4おじいちゃん捨ててかないでください。
「受入先はみつかったかい」執務室へ戻ると共に現状を確認する。
「見つかりません!急にはベッドが用意できないとのことで…」栗毛の少年が答えてくれた。
「悪いね、任せきりになってしまって。フィーネ…もうしばらく探してみてくれないかい?」少年の頭に手を置いて軽く撫でつける。
「はい…!頑張ります」見上げてくる大きな瞳はやる気に満ちていて愛らしい。
「ああ、頼んだ。それじゃ行くかい、エリー付いておいで」フィーネから手を退いて、特徴的な桃色頭を探す。
「はいはーい!ここですようっ!」色素の薄い肌に桃色の髪を長く伸ばす姿は一見して女性のそれだが、彼はあくまで男性だ。
「回答書は持ったね?移動中に目を通すから、弁護士のとこ行くよ」デスクから冷え切ったコーヒーに手を伸ばし流し込む。
「行ってくるよ」告げるが早いか、退室し馬車へと向かった。
足音からエリーが付いてきていることを確認し、振り返らずに直進する。
「ブラウンのとこまで頼むね」行先を従者に伝え、馬車へと乗り込んだ。
「待ってくれてもいいじゃないですかぁ」舌足らずな話し方をしていても、肉体がムキムキマッチョでは違和感しか感じ取れない。
「回答書」今は彼に構っている余裕はあまりない。手を出し書類を催促する。
「つれな~い」というお小言と共に受け取った書類に目を通していった。エリーの不満は後で聞くとして、今は集中しなくては。
エリーは父が特に重用していた部下だった。案として作成された書類に誤字はおろか書式までミスはなく、完璧なまでに落ち度のない仕上がりとなっている。
いくらか単語や言い回しに赤を入れていったが、もはやセンスの問題であり直しではない。
「完璧だエリー、あとは先生に見てもらうくらいしかないね。よし、着いたよ」
馬車が止まる気配を感じ、窓から外の景色を確認した。
蔦が巻き付き、木々が覆い隠すように茂る中に佇む屋敷がそこにはあった。舗道された道から一歩踏み込んだけのはずなのに、まるで山奥にでも来たような錯覚にさせられる。
落ちる小枝を踏みしめれば、パキリと小さな音がした。
「クロード・エリウスだ。開けておくれ」玄関の前に立ち中へ声をかけた。
「おお、エリウス!久しいな!」快活な声と共に現れたのは、武将鬚を伸ばした中年男性であり、ブラウン弁護士その人だ。
「臭いよ、風呂に入っているのかい?」漂う汗臭に鼻をつまめば、愉快そうに彼は笑う。
「はは、こいつわ失礼!レディがいらっしゃるというのに失礼した」
「だから、私はレディでは「さあ入った」抗議する前に遮られ、中へと通される。
物のない殺風景な室内は必要最低限の生活用品しか置かれていない。
家主の許可は聞く前に、リビングに設置されたソファへと腰を下ろす。
「これなんだが、問題ないか見てくれないかい?」
先ほど目を通した回答者を彼に渡す。
「ああ、今見るよ。エリー、台所に紅茶があるから好きに入れていいぞ」
「私は召使いじゃないですよぅ!」口を膨らませる姿につい吹き出してしまった。
「ははっ!そうだな、私はエリーの紅茶が飲みたいよ?」眉根を下げて頼めば、彼は仕方ないという顔をしてくれると知っていた。
「わかりましたぁ~待っててください」彼が台所へと姿を消したところで、目の前の不精男に視線をやる。
木漏れ日が窓から差し込み、ローテーブルに光の模様をつくっていた。
遠くでガスを付ける音やお湯を沸かす音がする。
カサリ、と紙がめくられる。
ペンが紙を走る音が響いては消えていく。
「大筋問題ないだろう」読み終えたのか、書類を置いてブラウンが目線をあげた。
「そうか、直すところは?」
「ここの根拠規定では弱いな、いっそ省いた方がいいだろう。重要なのはこっち、余計なことに注視されては面倒だ。」
「承知した。そのように改善する」
「紅茶入れましたよぅ」エリーが紅茶をテーブルに置いていってくれた。
カップに手を伸ばし口に含む。
「回答書についてはおおむね問題ないだろうな。ところでだ」
「そうか、ではそろそろお暇しようかな」嫌な予感がしてそそくさと帰り支度をしようと視線を逸らした。
「お前、皇子に婚約を申し込まれたんだろう?」にやりとした顔を迫ってきた。
「なっ…!?」驚きのあまり紅茶を吹き出してしまう。
「で、受けるのか?皇子はイケメンってことで有名なお方だろう」吹き出された紅茶は気にもせず、なおもぐいぐいと質問を繰り返してきた。
「私ではなく妹への話だ。受ける受けないは決めかねている」
「そうかそうか、妹な。いいじゃないか、受けてみろよ?」
「そんな気楽に受けていい話かい?」
「考えるまでもないだろう。エリウス公爵家長女との婚姻、これ以上に政治的意味合いを感じない婚約はないと思うぜ?それとも私情か?好いた男でもできたか?」
「好いた?!って…そういう問題で婚約を考えてはいない。ただ、お父様のことが気がかりなのさ…」毎朝、声をかけるが変わらずに薄暗い室内を思うと気が沈みそうになる。
「…ったく、なにやってんだよ。わーった、親父さんには俺が話に行ってやる。で?受けるか?お兄さん?」口角をあげてニヤリと迫ってくる姿にたじろぐしかない。後ずさろうにもすぐソファの背もたれに追い込まれておわった。
「…断る理由がないだろう」
「はははっ!そうかそうか!これでやっとクロー嬢ちゃんも乙女らしくなれるな?」嬉しそうな笑顔に毒気を抜かれた。クローとはかねてからの私の愛称。
「やっととはなんだ!」
「だってそうだろう?」ブラウンの顔が耳元まで近づく。
「兄の真似事なんぞ始めてもう1年……クロー、いつからドレスに裾を通していない?」囁くような小声が鼓膜を震わせた。
だから苦手なんだ、こいつは。
父と旧知の仲である彼は幼少期から私たち家族と付き合いがあった。彼には隠し通せる気がせず、1年前から兄になり替わっていることを伝えている。
「あ!ちょっとぉ!セクハラ・だめ・ぜったい!」
「ほえ?エリー…」割って入ってきたエリーに抱き上げられ宙に浮く。幼子のように抱きかかえられた状態に混乱していると、エリーはすぐに地面へ下ろしてくれた。
「いきましょう?クロード様!」ぷりぷりと怒った様子のエリーに何も言えず、私は黙って荷物をまとめる。
「世話になった、また来るよブラウン」去り際にそう告げると、ひらひらと手を振る姿を尻目に捉えた。
木々の陰に覆われた庭を抜けて、城下町の広い通りに出た。
すぐ近くで控えていた馬車へと乗り込む。
「エリー、回答書の件だが」同じく馬車に乗り込んできたエリーに対し、先ほど話した内容を伝えていく。
「ええ、ではあとは私が修正し、出来上がり次第、再度ご確認いただけますか」間延びした話し方をする彼だが、年は30歳を過ぎた中堅官吏であり、経験を積んだ優秀な人物だ。
「ああ、決裁が終わり次第、裁判所へ提出をお願いするね」
城とブラウンの自宅はほど近く、馬車に揺られればさしたる時間はかからない。
気づけば馬車は止まっていて、従者が扉を開けてくれているところだった。
「坊ちゃま、到着いたしました」初老の男性である彼は長くエリウス公爵家で勤めてくれている一人だった。
「ありがとう」礼を言って馬車から降りる。
執務室へと続く廊下をエリーと戻っている途中だった。
「なあ、あんたちょっといいか?」
後ろから声が掛けられ、振り向けばそこにはバルト皇子の姿があった。
「バルト殿下、いかがなさいましたか?」私は努めて冷静に返答する。
「…あんたの仕事を見てみたい」俯いて小声で発された言葉に反応が遅れる。
「…仕事ですか、私は福祉業務を担当しておりますので、皇太子が見学されるのであれば軍事政策や外交分野の方がよろしいかと」意図が汲み取れず、そう返してしまう。
「あんたの仕事が見たいと言ったんだ」苛立たしそうな声ではっきりと発された言葉。
「…承知いたしました。どうぞこちらへ」私は訳も分からないまま執務室へと案内する。
居心地の悪さと言えばいいのか、落ち着かない感覚はぬぐえない。
城内でも奥まった位置に置かれた執務室は馬車を乗り付けた先から多少歩く場所にある。
涼風とともに吹き抜けていくのはタンポポの綿毛だった。
「夏も終わりますね」沈黙に耐えられず、何気ない話題を振ってみる。
「ああ」相づちしか返ってこない、心が折れそうだ。
「…ご覧ください、あちらに桜の木が植わっていますよ。春には美しく咲き誇ってくれます…はは」言っている途中で話題のくだらなさに乾いた笑いがこぼれてしまった。
諦めよう、コミュ障にはこの沈黙に耐えられる話題提供はハードルが高すぎる。
「では、春に見に来るとしよう」
「え?」予想外に返答があったことに驚いて、せっかく返ってきた反応に何も言えなかった。
気まずさがピークになろうかという状況、後ろからエリーが付いてきていることはわかるが、一切話題に入ってこようとはしない。黙々と後ろをついてきている。
執務室前にたどり着き、扉を開けて中へと招き入れた。
一瞬で空気が凍る雰囲気を察する。
「みなさん、こちらはバルト殿下にございます。私たちの仕事を見学されたいとのご意向です。気負わずいつも通り業務に取り掛かってください。以上」手短に紹介を終えると、全員の顔がさっと青ざめていっていた。気持ちはわかる。
「バルト殿下はこちらへどうぞ」執務室の一角、申し訳程度に備え付けられた応接セットは古びてはいるが使えないことはない。この室内で唯一の客人向けの場所である。
「ああ、失礼する」居心地悪そうにソファへ腰を下ろす姿に申し訳なくなった。福祉分野はいかんせんお金がないのだ。
「紅茶でよろしいですか」
「問題ない。それと俺の事はバルトと呼べ」
私は給湯室へと向かい、この場所にある一番高級な客人向けの茶葉を手に取った。残業時に食べようととっておいたクッキー缶も封を開ける。
「バルト様、失礼いたします」紅茶とクッキーをお茶請けとしてローテーブルに用意する。慣れない事をして手が震えた。
「クロード様ぁぁぁぁあ!」バンッと大きな音と共に扉が開けはなたれ、転がり込むように少年が飛び込んできた。冷や汗がピークになりそうだった。
「落ち着けフィーネ、どうしたんだい?」胃に穴が空きそうな思いで問う。
「騎士団がこれ以上は保護できないとして、ご高齢の男性をこちらに送り届けるとのことで…」焦りで話が混乱する報告を聞いて状況を整理する。
「送り届けるって、ここは保護施設ではないよ」騎士団が理屈の通用しない相手と経験でわかっていたが、言いたくなるのが心情だった。
「相談したいと本人が言えば、拒否することはできないだろうと…」顔面蒼白になりながら伝えられる報告に彼の心労が伝わってきた。
「相談したあとどうする気なんだろうね、まったく…捨ておじいちゃんなんて酷な話やめておくれよ」溜息をついて、判断を選ぶ。
「まだ医療機関の受入先は見つからないままです。エリウス病院からの回答を待っているところではありますが、急な話ですから待ってほしいと…」
「エリウス病院ってうちの系列か」頭を抱えそうになりながら、電話帳を手に取った。エリウス病院は父が創設した庶民層向けの医療施設であり、ここからは多少距離があった。
電話のダイヤルを回して連絡をとる。
「クロード・エリウスと申します。入院の受入れが可能か確認したくお電話差し上げました。医療相談室へお繋ぎいただけますか」受付嬢が電話に出たため取次ぎを依頼する。
「お忙しい中、失礼いたします。福務大臣のクロード・エリウスと申します。ええ…ご無理を承知でお願い致したく…――…はい、ええ…――…。ありがとうございます。」ゆっくりと受話器を置くと心配そうなフィーネの顔が目の前にあった。
栗毛の頭に手を置いて撫でつける。
「大丈夫、受け入れてくれるそうだ。フィーネの努力の賜物だな。よくやった」労いの思いを込めて髪をかき混ぜてやる。目を細める姿は犬を思い出し、癒し効果を感じさせた。
「おい」急に腕を掴まれ振り返る。
「バルト様」腕はバルトが掴んでいたようで、びくとも動かせない。どうしていいか分からず見つめていると手は離された。
「客人だ」顎で示された先を視線で追うと、騎士団の一人が立っていた。車椅子を押しており、快活そうな高齢男性が乗っている。
私は彼に近づき声を掛ける。
「お父さん、私と少し話そうか」
「若いお方だね、わしをどうしようって言うんだい?」肩をすくめる姿は愛嬌のあるおじいちゃんといったところだった。
「そうだね、なんとかしたいとは思っているよ」困り顔をつくって話しかける。
「恐れ入りますが、こちらの書面にサインをいただけますか?」騎士団員はそう言って書面を差し出してくる。中身に目を通し、突き返した。
「致しかねます。相談は受けますが、身柄を引き受けるとはお伝えしておりません。先ほども私共の担当者が申し上げた通り、当方は保護施設ではございません。その書面にはサインできません」怒鳴りたい思いを必死に抑え、要件を簡潔に伝えていった。
「…しかし、こちらとしても書面にサインがない以上は責任問題を問われます」引き下がらない騎士団員に苛々がとまらない。
「責任問題はそもそもこちらに送り届けている時点で問われるべきことのように推察します。相談はお受けいたしますが、サインは致しません」念を押して伝えると、諦めたように書類をしまった。
「さて、お父さん。これから先どうしたい?」私は優しく語り掛けるように質問した。
「そうさなあ、飲み屋街にでも行こうと思うよ。車椅子で一人、物乞いする老人を憐れんでくれる人もいるでな」にやにやと笑う姿は今後を心配している雰囲気はない。
「寒いんじゃない?もう夏も終わりに近づいているし、夜の屋外は冷え込むよ」
「仕方あるまいさ、それにほら。防寒もしている」男性はそう言って、服の中から新聞紙の束を見せてくれた。確かに重ね着する衣服がない以上は多少の暖を取るに至れるだろうが、それでも十分とは言い難い。
「提案なんだけどね、どうだろう?病院に行かない?」
「病院か?あんな辛気臭いとこはいやだよ」怪訝な顔をする様子は本当に行きたくないのだろう。
「辛気臭いかい?」
「ああ、薄暗くて消毒液の臭いがする」男性は視線を逸らして嫌そうに眉根を寄せてしまった。
私は質問を繰り返し、脚がしびれそうになるのを無視して話し続ける。窓からは夕日が差し込み、日暮れを知らせるように鴉が鳴いていた。
高齢男性から視線を外さないように、じっと視線を合わせて話に耳を傾ける。女房には何年も前に愛想を尽かされ出ていかれたこと、子供は2人いるが生きているかもわからないこと…ポケットにしまったガラス片は道で拾ったんだと自慢していた。好きな食べ物はラーメンらしい、手先が器用で若いころは手品で周囲を沸かせていたと語っていた。
1時間ほど経った頃だったろうか、私は男性に意を決して語り掛ける。
「お父さん…私のために病院へ行ってはくれないかい?」しゃがみ込んだ位置から上目遣いでお願いポーズをとる。
「お父さんが心配なんだ、お願いだよ」瞳を潤ませて、男性を説得する。
「…わかった。若い者にそんな言われちゃね。あんたに免じて行ってやるよ」仕方ないと溜息をつきながら、応じてくれた男性は疲れ切った顔をしている。昨日の深夜から徘徊し、騎士団に保護されて今に至っている。疲れていて当然だろう。
「ありがとう」私はほっと胸をなでおろした。
立ち上がろうとすると足がしびれていて、ふらついてしまう。壁に手をつきデスクへ向かった。椅子に座り込み指示を出す。
「悪い、業務時間過ぎてしまうが…フィーネまだ残れるかい?」
「残れます!」明るい声を頼もしく思う。
「彼を病院まで送り届けて欲しい」
「わかりました」
「それと、エリー回答書はできたかい?」
「ええ、こちらに。ご確認いただければ、明日にでも提出して参ります」
「ありがとう、では明日の朝までに確認してエリーの机に戻しておくよ…私は少し休むね」椅子の背もたれに寄りかかり、カップに手を伸ばすと中身は空だった。
「ブラックコーヒーでよろしいですか?」気づいてくれた侍女がカップを下げてくれる。
「ありがとう」天井を見上げ、ふと思い出した。
「…?!バルト様は??!」飛び起きるように机にのめり込むと横から声がした。
「なんだ急に」先ほどから変わらず、紅茶を片手にソファに腰かける姿がそこにあった。
え、待って。もうバルトが来てから1時間以上経過しており、ずっと放置してしまった。
「申し訳ありません!なにもご説明できず」私は慌てて席を立ち、頭を下げる。
「気にするな。見学したいと言ったのは俺だ。足しびれているんだろう?座ればいい」そう言って、本当に気にしていないという風にクッキーへと手を伸ばしている。
「ありがとうございます」これ以上の謝罪は不要かと思い、素直に礼を言って席に着く。
「もう落ち着いたか?」ふとバルトの視線がこちらへと向く。
「はい」背筋を伸ばし、返答を返した。立ち上がろうとする私を彼は手で制止する。
「あんたは妹をカロリング学園へ通わせる気はないか?」
「……」急な質問にどう返していいか分からなくなる。
「ご両親のことは父から聞いている。あんたの妹が父親の世話をしているとも。」
「ええ」私にとってその提案に肯定は返せない。
「俺と婚約するとなれば、あんたの妹には俺の隣で社交の場に出てもらう必要がある。屋敷に籠って外へ全くでないんじゃ務まらない…父親に縛り付けず、同じ年の者と交流する機会を与えるべきじゃないのか?」表向き妹は屋敷に引きこもりがちの深窓の令嬢。
「…申し訳ありません。妹は父を一人残すことに不安を感じているようですから…」けれど、実情は違う。
「家族を理由に自分を抑えつけては、いつか家族を嫌いになるぞ」正論は時に人を傷つける。
「…それは、」言葉に詰まって言い返せない。
「クロード様!僕もカロリング学園へ通っています。こちらで勤務を続けながら、通うこともできますよ!」フィーネが話に入ってきた。
「そんなことできるのかい?」
「はい、カロリング学園は試験で点数さえクリアできれば出席日数は度外視されますから、勤務を継続しながら通うことも可能です。だから、妹様も公爵様のお世話を続けながら通えるのではないでしょうか?!」必死に説明するフィーネの楽し気な顔が眩しく感じた。
同年代の貴族の子供たちが学園へ通っていることは知っている。
働くことを選んだのは自分自身。
けれど、羨望を抱いていたことも事実。
「……できるだろうか」
学園とはどんなところなのか。
選ばなかった道の先はどのようなものなのか。
機会が与えられた今、選択できる。
”いつからドレスに裾を通していない?”
ブラウンの言葉がなぜか過ぎった。
「クラウディア様ならできますよ」フィーネがしきりに頷いてくれる。
「大丈夫です、私たちも支えますよお~」エリーに両手を掴まれ微笑まれる。
「どうする?」バルトが問うてくる。
「…そうだね、妹をカロリング学園へ通わせてみるよ」覚悟を決めて、そう答えた。
「よし、入学式は10月だ。手続きを済ませておくんだな。俺はもう行く。邪魔したな」バルトはソファから立ち、退室していった。
「10月からクロード様は学生なんですねぇ~もう20年以上前の話になりますけど、学生というのはいいものですよぉ」エリーが嬉しそうに声を掛けてくる。
「いや、学園に通うのは妹で」
「クロード様でしょう?」フィーネが不思議そうに小首を傾げている。
「え、いやだから…」言い募ろうとすると、エリーに制止される。
「私たちみんな最初からわかってましたよう、クロード様がクラウディア嬢であることぉ」
周囲を見渡せば、みな頷ていた。
「え…わかっていて、私についてきてくれていたのかい?」長男であるクロードだからこそ従ってくれているとばかり思っていた。
「決裁権はエリウス公爵家に委ねられています。クラウディア様も同様に」フィーネの柔らかな笑顔が眩しくて、目頭が熱くなる。
「…迷惑をかけてしまうと思うが、どうかよろしく頼む」絞り出すようにそう伝えることがやっとだった。
「もちろんですよぅ!」エリーの分厚い胸板に挟まれて、苦しいような温かいような心地がした。
「それでは、私は送り届けてきます」高齢男性の車椅子に手をかけて、フィーネが退室していく。
「いってらっしゃい」その背に声をかけて、椅子に深く腰掛けた。
「それじゃ、お先に失礼しますぅ」
「おつかれさま」退勤する職員に返事を返していく。
一人残された執務室で冷えたコーヒーを流し込んだ。窓からは月明りが浮かんで見える。手元の書類に目を通し、エリーの机上に置かれた箱に仕舞って施錠した。
積みあがる未決裁書類を手に取っていく。
「葬儀費用がない…か、もめそうだな」福祉というより市民からの苦情はほぼすべてこの部署に届けられる。城下で残念ながら餓死してしまった者の遺体が溢れ、疫病のもとになりかねないことから、数年前より税金を投入して最低限度の葬儀費用を支給しているのだが…要件をいくらか設けていた点に苦情が来ていた。
「あ~…こっちはエリーに頼もうかな」高齢女性と同居している知人男性が高齢女性を突き飛ばし転倒させたとして、騎士団から高齢者虐待の可能性を考え通報が入っていた。突き飛ばしてしまったからといって、目くじら立てていてはきりがないし、高齢女性がよろけて転倒した可能性も考えられる。
「で、こっちは…借金の返済で生活が回らなくなった…か」
報告書に目を通す度、解決策のない現実がそこに存在していた。
目を閉じて深呼吸する。机に置かれた“福務大臣”というプレートに目をやった。
国王の就任挨拶の際に放たれた『ゆりかごから墓場まで』という言葉。そこから生まれたのが福務大臣という役職であり、その初代大臣として任命されたのは父だった。
「お父様が始めた部署なんだが、ややこしいものをつくってくれたよ…」
時計の針が22時を過ぎた頃、フィーネが男性を送り届け戻ってきた。
「おかえり」私が残っていたことに驚いたのか、少し目を見開いてからフィーネは嬉しそうに笑った。
「…ただいま戻りました」満開の笑顔は疲労の色も映しているが、主人のもとに返ってきた忠犬のように嬉しそうにほころんでいる。
「ホットココアをつくってみたんだが、飲んでみるかい?」用意しておいたカップを手渡し、施錠しながら戸締りを進める。
「ありがとうございます」ほぅ、と息を吐いて飲んでいくココアが少しは彼を温めて欲しいと願う。
「それじゃあ、帰ろうか」声を掛けて扉へと向かう。
「はい、お疲れ様でした」フィーネが帰路についてのを確認してから、馬車へと乗り込んだ。
揺られる馬車の中でまどろむ。帰宅したのは夜23時を過ぎた頃合い。
「おかえりなさいませ、クラウディア様」
侍女のマリンはマカロンを買ってきてくれていて、紅茶と共に用意してくれていた。
温かなアッサムティが喉を通って満たしてくれる。
「マカロンと…これはチョコレート?」小さくて宝石のように輝く粒を一つ手に取る。
「はい、カカオビーンというカフェに入った際、売っていたものです」
「そうか、よかった」マリンは言いつけ通り、道草をしてきたようで安心した。
食べ終えてから席を立ち、書斎へと向かう。
朝方片したつもりだが、再度形成された書状の山。その中から一枚を抜き取った。
金蝋が施された書状をペーパーナイフで開けていく。
「仕事の速いお人だね」
『婚約について』と題されたそれに手早くサインを書き込む。
家紋の彫られた印を押して封をした。
「これを届けておいてくれるかい」執事にそう伝え、私は一日を終えたのだった。
きっとこれが最良と信じて。
書斎から窓辺へと移動して、窓を開け放つ。
「今夜はとても静かだね…」月明りに照らされた木々は静かに佇む。揺れずに静止した草花が窓から見えた。雲の影がゆったりと動きながら、庭園の姿を消しては照らしている。
冷え込む夜風は静かに通り過ぎていった。