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北条氏政の妻 黄梅院

今回は戦国時代のお話です。


少し前の大河ドラマをはじめとする戦国時代を扱ったドラマでは、『政略結婚=不幸』という図式が定着していて主人公とその相手役を無理矢理にでも、婚礼の前に出会わせて恋愛感情を抱かせる。(ただし、第一印象はお互い最悪)というのが、もはや様式美のようになっていましたが。


実際のところこの時代、政略結婚……というか親同士が決めた相手と双方の家の利害を考慮したうえで結ばれるのは当然のこと不幸でもなんでもありませんでした。

政略結婚から始まった出会いでも本当の愛情が芽生えることは当然あったし、側室がいたからといって、

正室が愛されていない、蔑ろにされていたということでもありませんでした。


けれど、そんな中でもやはり国と国との政略の犠牲となりその運命を左右された女性も沢山いました。

今日、お話しする黄梅院(おうばいいん)もそんな哀しい運命に生きた女性の一人です。


本名は分かっていないので私は以前、『冬に咲く梅』というお話を書いたときには香姫という名前で書きました。

武田信玄と、正室三条の方との間に生まれた長女です。

天文22年(1553年)。彼女が11歳のときに、相模の北条氏康の嫡男、氏政との間に縁談が持ち上がります

ほぼ、同時期に駿河の今川家から武田家の嫡男、義信のもとに姫(嶺松院)が嫁いできており、さらに北条家からは、氏康の娘(早川殿)が今川氏真のもとへ嫁いでおり、甲斐、駿河、相模の三国同盟、強化の為の婚姻でした。


天文23年(1554年)十二月。十二歳になった姫は、北条家へと嫁いでゆきます。


彼女について残っている史料というのはあまりないのですが生母の三条の方は、かなり美しく、心映えもとても優しい素晴らしい女性だったようなのでその母に育てられた黄梅院も美しく、心の優しい少女だったのではないでしょうか。


それにしてもこの時の輿入れ行列というのがすごくて花嫁をはじめ、供たちが乗る輿が十二丁。嫁入り道具の長持ちが四十二。行列に従う騎馬の数は三千騎。実に総勢一万人を越える大行列で北条、今川へ向けての武田の勢威を誇るデモンストレーション的な意味合いも当然あったのでしょうが、年若くして他国へ嫁いでゆく娘の門出を盛大に飾ろうという信玄の父としての愛情を感じます。


花婿の氏政はこの時、十七歳でした。

結婚後、まもなく黄梅院は懐妊し、婚礼の翌年には初めての子となる男児を出産します。けれど、この子はほどなくして夭折してしまいました。

この時、黄梅院はわずか十三歳。(満12歳)


信玄も、三条の方もまだ年若い娘の身を離れた甲斐の国の空の下からどれほど案じたことでしょう。

幸い、氏政と黄梅院との夫婦仲は良好であったようで、それから二年後。黄梅院は、再び懐妊します。

この時、信玄は黄梅院の為に冨士御室浅間神社に安産祈願の願文を奉納しています。


その甲斐あってか、黄梅院は今度は無事に女の子を出産します

その後も、黄梅院は嫡男となる氏直をはじめとして次男、氏房。三男、直重と次々に氏政の子を出産します。

愛する夫と、子どもたちに囲まれて幸せな暮らしを送っていた黄梅院でしたがその幸福はある日、突如として打ち砕かれます。


永禄11年(1568年)十二月。

彼女の父、武田信玄が同盟国であるはずの駿河へ侵攻。今川家の居城、駿府城は陥落し当主、氏真は掛川城へと逃れますがこの際、氏真の正室として嫁いでいた氏政の妹、早川殿が輿にも乗れず、徒歩裸足で逃げるはめになったことに氏政の父、氏康が激怒。

信玄の娘である黄梅院を氏政と離縁させると、甲斐に送り返してしまいます。


この時、氏政は去りゆく妻に対し、16貫文余を堪忍分として与えたと言われています。

以前、読んだ本ではこの時代の一貫文=15万円くらいと書いてあったのですがそれでいうと、現代の価値でいうと240万円くらい?

当時の相場的に高いのか安いのかはたまた妥当なセンなのか分かりませんが、氏政さんの妻に対する精一杯の愛情のような気がして切ないです。


この時、長男の氏直はわずか七歳でした。

甲斐に帰った黄梅院は失意のうちに日々を過ごし、その翌年の永禄12年(1569年)6月17日。

ひとり寂しく世を去ります。享年27歳でした。


氏政は、その後継室(鳳翔院)を迎えていますが家督はそのまま黄梅院の生んだ氏直が継いでいます。


天正18年(1590年)。

世に言う秀吉の小田原征伐で氏政は、弟の氏照らとともに切腹させられます。

氏直は、徳川家康の娘、督姫を正室に迎えていたこともあって助命され、高野山に追放されるにとどめられました。

黄梅院が世を去ってからおよそ二十年後のことでした。


尚、氏政の継室である鳳翔院は、氏政の死の一ヶ月ほど前の小田原城包囲戦の真っ只中であった6月12日に死去しているのですが、この日にちが氏政の母である瑞渓院(北条氏康正室、今川義元の姉)が亡くなったのと同日であることから自害の可能性が指摘されています。

もし、そうだとしたら母と妻が先立って自害するのを見送った氏政さんの胸中は察して余りあるものがあります。

もし、この時武田家がまだ滅んでいなくて黄梅院が存命だったとしたら…。

彼女は敵に囲まれた小田原城を出て実家に帰ったのでしょうか?

それとも、最後まで夫に殉じて亡くなったのでしょうか。


氏政は、彼女の死後。

甲斐と相模の同盟が再び回復した後の、元亀二年(1571年)に相模領内の早雲寺の塔頭として黄梅院を建立し、亡き妻の分骨を埋葬して、手厚く葬ったと言われています。

氏政は、戦乱の最中で引き裂かれてしまった黄梅院のことをその死後も忘れなかったのです。


『真田丸』では高嶋政伸さんが、かなりキャラの濃い氏政さまを好演(怪演?)なさっていましたが……。

その氏政さまにもこんな哀しい物語があったのですね、というお話でした

最後までお読みいただきありがとうございました。


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