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沙羅双樹の花の下で~歴史徒然帖~  作者: 橘 ゆず
平安末期(保元・平治の乱)
8/12

高陽院 藤原泰子

大河ドラマ『平清盛』では、待賢門院璋子VS美福門院得子の二大美魔女の火花バチバチ直接対決がクローズアップされていましたが……。

鳥羽天皇には、ドラマでは描かれなかったもう一人の正妃、皇后となった女性がいました。


高陽院(かやのいん)泰子(やすこ/たいし)です。


摂関家の当主、藤原忠実の正妻腹の一人娘として生まれた泰子(初名は勲子。立后時に泰子と改名)は、幼い頃より未来のお后候補として育てられました。

忠通にとっては同腹、頼長には異腹の姉にあたります。


天仁元年(1108年)。

14歳の時に、八つ年下の鳥羽天皇への入内話が持ち上がりますが、この時、父、忠実はこれを固辞。


五年後の永久元年(1113年)に、再度、入内の話が具体化しかけますが、この時は、弟、忠通に持ちかけられた璋子(のちの待賢門院)との縁談を、忠実が断ったことで白河院との仲が悪化した為、またもお流れに。


この直後、璋子は鳥羽天皇のもとへ入内し、中宮に立てられます。

立后の翌年には、第一皇子、顕仁親王を出産。

治天の君、白河院の後ろ盾もあり、押しも押されもしない存在になっていきます。


保安元年(1120年)。

顕仁親王誕生の翌年。

鳥羽天皇から、ひそかに忠実に対し、泰子の入内の打診があります。

泰子は二十六歳になっていました。

当時としてはもう晩婚というにも遅いくらいの年齢です。

白河院からの入内要請を断ったものの、忠実はあくまで泰子を后がねとして考えていて、他の男へ嫁がせることは考えていなかったのですね。


渡りに船とばかりに乗り気になった忠実でしたが、これが白河院の知るところとなり、逆鱗に触れてしまいます。

白河院が望んだときには断っておきながら、院の最愛の養女、璋子が鳥羽帝の中宮となっている今になってその対立候補として娘を入内させようというのですから、怒るのも無理もないのですが。

忠実は関白の職を解かれ、宇治への退隠を余儀なくされます。

泰子の入内は、またも立ち消えになりました。


やがて、御世は崇徳天皇の御世へと移ります。

邸の奥深くかしづかれたまま、ひっそりと花の盛りを過ごした泰子に再び日の光が差したのは、大治四年(1129年)七月。泰子が35歳の秋のことでした。

治天の君、白河法皇が崩御されたのです。


新しく世の中枢に立たれた鳥羽上皇は、長い間抑圧されていたものを解放するように、祖父、白河院の政治方針、意向を片端から否定しにかかります。

忠実の中央政界復帰もその一つでした。


長承二年(1133年)六月。

泰子は、かねてからの父の悲願であった鳥羽上皇への入内を果たします。

この時、泰子は39歳という高齢でした。

入内というのが、次代の帝となる男皇子の誕生を期待して為されるものであることを思えば、これは極めて異例といえます。


その翌年。鳥羽上皇は、退位された帝の妃としては先例がないという廷臣たちの反対を退けて、泰子に「女御」の宣旨を下し、それからわずか半月後には、皇后として立后させます。

どちらも異例中の異例の措置でした。


先例、有職故実を何より重んじる貴族たちの誰もが制止することが出来なかったというところに、院政全盛期の「治天の君」の権力の絶対さを垣間見る気がします。

この頃、すでに鳥羽上皇のお側には、のちに美福門院となる藤原得子がおり、この一連の流れが泰子への寵愛ゆえであったとは思えませんが、それらもすべて、白河院の御世の痕跡を消し去るため。

その養女であった待賢門院とその周辺の勢力を削ぐためだったのでしょう。

のちに、得子が鳥羽上皇との間に最初の子、叡子(えいし/えいこ)内親王を産むと、泰子はこれを養女とし、手許で育てています。


永治元年(1141年)。

鳥羽上皇が出家して法皇となると、泰子もそれに続いて落飾します。

こうして、彼女の生涯を辿ってみると、入内を断られたり望まれたり、盛りを過ぎた年頃になって院の皇后に立てられたり…。


時の権力者や一族の男たちの思惑に都合よく利用され、ただ翻弄されていたようにも見えてしまいます。

しかし。久寿二年(1155年)の12月。

泰子が逝去したのち、鳥羽法皇近辺での忠実、頼長の立場が急速に衰えます。

それを見る限り、泰子は決してお飾りの皇后ではなく、法皇と忠実、頼長の間を取り持ち、その力強い庇護者であったように思えます。


摂関家の姫として、幼少の頃よりお后教育を受けて育った彼女は、立派に藤原家出身の后として、自分に課せられた役割、期待を果たしていたのではないでしょうか。

忠実さんが、あくまで泰子の入内、立后に執着したのは、愛娘のそんな聡明さ、気丈さ、摂関家の姫として相応しい資質を見抜いていたからこそ、なのかもしれませんね。


二つの大輪の花のかげに隠れてひっそりと。

けれど、ある意味、他のどの妃よりも平安時代の貴族の姫君らしい生き方をした、一人の女性のお話でした。


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