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織田信長の正室 濃姫

今回も超メジャー級。


 日本史界のトップスター、織田信長さんのご正室、濃姫(のうひめ)さまです。


 濃姫、というのは《美濃から来た姫》という意味の呼称で本名は、「帰蝶」だったとも言われています。

 美しいお名前ですね。


 生年は諸説ありますが、天文4年(1535年)という説が有力なようです。


 父は、司馬遼太郎さんの『国盗り物語』で有名な斉藤道三。


 母は、美濃の名家、土岐氏の一族である明智氏の出身の女性、小見の方。

(ドラマなどではあの明智光秀さんと従兄弟同士だったとか、幼馴染みだったと描かれていることもありますが、真実は不明)


 濃姫が15歳の時、隣国、尾張織田家との間に縁談が持ち上がります。

 相手の信長は一つ年上の16歳でした。


 しかし、この濃姫さま…。


 人気と知名度のわりには、残っている逸話がとても少ない。


 夫の信長さまとの間のエピソードなんてほとんど皆無といってもいいほど。

 残っている、明らかに彼女の行動だと思われるエピソードといえば、実家斎藤家の菩提寺に父道三の肖像を寄進したことくらい。

 豊臣秀吉の正室ねねさんが、様々な逸話を残していることとは対称的ですね。


 一般に信長との間に子はなかったと言われていますが、それすら定かではないらしい。

(二人の姫がいた、とする記録があるらしいです。信憑性は低いようですが…)


 最近のドラマなどでは、本能寺の夜に勇ましく薙刀をとって戦い、信長と最期をともにしたと描かれることも多いですが、それはたぶん前述の『国盗り物語』の影響が大きいのでしょうね。


『国盗り物語』のなかの濃姫は、父・道三が嫁がせるのを輿入れ直前に悔やむほど、美しく、聡明で、可憐な、魅力溢れる女性に描かれています。


 ただ、最近では彼女は、その夜、本能寺にはおらず、信長の死後も長く生きていたとする説も有力とされているようです。


 だったら、正室として亡き夫の追善供養などを行った記録があっても良さそうなものなのですがそれもハッキリしたものはなく。(たぶん、これ濃姫なんじゃないの、という女性が行った、という記録はあるらしい)


 いつどこで亡くなったのか、ということさえも曖昧らしいのです。


 これってなんだか不思議。


 史料によっては、嫡男・信忠の生母であり、信長の最愛の女性といわれた側室、生駒吉乃(いこまきつの)を「御台(みだい)」と称しているものもあることから、濃姫は輿入れ後、まもなく亡くなっている、という説や、実家の父、道三の没後はその存在意義を失い離縁されたという説もあるほど。


 が、「正室=オンリーワン」というのは現代の私たちから見た価値観で、当事の一夫多妻が普通の社会では、「正室が同時にふたり」という状況もないわけではなかったみたいだし。


 吉乃さんを「御台さま」と呼ぶ記録があった=濃姫はその時、織田家にいなかった、と断定するのはちょっと早計な気もします。


 有名なところだと秀吉さんのところの北政所ねねさんと淀殿も、「両御台さま」と呼ばれていたという記録があるみたいですし。


 ただ、そういう説が出てもやむないほど、婚礼から後、存在感のない女性なんですよね~。


 彼女が、信長の生前、そして死後も織田家にいてそれなりの待遇を受けていたことを示す史料としては、当時のお公家さんの日記に、濃姫の異母兄にあたる斉藤義龍の未亡人が所有している高名な壺を信長が欲しがったときに


「信長の本妻がこれを諌めてやめさせた」


というような記載が見られます。


 これが事実だとしたら、実家の斉藤家との繋がりからこの日記のなかの「信長本妻」たる人物は濃姫の可能性が高く、彼女が当事、信長の傍らにあり、それなりの発言力と影響力を彼に対して持っていたということになります。


 また、信長の死後、彼の息子である織田信雄の家の記録に「安土殿」という女性が、600貫文の化粧料を与えられているのが記載されていますが、この「安土殿」というのが濃姫のことだったのでは、と言う説があります。


 この「安土殿」がイコール濃姫のことだという確証はないのですが、信長の生母、土田御前を指すと思われる「大方殿」よりも先に名があがっていることから、織田家のなかでの扱いの重さが伺われ、そうなると該当するのは信長の正室であった濃姫の可能性が高いと言われています。


 いずれにしても、このどちらかが濃姫を指していた場合、彼女は本能寺のあとも生存していて、信長亡きあとの織田家で、彼の正室としてそれなりの敬意を払われていた、ということになりますよね。

 ただ、この「信長本妻」にしても「安土殿」にしても、それが美濃の斉藤家から嫁いできた道三の娘である、とはどこにも明記していないわけで。


 あくまで、「そうらしい」としか言えないようです。

 謎に包まれた女性はその最期も曖昧で…。


 信長の菩提所である大徳寺総見院には、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で「信長公御台」と刻まれた塔頭が残っており、これが彼女を指す場合、濃姫は関が原より後の慶応十七年まで生き、七十八歳の生涯を閉じたということになります。


 また、彼女の故郷、岐阜県に残る濃姫遺髪塚には、


「本能寺の変の際、信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬した」

という伝説も伝わっていて。


 信長さまほどの有名人の正室でありながら、結局のところお墓の場所もはっきりとは明言できない、というのが事実のよう。


 けれど、史実がすべて曖昧だからこそ。

 どのようにも空想出来るゆえに、濃姫の人気は信長さまの他のどの女性よりも高いのかもしれませんね。







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