かがやく藤壺 藤原彰子
紫式部が仕えた一条天皇の中宮彰子のお話です。
藤原 彰子
永延2年(988年)藤原道長の長女として生まれました。
よく比較して語られる定子の11歳年下になります。
定子が一条天皇のもとに入内した時、彰子はまだ三歳の童女でした。
長保元年(999年)11月1日。
12歳で一条天皇のもとに入内します。
その6日後の11月7日に、女御の宣旨が下されるのですが、この同じ日に中宮定子が第一皇子となる敦康親王を出産しています。
このあたりを見ると、道長側もかなりギリギリのタイミングで一か八かの賭けに出ているんですよね。
妊娠中のエコー診断などは当然ない時代。
お腹の子の性別は本当に生まれてみるまで分かりませんでした。
定子が妊娠していることが分かっていながら、まだわずか十二歳の愛娘の入内の準備を急ぐ道長夫婦の心中もそれなりにつらいものがあったと思います。
はたして、定子が出産したのは男皇子でした。
一度は髪を下ろそうとした定子が一条天皇のたっての願いで再び宮中に上がり、そこでの逢瀬で授かった御子です。
翌年の2月25日。
道長は彰子を中宮として冊立します。
それまで中宮であった定子は皇后とされました。
もともと「中宮」というのは「皇后」の別称ですので、それを分けるということ自体がおかしな話なのですが、実はこれを先にしていたのは定子の父、道隆だったんですね。
律令が定めている后の位は三つあります。
太皇太后、皇太后、皇后(中宮)の三つがそれです。
定子が一条天皇のもとに入内した時、この三后の位はすべて埋まっていました。
太皇太后の位には冷泉天皇の中宮だった昌子内親王、皇太后位には一条天皇の生母・藤原詮子、そして中宮の位には一条天皇の父、円融天皇の中宮、藤原遵子がついていました。
道隆は、娘の定子を中宮の位につける為に、現中宮の位にあった遵子を「皇后」とし、定子を「中宮」としました。
それまでの「皇后=中宮」という常識を覆し、二つを別のポストとして分けたのです。
その先例が、道隆の死後まわりまわって定子の身に降りかかったというわけなんですね。
とはいえ、あくまで「遵子」は円融天皇の后、「定子」は一条天皇の后でしたので、一人の帝に二人の后というのは、この彰子の例が歴史上初めてとなります。
その年の暮れに定子は、第二皇女、媄子内親王を出産すると同時に亡くなります。
明暗の別れたかのように見える二人の后。
しかし、定子と彰子。
本当に幸せだったのは、果たしてどちらだったのでしょうか?
多くの場合、歴史は彰子を勝者としています。
しかし、定子亡きあと、彰子が辿った人生は輝くような栄華と同時に、数々の苦難をも彼女に与えました。
彰子の最大のライバルは定子のように言われることが多いですが、実際、二人が同時に一条天皇の寵愛を競った時期というのはほとんどありませんでした。
定子が亡くなった時、彰子は十三歳でした。
のちに後一条天皇となる敦成親王を出産したのが寛弘五年(1008年)、21歳の時ですからその間、実に八年間。
彰子は皇子誕生のプレッシャーに晒され続けたことになります。これはキツイ…。
定子亡きあとも、一条天皇の後宮には何人もの女御がいました。
特に承香殿の女御藤原元子は、思いのほか帝のご寵愛が厚かった、というようなことが「栄花物語」の記述にも見え、決して彰子の一人勝ち、といった余裕の状態ではなかったようです。
彰子は定子の忘れ形見である敦康親王を手元に引き取って育てていますが、これはもし、彰子に皇子が生まれなかった時に備えての保険でしょうね。
ともあれ、敦成親王を産んだ翌年、立て続けに敦良親王(のちの後朱雀天皇)も生まれ、これで彰子と父道長の政治基盤は盤石となります。
寛弘八年(1011年)一条天皇が亡くなります。
この時、一条天皇が残した辞世の折の御製が二種類伝わっています。
《露の身の 草の宿りに君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ》
こちらは『御堂関白記』
彰子の父である藤原道長の日記に記されている御製です。
もう一つの御製。
《露の身の 風の宿りに君をおきて 塵を出でぬる ことぞ悲しき》
どちらも、俗世を一人旅立つ天皇が、残していく人に当てた御歌です。
細部は違っていますが、だいたいの意味は同じように思えますね。
自分は先立たなければならないが、君をひとり残していくことが心残りだよ、というような…。
当然、この「君」というのは当時、天皇のおそばに常に付き添っていた中宮彰子のことだと思われます。
が。
そうではない。
これは亡き皇后、定子にあてた御歌だと言っちゃっている人がいるんですね。
それが二つ目の御製が書かれていた『権記』の作者、藤原行成でした。
能筆家としても知られる行成ですが、彼は一条天皇の御代の蔵人頭…つまり、天皇の首席秘書といったポジションの人でした。
いわば側近中の側近。
定子の忘れ形見、敦康親王と彰子の産んだ敦成親王のどちらを次代の東宮に選ぶべきかという場面で、思い悩む帝に、行成は
「道長全盛のこの時代に、たとえ無理に皇位につけても敦康親王さまがかえっておつらい思いをするだけでしょう」
と進言し、それを受けた帝は敦成親王の立太子を決意したとも言われています。
つまり、この時点で天皇は敦康親王を東宮にしたいと思っていらしたということですよね。
この時の行成の言動。
時の権力者、道長におもねってその意に添うように発言したとも取れますが。
それだけではなかったと思います。
一条天皇のお側近く仕えてきた行成は、天皇と定子の愛し合うさま、苦境にあっても変わらず愛し合っていたお二人を見ていました。
「枕草子」には定子の御殿を訪れる行成の姿が度々登場しています。
そんな行成の言葉には、心底、定子の忘れ形見である敦康親王の御身を案ずる気持ちが表れていたのではないでしょうか。
だからこそ、天皇のお心を動かし説得することが出来たのではないでしょうか。
一条天皇が、主君と臣下という枠組みを超えて行成という人をかなり信用していたことが伺えます。
その行成が、天皇の辞世の歌を「皇后宮に寄せる御歌」と自分の日記に書き残しているわけですね。
うーん。なんというKY!!
そこはもうわざわざ事を荒立てないで、彰子宛てってことにしとけばいいだろうと思ってしまうのですが。
そもそも書かれているのが彼の「日記」ですもんね。
公式文書にデカデカと書いたわけではないので仕方がないか。
前にも書いたように「皇后=中宮」ですので、この「皇后宮」というの自体が彰子宛てと考えることも出来るのですが。
行成は『権記』の他の場面でも、彰子のことは中宮、定子のことは皇后と記述しているらしく、普通に考えればこの場合も定子のことを指して「皇后宮」と書いたのでしょうね。
ここで思い出されるのが定子の辞世の句。
前述の「定子」の章では、
《夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき》
という歌を取り上げて書きましたが。
実は定子は三首の辞世の歌を残していました。
あとの二つがこちらです。
《知る人も なき別れ路に今はとて 心ぼそくも急ぎたつかな》
《煙とも 雲ともならぬ身なれども 草葉の露をそれとながめよ》
この最後の一首が、葬送についての定子の遺言と解釈されて、定子の亡骸は当時としては珍しい土葬とされています。
それをふまえてから、天皇の御歌を振り返ると、「草のやどり」にしても「風のやどり」にしても、煙になって空にはかえらず、一人、山里の御陵のなかに眠る定子を指しているともとれる気がします。
この歌がはたして、誰にあててのものだったのか。
真実は、天皇ご本人にしか分かりませんね。
ただ、天皇の一番の側近であった行成が自身の日記のなかに、当時、権力の絶頂にあった道長の娘の彰子ではなく、すでに亡くなっている皇后定子にあててのものだったと記し残しているというのが、個人的にはとても興味深いです。
一条天皇に先立たれたのち、彰子の産んだ二人の皇子、敦成親王と敦良親王は二人とも帝位に登ります。彰子は二人の天皇の国母として栄華を極め、当時としては異例の八十七歳という長寿の末、亡くなります。
彰子が亡くなったその年。
院政で有名な白河法皇が、すでに22歳だったというと彰子がどれほど長寿だったかというのが伝わるでしょうか。
その長い生涯のなかで、彰子は二人の我が子を先に見送っています。
女性としての最高位を極め、子や孫たちの栄華を見守りながら生きた彰子。
二十四歳という若い盛りで、惜しまれながら亡くなった定子。
二人の后のうち、本当に愛されたのは、幸せだったのははたしてどちらだったのでしょうか?
実際のところは、ご当人たちにしか分からないことですね。
私は、二人の女性はそれぞれに天皇に愛され、それぞれに幸福な時を生きたのではないかと思っています。
藤原摂関家の繁栄をその身をもって築いた藤原彰子。
彼女が亡くなるとともに、父道長が「欠けたることもなし」と詠んだ藤原の世は衰退の一途を辿ることになったのです。