空でも海でもない場所
わたしの両親が鮫に咬み殺されてから10年が経った。
なんでもない日だった。マカロニを茹でてケチャップで和えたいつもの夕食を食べ終えて、リビングで安っぽいパニック映画を観ていた。
わたしが難を逃れたのは、それでもその安っぽい映画に出てくる化物がたまらなく怖くて一足先に二階に戻って行ったから。作り物だと理解していても、次々に市民を餌食にしていくそれを見ていたくなかったから。
だから「その時」が来るまで、こんな感情を抱くとは思っていなかった。
貴様等をわたしは絶対に許さない。
家の床を突き破って現れた「本物」に、ろくな悲鳴も上げられないまま無残に喰い散らかされた両親の仇を取る。
「女王、なんて不遜な名を戴いているらしいな、貴様は」
わたしは強くなった。この10年で、信じられないくらい強くなった。
女王と名付けられた巨大な鮫は陸を知り地を潜り人の味を知り、彼女の産む卵から生まれた子らもまた一匹残らず海から出奔し、集落を、森を、街を、首都を食い荒らす人喰い鮫へと成長していった。
そいつらに家族を喰い殺されたわたし達が、そいつらをあの手この手で狩っていった。
女王の子を一匹一匹殺していった。
仲間が一人また一人と喰われていった。
長い、あまりにも永い10年間だった。
そしてわたしと貴様は世界でたったひとりとたった一匹になった。
いや、わからない。海の中には貴様に種付けする雄がいるのかもしれない。でも戦えど戦えど女王の援軍は、子はこれ以上現れない。ここには私と女王しかいない。それだけで十分だ。足元に広がるわたしの仲間達と女王の子らの亡骸に構っている余裕などない。
女王よ。世界最後の人類が、世界で一番長く貴様を憎んできたわたしであることを憎みたければ憎めばいい。
ここで決着をつけよう。この砂浜で。空と海が見える、わたしと貴様の広い広い戦場で。
幾度の攻撃を受け、全身に銛が突き刺さってびくびくと痙攣しながらもなお、再び地中に潜っていく鮫の姿が視える。
ああ、次で最後だ。わたしは仕留められる。ぬらぬらと黒光りする三角が私の周囲で円を描き始めた。わたしにその目が、その牙が向けられる瞬間が来る。
パパを喰い千切り、ママの最期の顔を苦悶で歪めた貴様が、もうすぐ。
海中戦じゃなくてよかった。
胸いっぱいに最後の酸素を吸い込む。
円を描いていた軌道がぶれた。
風が吹いた気がした。
砂が、舞い上がった。
そして白い戦場はわたし達の赤で染まる。
頭から銛を突き刺されたまま全身を白日の下に曝け出した貴様と。
下半身がもう存在しないわたし。
わたしの内臓、どうなったんだろう。
あまり見たくない。
どうせこれ以上どうにもならない。
先に動かなくなった女王に、もはやろくに見えていない目で視線を送る。
「わたしの、勝ちね」
そう言えていただろうか。声になっていただろうか。
ちゃんと正しく勝利を宣言して、貴様に絶望を、恐怖を、屈辱を与えることができただろうか。
あの日から、わたしは女王が憎くて仕方なかった。
仇を取ることを10年間ずっと考えていた。
だけどいつしか、一番譲れない感情を自覚していった。
勝ちたかった。わたしの手で、わたしの目で、わたしの刃で、貴様を玉座から引きずり下ろしたかった。
女王も同じようにわたしを見ただろうか。
自分の子供を刺し殺すわたしを、その牙で咬み殺したいと、生存のためでなく自分の感情で思ってくれただろうか。
いや、今更問いかける必要はない。
わたしが最後の銛を突き刺す瞬間。
女王がわたしを食い千切る瞬間。
黒い瞳と瞳が向かい合った瞬間に、その答は出たのだ。
同じ感情を持っていると確信できたのだ。
宿敵が隣で横たわるこの場所こそが最高の墓場だ。
今はただ波の音しか聞こえない。
さよなら、青い空。
さよなら、煌めく海。
そしてわたし達は等しく砂に還る。