源義経の愛妾 静御前
今回は有名人です。
源義経の愛妾、静御前。
日本史のなかでもトップクラスの知名度と人気を誇る女性ではないでしょうか。
静は都でも評判の白拍子でした。
『義経記』にこんな一説があります。
日照りが続いたので、当時の最高権力者であった後白河法皇が、100人の僧を集めて読経をさせました。
しかし、効果がありません。
次に、100人の容姿端麗で、技芸に堪能と評判の白拍子が集められ、雨乞いの舞を舞わせられました。
この記事から察すると、「白拍子」というのは単なる「芸能人」ではなく、祭祀をつかさどる「巫女」的な役割をもになっていたようです。
99人目までが舞を終え、何の効果も現れなかったその時。
現れた100人目の白拍子が舞い始めると、たちまち晴れ渡っていた空が黒雲に覆われ、その後、三日間は雨が降り続いたと言われています。
それが静御前でした。
感嘆した法皇は、静に「日本一」の称号を授けました。
ことの真偽は分かりませんが、静には、そんな伝説が生まれるような、普通の女性とはちょっと違った不思議な魅力が備わっていたのかもしれません。
その後、義経に見初められ、時代の寵児であった彼の妾となった静。
平家討伐の英雄と、「日本一」を法皇に認められた白拍子。
間違いなく、当時で最も華やかなカップルだったことでしょう。
しかし、2人の幸せな時代は長くは続きませんでした。
鎌倉幕府に無断で、朝廷から官位を貰ったことが原因で兄・頼朝の不況をかった義経は平家討伐の英雄から一転、お尋ね者として逃亡生活を余儀なくされてしまいます。
都育ちの彼女も彼に従って、都を落ちますが途中、吉野山まできたところで、
「これ以上は女人禁制の地になるため、入ることは出来ません」
といわれ、泣く泣く義経一行と別れます。
義経が静につけてくれた雑色(使用人)たちが、彼女の荷物を奪って逃げてしまったので、雪深い山中で途方に暮れていたところを、追っ手に捕えられ、鎌倉へと連行されました。
鎌倉で、尋問にあった静は義経の行方について、何を聞かれても
「吉野山でお別れして以降の行方は存じません」
と言うばかりだったそうです。
これは彼を庇い立てたというより、本当に知らなかったのでしょうね。
この時、静のお腹には義経の子がいました。
生まれる子が女の子ならこのまま放免。しかし、男の子だったら、のちのちの禍根になる為、生かしておくことは許されない。
とても残酷なことですが、静は出産まで鎌倉で過ごすことを命じられます。
そして、そんな文治2年のある日。
鎌倉の鶴岡八幡宮へ将軍夫妻、頼朝と北条政子が参詣することになりました。
頼朝はその席で、静御前に、神前で奉納する舞を舞うように命じます。
愛する義経の敵である鎌倉幕府の歴々の前で舞を披露させられる。
静にとっては、これ以上ない屈辱だったと思います。
しかし、彼女はそれを承諾しました。
そして、当日。
『日本一』と称された静の舞を見ようと詰め掛けた人々の前で、彼女はゆるゆると、優雅に舞い始めます。
あでやかで洗練された身のこなし、流れるような舞の手に感嘆のため息をついた人々は、彼女の涼やかな歌声を聞いた瞬間、凍りつきます。
吉野山 峯の白雪 ふみわけて 入りにし人の後ぞ恋しき
しづやしづ しづのおだまき くり返し 昔を今になすよしもがな
《吉野山の深い雪を踏み分けて去っていったあの方。あの日、お別れしたお姿が今も恋しくてならないのです》
《「静よ、静よ」いつも優しくそう呼んで下さった。愛しいあの方が華やかにときめいていらした、あの頃に戻ることが出来たなら……》
どちらも切ない恋情が溢れるような美しい歌ですが、とりわけ2首目の歌は鎌倉に対する痛烈な批判、挑発ともとれる激しい歌です。
果たして、万座の席で面目を潰された頼朝は激怒します。
その場は、頼朝の妻、政子のとりなしによって事なきを得ますが、静御前はこの時、どこかで死をも覚悟していたのではないでしょうか。
その後、静は鎌倉の地で出産を迎えます。
生まれてきた子は不幸にも男の子でした。
まだ、産後間もない赤ちゃんを、頼朝の命を受けた安達清常という御家人が取り上げにやってきます。
静は、産着に包まれた我が子をかき抱いて「叫喚数刻」
泣き叫びながら子どもを抱きしめて、決して、渡そうとはしなかったそうです。
このままでは静自身の身も危ないと思ったのでしょう。
静御前の母であり、ともに鎌倉へ連れてこられていた磯禅師が娘の腕から赤子を奪い取るようにして安達清常の手に渡してしまいます。
任務とはいえ、彼も辛かったのではないでしょうか……。
子どもは殺されて、由比ガ浜に打ち捨てられたそうです。
その後の静御前の行方は、杳として知られていません。
自分が母になってから特に、生まれてすぐの我が子を殺されてしまった彼女の引き裂かれるような悲しみに胸を打たれます。
彼女には、鎌倉滞在時に、酒宴の席でたわむれに言い寄ってきた鎌倉の御家人の一人に対し、
「私は鎌倉殿の弟君、源九郎義経さまの妻です。世が世なら、そなたなど対面もかなわぬはずなのに……そのような戯言を言いかけるとは言語道断です!」
と、毅然として抗議したという話も伝わっています。
逆境の中でも、誇りを失わず、気高く凛として、妻として母としてのプライドを守り抜いた静御前。
「やまとなでしこ」の歴史の中でも、燦然と輝く、素敵な女性なのではないでしょうか
拙い長文、失礼いたしました。




