分達の家を作るための材料を調達することにした。この家は見本も兼ねるため、立派に作らなければならない。
ハビの子供のうちの一番大きな子にお願いして森まで案内してもらう。この子の名前はアビーと言った。身体的特徴からしてメス、いや女の子だ。
乳房は人間と同じ位置にあるのか、胸の部分に膨らみが見られる。成獣、いや大人と比べて全体的に子供は厚着だ。毛皮が未発達なのかもしれない。
アビーに連れられて暫く行くと川が見えた。マルコとアフマドは大喜びで川まで走っていったが途中で止まって手招きをしている。
近づいてみるとこの川は異常に青い。何かの鉱物が含まれているのだろう、生物の気配はない。
流れが穏やかな所を見るとここは中流―下流域だと推測できる。アビーは川のほとりにある小屋に行き、成獣、いや成人の男と交渉して小さな船を借りて来た。
我々はアビーと共に長い時間を掛けて周囲に畑が無くなるまで船を漕ぎ、先に山脈が見える森にたどり着いた。
遠くに見える山脈は険しく、その頂には雪が積もっていた。森の中を進み、木を見て回る。植生は我々の場所と大差がない。これならイケそうだ。
我々は早速木の伐採を始めた。取れるだけの数を伐採し、夕暮れになるとアビーの迎えの船に乗ってハビの家に帰る。これを十日ほど繰り返した。ハビは何も言わずに毎日食事の世話をしてくれた。礼を言おうにも言葉が通じないのがもどかしかった。
ある日、いつものようにアビーに船で送られ、木を切っていると途中でアフマドが生物の気配を感じると言う。
作業を中断し、皆で息を潜める。すると出てきたのはなんとウサギであった。アフマドは合成弓を引く。
「おい、マジか」
マルコが止めようとする。
「何で止めるんだ?」
「いや、だって」
我々が議論するより速く、アフマドの矢がウサギを捉えた。アフマドはのた打ち回るウサギの首を掴み、マルコに何かを尋ねる。
「何だって?」
「メッカはどっちの方向かと聞いている」
「そんなもんこっちが聞きたい」
マルコが唐突に何かを叫びながら空を指さすと、アフマドはウサギを寝かせ、神への祈りの言葉を捧げながら腰元の短刀を抜いてウサギの頚動脈を切った。
「おいマルコ、メッカの方向がわかるのか?」
「わかるわけないだろ。適当だよ」
ウサギは血を失い、やがて静かになった。アフマドは黙々とウサギを解体していく。そして火を起こし、ウサギを焼き始めた。マルコはウサギの肉の部位を指さしながらアフマドに何かを尋ねている。
「何を喋っているんだ」
「うまい場所を分けてもらうために交渉している」
「えっ?お前さっきウサギを殺すのに反対してたろう」
「いや、だって肉食いたいじゃん?もう十日も食ってないし。いい臭いするし」
この男の調子の良さ、これは根っからの商売人である。しかし私もこの誘惑には勝てなかった。久しぶりの肉のなんと旨い事か。我々三人は夢中になってウサギの肉を食んでいた。
「あっ!やべっ!」
マルコが突然立ち上がった。視線の先にはアビーが歩いてくるのが見えた。
「早く隠せ!」
私も慌てて肉を掴んだが、アフマドは悪びれた様子もなく堂々と食べていた。ならば隠すのも無駄だろうと思い、私も食べる事を続けた。マルコがアラブ語でアフマドに何かをわめいていたが、アフマドは無視してウサギを食べ続けた。
アビーの反応は特に何もなかった。彼女はハビに頼まれて切り取った木材の皮を取りに来ただけだった。木の皮を二十枚ほど剥いで渡すと、そのまま帰って行った。
アフマドが我々二人にアラブ語で何かを言った。そして笑った。
「マルコ、何だって?」
「肉が食いたくて食っている。何故隠す必要がある?自分達の食文化に誇りを持てってよ」
「それだけか?」
「お前達はこの四足歩行のウサギと、彼女らが同じ生き物だと思っているのか?頭大丈夫か?と」
「最初にウサギだって言ったのはアフマドだったような……」
「レオン、こいつの発言は滅茶苦茶だ。真に受けないほうがいい」
だがアフマドの考えは一応筋が通っている。この男は自分が認めないうちは徹底してそれを否定する方向に走るが、何かのきっかけで一度認めてしまうと途端に全面肯定に走るのだ。その証拠に今やハビに出された料理を一番食べているのはこの男である。
「恥じるべきは我々かもしれんな。見た目が似ているからと言って仲間意識があるなどと考えてしまった。猿は人間に似ているが、我々は猿が他の動物に食べられているからといって涙を流したりするか?」
「しねえな」
マルコは身体の後ろに隠していたウサギの大腿部をかじりながら答える。
「それよりマルコお前、お前こそ全く一貫性がないぞ。アフマドを止めようとしたり、かと思えば媚びへつらって肉を無心してみたり、アビーが来たら隠そうとしたり」
「そ、それはその場の流れで……」
「まあいい。お前のその調子の良さは武器でもある。ところでアフマドが言うように彼女らはウサギではない。しかし私は分別のために彼等に名前を付けたい。部族名というか民族名とでも言おうか、我々とは異なる存在として」
「ふーん、何かいい発想でもあるのか?」
「クニークル族というのはどうだ?ラテン語のクニークルス、つまりウサギから取っている」
「どっちにしろウサギかよ!」
マルコはウサギの肉を頬張りながら言った。
ハビの家に寝泊りしている間にいろいろわかった事がある。まずハビの集落はハビの曽祖父を中心として皆同じ一族であるという事。
男はビで終わり、女はビーで終わる名前が付けられている事。ハビの一族はニンジンとキャベツを専門に作っているという事。
農業に使う水は鉱物にまみれた川からではなく、いくつかの集落で共有している溜め池から持ってきているという事。
そして男女比である。男が異様に少ない。男女は明確な体格差がある。だから労働力として男が貴重である。我々がすんなり受け入れられたのもこれと関係がありそうだ。
我々は大工仕事を続ける。木材は日の当たる場所に集めておいて数がまとまってから煙で燻すことにした。それが終わったらいよいよ着工である。
土地についてハビに相談すると、ハビは自分の土地の中の川に近い部分を使って良いと言った。気前が良くて本当に助かる。
約十日かけて外装を完璧に作り上げ、三日で内装を仕上げた。木造ではあるが良い出来だった。きちんと水平も取れている。完璧なる四角を作り上げた。内装はここの風習に従って靴を脱いでくつろぐ形式だ。これも完璧なる四角で統一した。
完成式の日はハビの集落以外にも色んな集落の人が見に来た。子供が多い。そしてやはり男が少ない。他集落はだいたいハビの集落と同じ見た目なのだが、中には毛並みがまだら模様の集団や、白くて眼の色が赤い集団、かなり黒に近い灰色の集団もいた。
彼らは次から次へとマルコに質問をぶつけるがいかんせん言葉が不十分すぎて話にならない。マルコは絵を描いて簡易版の商品目録を作り、欲しい顧客に名前を描かせた。
そこからの毎日は忙しすぎて思い出すのも嫌になってくる。とにかく我々の商売は大繁盛した。
意外だったのは外壁の注文より内装の注文が多かった事だ。この土地はほぼ全くと言って良いほど雨が降らない。彼等の暦で一ヶ月に一度小雨があるかないかであった。
だから外壁がおんぼろでも特に問題はなかったのだ。こんなに雨が少ないのに、農業に使う溜め池の水はどうしてるのかと疑問が湧いたが、ある日その答えに遭遇した。
私とマルコとアフマドがいつものように木の伐採に出かけるために船着場に行くと、船着場の主が少し待ってくれと言う。
言われるがままに待っていると上流から筏の大船団がやってきた。積荷は巨大な氷であった。しかも綺麗に四角に切り取られている。筏の上に乗っているのはクニークル族ではなく、別の外見をした連中だった。
固体によって濃淡はあるが全員が紫色の短い毛並みで大きな曲がった角を持っている。角の形は固体によって異なる。我々と同じように上下に厚い服を着ている。靴も履いていた。
その中の一人と目が合った。我々三人を舐め回すように見ると、すぐに顔を逸らした。真っ直ぐにこちらを見ているその目は友好的とは思えなかった。
彼等の後を追うと、溜め池の場所に出た。クニークル族は筏を解体して丸太と縄を使い氷の塊を溜め池に沈めていく。傍らでは紫のうちの一人が金貨を数えていた。
この土地の水はああやって氷として運ばれて来ていたのだ。しかし一体どうやって?あの雪のある山脈からここまでは相当な距離がある。溶けてしまうだろう。
この光景は彼等の暦で二二ヶ月に一回ずつ見られた。毎回同じであったがある時紫のほうが価格を上げ、交渉が決裂したことがあった。
交渉が決裂したと解った途端に紫の連中は氷を川に流してしまった。その後二ヶ月、村は水不足に苦しむ事になり、彼等の要望を飲むしか無くなった。村の人々は奴らは横暴だ、と憤っていた。
商売は相変わらず大繁盛で、忙しさで目が回りそうな日々が続いた。ユリウス暦でもう一年ほど経った。
我々はハビに貰った教本で少しずつクニークル族の言葉を覚え、簡単な会話なら出来るようになっていた。これは我々の共通言語にもなっていたので、三人での会話もクニークル族の言葉で行うようになっていた。
ある日いつもより早く作業が終わったので太陽が真上に来ないうちに帰路に着いた。すると道中で村人達が集まっていた。ひとつの畑を皆で囲み、手を繋いでいる。更に近づくと皆で呪文のようなものを唱えている事に気が付いた。しかもこれは複雑に重ねあわされた歌にもなっている。
暫く見ているとそれは終わった。皆解散していくので何をしていたかを尋ねると畑の土を指さす。よく見てみるとそこには痙攣している芋虫がいた。
彼等は歌で虫を殺せるらしい。だからこんな少人数でも大規模な農業が可能だったわけだ。何故こんな力があるのかと聞くとそれはわからないと言う。生まれつき皆持っている能力だそうだ。
ちなみにこの力は男のほうが圧倒的に強く、男は女の十倍の数の虫を殺せるらしい。勿論個体差もあるとの事だった。我々は一体どんな原理でその作用が起こるのか調べようとしたがいくら考えてもわからないので諦めた。
我々の仕事は多忙を極め人手不足に陥ったため財務と事務のために一人、木の燻し作業のために二人を雇った。すべて女であった。
男は皆畑を持っているため協力してくれなかったのと、マルコが率先して女を誘ったのでこうなった。
財務兼事務の女の名前はリム、村でも中心部のほうの出身である。白い毛が印象的だ。燻し作業の二人はナビー、ティトと言った。ナビーはハビの集落の出身、ティトは溜め池を管理する集落の出であった。
三人を雇う事によって我々の言語能力は格段に上昇した。あっという間にまたユリウス暦の一年が経過した。その頃にはもう我々は母国語の一部を忘れるほどになっていた。そしてこの頃から我々は村に伝わる本を読み、この世界についてよく知るようになっていった。
まずこの世界はクニークル族の他にもいろいろな部族がいて、それぞれ身体的特徴が違うらしい。例えばここから上流に向かうとまずは森の中に木の実を採集して暮らしている部族が居るようだ。狩猟採集民なので人口規模が小さく、広大な森の中を転々と移動しているため見つけるのは困難らしい。
そこからさらに上流に行くと、森と砂漠の移行部分ような荒れた場所がある。さらに上流に行くと完全な砂漠になり、そのまま北上すると山がちな地形で雨が増え、草原が広がっているという。
この草原の部族が衣類を作っており、時々売りに下ってくるそうだ。一番上流、つまり雪が積もる山脈の麓には例の紫の部族が住んでおり、彼等がこの川一帯を牛耳っているそうだ。
川は他にも存在するらしく、川によって微妙に文化が違うらしい。この村で使っている鉄器や、麻、そして綿の服は他の川の部族が作ったものだそうだ。
文明は川と共に発展するというのは歴史学者なら常識であるが、私にとっては未知の領域だ。自分の眼で確かめてみたくなった。
交易が行われているのなら市場があったり、それに伴う大都市があるはずだと思っていろいろ聞いてみたが、そんなものはないと言う。
行商人が時々訪れるだけで、その行商人がこの村はここら一帯では最大級の規模だと言っていたそうだ。
交易も行商人が来た時に買うだけであって、移動が大変なこの土地でそんな事をしている場所はないとの事だった。一体ここはどうなっているのか、我々三人は仕事がひと段落したら旅に出て見聞を深めようと誓った。
この土地にはわずかな差だが四季がある。その年の夏の手前、珍しく大雨が降り村は洪水に見舞われた。そして村の住人達が一斉に外壁の工事を依頼してきた。
やっと落ち着いてきたと思ったのに我々は以前より忙しくなった。朝起きて食事をして仕事をして帰って寝るだけの生活が長い事続いた。
最初に壊れたのはアフマドだった。この剛直な男は手を抜くという事を知らない。期待をかけられるとそのぶん働いてしまう。働きすぎて睡眠不足になり、そこから精神がおかしくなっていった。
働き過ぎた反動なのか、何もかも面倒くさがるようになり、事実上仕事が出来なくなっていた。日常生活も危ういものであった。
次におかしくなったのはマルコ。アフマドが抜けて自分の仕事量が増えたのでふてくされたのだろう。目に見えてサボるようになっていった。
会話の勉強、と言って従業員のリム、ティト、ナビーとお喋りばかりするようになった。そして私の監視の目がない時はいつもハビの家で油を売っていた。
最後に私にも波が来た。ある日の朝、起きようとすると眩暈がしてそのまま倒れてしまった。私自身がこうなってしまっては元も子もない。大工は休業するしかなかった。
我々三人の関係は最悪、そして皆疲れ果てていた。会話もなくどこかに出かけるでもない日々が数週間続いた。
そんな私達を心配したのか、アビーが私をお出かけに誘ってくれた。最初に会った日からもうユリウス暦で三年が経過していた。
アビーの身長はぐんぐん伸びて、ハビを超えていた。ハビ曰くまだ成人ではないそうだがクニークル族の中では群を抜いての長身である。彼女に連れられて郊外に行く。久々の太陽が眩しい。
暫く歩いていくと、小さな森に行き着いた。曰く彼女のとっておきの場所らしい。森の中には古い塔と思われる真っ白な建物が崩れて横たわっていた。
中に入るとガラクタの山が土に埋もれていた。その中の一つを手に取る。その物体はガラスのようなもので覆われていたが、ガラスと違ってしなる。いくら曲げても壊れない。
他の物も見てみる。奇妙な色をした金属でもない不思議な物体、小さな孔が空いているこれまた不思議な素材で出来ている箱、どれもこれもここの文明技術、いや我々の文明技術を以ってしても作れない物ばかりだった。
そして一部には文字が書いてあり、その文字はここでクニークル族が使っている文字と同じ物なのだが単語として読む事が出来ない。ただの文字の羅列であった。
「なんだこれは」
私はアビーに訊ねる。
「わからない。村の人はみんな古い人の置き物って呼んでいる」
「古い人?いつからあるんだこれは」
「私達がここに住み着く前からだと思う」
「他にもこういうのがあるのか?」
「行商の人が他の村にもあるって言っていた」
つまりこれは遺跡である。こんな高度な物を作れる文明が我々の事を知らないワケがない。私の心は躍った。
帰り道、ハビの家に寄って食事をご馳走になった。その時アビーが私の前にひとつの皿を出してきた。それはウサギの丸焼きであった。
「え?どうしてこれを?」
「前に食べている所を見たから」
「でもどうやって。難しかっただろう」
「妹達と協力して。七日かかった」
「そこまでしてやるような事か?」
「だって最近のレオン、ひどいよ。こんなに痩せて。好きなもの食べれば元気になるかなって思った」
「私はそんなに……。ところでなんでこれが好きだと思ったんだ?」
「だってあの時、すごくおいしそうに食べていたから」
「そうか……」
私は意を決して皮すらきちんと剥がされていないウサギにかぶりついた。とても食べられる味ではない。まともに血抜きが出来ていないからとてつもなく臭かった。だが私は彼女達の優しさを噛み締めた。
家に帰ると勢いよくドアを蹴飛ばし、大声で叫んだ。
「マルコ!アフマド!」
返事がないのでそれぞれの部屋のドアを蹴飛ばした。私はそれぞれを居間に連れ出して、遺跡の説明をした。最初は二人とも興味無さげに聞いていたが、私が遺跡から持って帰ったあのしなるガラスの物体を見せると態度が変わった。
「レオン、本当か?帰れるのか!」
アフマドは私の肩を掴む。かなり痩せたとは言え、まだまだ相当な力があった。
「いやその保障はない。ただ今よりはマシな情報が手に入るだろう」
「こんな物を作れる奴らが居て、今は居ない。謎だな」
マルコはしなるガラスを弄くりながら顔を近づけて凝視していた。
「不思議だろう?気にならないか?」
「気になるなあ」
「そもそもお前達、一年前に旅に出ようって誓ったじゃないか」
「……」
二人とも黙ってしまった。
「今がその時なんだよ。出発の時だ。今を逃したらもう二度と旅に出られないだろう」
「そうだな」
アフマドが同意した。マルコは何か別の事を考えている様子で、
「でも俺はここで一生終えてもいいかなって思っているぜ」
と、言った。
「マルコ、ここへはいつでも戻ってこられるだろう?別に私はみんなで帰ろうなんて言っているわけじゃない。ここで暮らすより良い土地があるかもしれないだろう?お前は可能性を捨てるのか?」
「そりゃ確かにそうだけど……」
「嫌になったらすぐ戻ってくればいい。誰も止めない」
「……じゃあ、行ってみるか」
マルコも同意した。
「景気付けに良い物持ってきたぞ」
私はアビーが包んでくれたウサギの丸焼きの残りを出した。
「うおっ!肉だ!」
マルコもアフマドも飛びついて食べたが、すぐに悲鳴を上げた。
「なんだこの肉!くっさ!」
「誰だこんな処理したのは!ふざけんな!」
二人とも肉を吐き出してゴミ箱に唾を吐いていた。
「旅に出ればいろんな肉が食えるかもしれないぞ」
私がこう言うと二人は目を輝かせてウンウンと頷いた。あれだけ元気の無かった二人がこんなに……人間最後は食欲なんだなと思った。
出発の日、リム、ティト、ナビーに幾らかの金子を渡し、これで留守中の家を管理してくれるように頼んだ。ちょっと見ない間に三人ともずいぶん太った。健康に注意しろと助言して家に帰した。三人とも寂しそうだった。
道中危険な目に合うかもしれないので剣を持っていく事にした。長い事使っていなかったので錆びを取るのが大変だった。鎧は普段の移動が辛くなるので置いていく事にした。
幸い我々は皆遠征用の装備だったため、水筒や火打ち金など旅に必要なものは全部揃っていた。
追加として私は地図製作のための木の皮を数枚と羽筆、マルコはどこで集めてきたのかわからない宝石を、アフマドは新しく作った矢を二十本それぞれ持って出かけた。
出発の朝、アビーが寂しそうにしていたが戻ってくると言うと笑顔になった。そしてそれを聞いた村人の一人、溜め池の管理人のシャフという男が、もし上流に行く事があるなら例の紫の部族の集落を訪問して氷の値下げを交渉してくれないかと頼んできた。
目的とする場所がなかったのでこれを快諾した。持っていた情報がすべてここより上流のものだったのと、あの山脈に登れば全体が把握できるかなと思ったからだ。我々は紫の部族の居住地を目指す事にした。