念
清子と結婚して、娘を一人、授かった。清子とは見合い結婚だった。
その見合いの二週間前、大学のサークル仲間だった由希子に告白して見事に振られていた。
親に勧められて見合いをするんだと、これも同じサークル仲間だった佐治に話したとき、
「馬鹿だな。見合いなんかやめろ。もう一度、由希子に告白するんだ。次は絶対、上手くいく」
だが私はそうしなかった。見合いの一ヶ月後、清子との結婚が決まってしまったのだ。
不幸せではなかったけれど、幸せな結婚生活でもなかった。
清子は家事を殆どしない女だった。しかし七歳になったくらいから、娘の未久が家事の手伝いを始めてくれた。
色々と人生をやり直したいと思っていた中で、そんな未久の存在が私の生き甲斐であった。
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持病を悪化させ、父と兄達が経営している病院に入院した。
私と違って成績も優秀だった二人の兄は、父の希望した通りに、ちゃんと医者になった。
病棟も増やして、大勢の人に頼りにされていた。
退院を控え、時間を持て余し始めた私は、病院の中を散歩したりしていた。
職員通路を歩いていて霊安室の前を通ったとき線香の匂いがした。
どうやら仏様がいるらしい。
と、辺りが霧に覆われて、何も見えなくなってしまった。
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私は病室のベッドで気が付いた。職員通路で倒れていたのを看護師さんが見付けて運んでくれたのだと兄から教えられた。
念のため検査をしても持病以外に問題はなかった。
だが私は時間を遡っていた。私の心だけを残して全てが時間を遡っていたのだ。
新しい病棟にあったはずの私の病室も、古い病棟に変わっていた。と言うより、十年前に建てられた新しい病棟は、まだ存在さえしてなかった。
本来いるはずの時代から、同じく持病で入院していた十二年前に、時間は遡っていた。細かく記憶を手繰り寄せていて気付いたのは、数日内に清子との見合いを勧められること。
しかし私は断った。同じ日、もう一度、由希子に告白して、一年後、私達は結婚した。
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それから三年が経った。
歴史的には同じ事件や天災が繰り返されている。残念なことに、あの大震災も再び起こった。
私達は一人の男の子を授かった。
だが私は幸せではなかった。
由希子は、いつまでも由希子のままで優しく美しかったが、最近になって思い出すのは未久のことばかりだ。
未久とはもう会えないのだろうか……? いや、きっとそうなんだろう……。
何故、こんな大切なことを私は忘れて……。
もう一度、未久に会いたい……。
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私は霊安室に向かっていた。
もう一度、時間を遡るために。
どれだけ遡っても構わない。例え過去に遡り過ぎたとしても、きっと時間は繰り返されるだろう。
何故、時間を遡ってしまったのかを考えた。そして私なりの結論に達した。
あの霧は霊安室で安置されていた死人達の念だったのだと思う。
生き返りたい、生きていたころに戻りたい、それらの念が、人生をやり直したいと考えていた私の時間を遡らせてしまったのだ。
線香の匂いがして、再び辺りが霧に覆われそうになったとき、私は思わず霊安室の前から逃げ出してしまった。
気付いてしまったのだ──霧の中に留まって再び清子と結婚すれば、今度は息子に会えなくなってしまう……。
自分自身の愚かさに腹が立った。しかし私はどうすればいい……?
それにしても前回と比べて霧は驚くほど濃かった。
その霧が消えたとき、霊安室のドアが開いていることに気が付いた。
そこから出て来たのは──
了