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永遠の佳人 藤原定子

清少納言が女房としてお仕えした一条天皇の皇后、定子さまのお話です。


藤原定子。

さだこ、と呼んだのかは分かっていません。


当時の女性の名は「ていし」「しょうし」のように音読みするのがならいとなっていますので、ここでもそれに倣って「ていし」と呼ばせて頂きます。


貞元2年(977年)藤原道隆の長女として生まれました。

よく比較される藤原道長の娘、彰子より11歳の年長になります。


正暦元年(990年)1月25日。

十四歳で、三つ年下の一条天皇に入内しました。


同年10月、中宮に冊立されます。

定子の父、中関白道隆は、お酒と冗談が好きな陽気な人柄で、そこにいるだけで場の空気が華やぐような魅力のある人でした。


母の貴子は円融天皇の宮廷に高内侍の名で出仕していたキャリアウーマンで、漢籍にも通じた教養深い女性でした。


道隆から求婚されていた時に詠んだという


わすれじの行く末まではかたければ

今日をかぎりの命ともがな


という歌は百人一首にもおさめられています。



その両親の血を受けた定子は、美しいばかりでなく、聡明で教養深く、才気に溢れた快活な女性でした。


「枕草子」を読んでいると、定子が自ら女房たちに話しかけたり、遊びの提案をしたりして、御殿の空気をリードしていたことが分かります。


枕草子にこんなシーンがあります。


帝の御前で、定子の兄の伊周らが集まって歓談している場面で、定子はまわりの女房たちに

「思い浮かぶ歌を何でもいいから書いてご覧なさい」

と言います。


帝の御前ということもあって、あたふたしてしまって咄嗟に何も答えられない女房たちを、定子は

「ほら。なんでも良いから早く早く」

と促します。


この場で清少納言は、誰もが知っている有名な古歌をちょっとアレンジして

「帝や中宮さまをお見上げしていると、どんな物思いも消えてしまいます」

という意味を持たせた歌を披露し、中宮にお褒めの言葉をいただいた、という場面なのですが。


これは、決して清少納言が自分の才覚を誇るためだけに書いた場面ではないですね。(まあ、それも少しはあったでしょうが…)


清少納言がこの場面で訴えたかったのは、自ら遊びを提案して、その場を楽しく盛り上げることの出来る中宮定子のお人柄の素晴らしさ、だったのだと思います。


有名な香炉峰の雪のエピソードもそうですね。


中宮の問いかけに対して、「簾を掲げてみる」という返答を咄嗟に返せた自分の教養と機転を誇るのではなく、「雪を見たいから簾を上げて」というところを、さらりと「香炉峰の雪はいかならん」と言えてしまう中宮さまって素敵!どう?素晴らしい御方でしょう?というのが、清少納言が本当に訴えたかったことだったのだと思います。


ただ、おとなしくて可愛らしいだけのお姫さまではなかったんですね。

これは陽気で冗談ごとを好んだという、定子の父の道隆の性格によるものも大きかったと思います。


道隆は、宮中勤めのキャリアウーマンを正室に迎えていることからも分かるように、「女はおとなしく、控えめにしているのが一番良い」というような考え方の男性ではなかったのでしょうね。


そんな父のもとで、のびのびと育てられた定子は、高貴な深窓のお姫様でありながら、快活で、場の中心になってリード出来るような魅力的な女性でした。


そんな定子に、一条天皇は夢中になります。


枕草子の中に、定子のもとに両親、兄弟、東宮のもとに入内している妹姫までが集まって家族で団欒をしているところに一条天皇がお渡りになる、という場面があります。


その場で、天皇は中宮を御帳台に誘われて…つまり、家族みんなが集まっている目の前でベッドルームに誘われたという、それはちょっとどうなの?と思ってしまうような場面ではあるのですが……。


ともかく、天皇は中宮と一緒の時間を過ごされて、清涼殿にお帰りになるわけですが、その夜もまたお召しがあって、今度は定子の方が清涼殿に上がったと書いてあるんですね。


まさに昼も夜も片時も離さない御寵愛ぶり。

時の最高権力者である関白道隆に対する天皇の配慮、サービスといった見方も出来ます。


もちろん、そういった意味合いもあったでしょう。

のちの彰子への対応などもみると、一条天皇はなかなかそう言った気配りが細やかな御方だったみたいですし…。


けれど、それは父の道隆を喜ばせる=定子を喜ばせたいという愛情でもあったと思うのです。


 この時、定子は天皇の寵愛を一身に受け、後宮の女王として君臨していましたが、いまだ懐妊の兆しはありませんでした。


 当時の摂関政治のシステムは、天皇に入内させた娘が男皇子を産んでナンボ。

 聡明な定子には、自分にかけられている一族の期待が嫌というほど分かっていたはずです。


そして定子を愛している一条天皇にも、彼女にかけられているプレッシャーの重さは分かっていました。


天皇は、それを分かったうえで、「自分は定子を一番に愛していますよ。こんなに大切にしていますよ」とアピールすることで、定子を守ってあげようとされたのではないかと思います。


そして、一条天皇は定子だけでなく、彼女の父や道隆、兄の伊周ら、中の関白家の雰囲気自体がお好きだったんじゃないかという気がするんですね。


枕草子には、天皇が定子とともにいる場面に父や兄弟が同席している場面が幾度か出てくるのですが、道隆の陽気な性格もあって、どの場面もとても和やかで楽しそうなんですね。

しかし、この幸福はいつまでも続きませんでした。


長徳元年(995年)四月。

父の道隆が病で亡くなると、定子の運命に翳りが見え始めます。


病の床で道隆は、自分の後任の関白に嫡男の伊周を、と願いで出ますが許可が下りないままに亡くなってしまいます。


後任の関白には、道隆の弟の道兼が任じられました。

歓喜した道兼でしたが、流行り病にかかり、関白就任からわずか七日後に亡くなってしまいます。


人々の関心は、次の関白の座が誰になるかに集まりました。


候補者は二人。

故道隆の嫡子、伊周と、道隆、道兼の弟である道長です。


この時一条天皇の内意は、伊周にあったと言われています。

しかし、天皇の生母である東三条院詮子が強硬にこれに反対しました。


かねてより、道長とは仲のいい姉弟であったのに加え、息子の一条天皇が、あまりに定子ひとりを愛しているので嫉妬した為だとも言われていますが、どうなのでしょうか…。


ともあれ、詮子は次の関白に道長を猛プッシュ!!


ついには涙を流して、その場での決断を迫ったので、一条天皇もやむなく道長を「内覧」とすることを決めました。


その翌長徳二年(996年)

伊周、隆家の兄弟が女性をめぐるトラブルが原因で、花山法皇に矢を射かけるという事件が起こります。


この他にも国家にしか許されていない修法を伊周が私的に執り行っていただとか、東三条院を呪詛したとかいう罪状が上げられ、伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守とする命令が下されます。


左遷、というより実質的には流罪ですね。

この時、定子は一条天皇の子を身ごもっており、二条北宮の里第に里下がりをしていました。


兄弟は度重なる配流地への出立を促す使者にも、体調不良を理由に応じずに定子のもとに身を潜めていました。

業を煮やした朝廷側は、ついに強制的な家宅捜索の許可を出します。


とはいえ、まさか中宮のいらっしゃるところに下級役人を踏み込ませるわけにはいかないので、中宮には一時的に、別の場所にうつっていただいたうえで邸に役人たちがなだれ込みました。


この時、伊周は別の場所にいて不在でしたが、弟の隆家が発見され引き立てられました。

戸が打ち壊され、几帳や御簾が引き倒されるような混乱の最中、定子は自ら鋏をとって髪を下ろしたと言われています。


その報告を聞いた一条天皇のご心痛はいかばかりだったことでしょう。

定子の不幸はそれだけにとどまりませんでした。

罪人の家は不審火に襲われるとはいいますが、定子の里第であった二条北宮が火事で全焼してしまいます。


同じ年の秋に、伊周・隆家の配流以来、心痛で伏せっていた母の貴子が危篤状態に。

「せめてもう一度会いたい」という病床の母の願いを叶える為、ひそかに入京した伊周は、密告にあい、捕らえられて再び京を払われ、貴子は失意のうちに亡くなってしまいます。


次々と襲ってくる苦境と哀しみのなかで、定子は第一子となる脩子内親王を出産します。

出産は予定よりも大幅に遅れ、懐妊十二月と噂されたと言われています。


 頼りとなる後ろ盾を失い、失意のうちに髪を下ろしたとまで言われた定子でしたが、一条天皇が彼女に寄せる愛情は薄れることはありませんでした。


脩子内親王の誕生から年明けて、長徳三年(997年)の四月。

定子の兄、伊周、隆家らが罪を許されて帰京します。


その年の六月。

脩子内親王との対面を望む一条天皇の強い希望で、定子は再び宮中に上がります。


定子の御殿は、後宮の殿舎ではなく、内裏の外にある職の御曹司という場所に定められました。

一度は髪を下ろした女性が再び后妃として帝のお側にあがるという異例の事態に対する配慮が伺われます。


 天皇は、久しぶりに再会する定子と初めての御子である姫宮とのご対面を大層喜ばれ、清涼殿から遠く離れた職の御曹司に人目を忍ぶようにして、夜ごと通われました。


 

長保元年(999年)11月11日。


藤原道長の長女、彰子が天皇のもとに入内します。

同月7日。彰子に女御の宣旨が下され、それと同じ日に定子は第一皇子・敦康(あつやす)親王を出産します。


この時、彰子はわずか十二歳。

対する定子は二十三歳です。


もとから輝くばかりであった定子の美貌は、哀しみと苦悩を味わったことによる憂いと翳り、苦境の中でも変わることのなかった帝からの愛情、二人の御子の母となったことによる充足感などによりこの頃、眩いばかりのものだったと思われます。


長保二年(1000年)二月。

彰子が「中宮」に冊立されると、定子は「皇后」とされます。

史上初めての「一帝二后」の誕生です。


以前は、私はこれを

「もう父を失い、兄も権力闘争に敗れて無力な定子をこんな風に追い落とすなんて酷いな……」

という風に思っていたのですが。


最近では、この時点での定子はそれほど、か弱く儚いだけの存在ではなかったのかもしれないと思うようになりました。


道隆が健在だった頃の勢威とは比べるべくもないとはいえ、兄の伊周、隆家は曲りなりにも政界に復帰しています。

そして、定子は一条天皇の最愛の女性です。


後見を失い、髪まで下ろした女性をどうしてもと望んで入内させるなど並大抵の想いではありません。

天皇は定子のことを、后としてではなく一人の女性として、人間として愛していたのだと思います。

定子自身にそれに値する魅力が十分にあったことは、彼女に側近く仕えていた清少納言が「枕草子」のなかで繰り返し書いています。


道長陣営にとって定子の存在は十分に脅威でした。

だから、世間の批判は覚悟の上で彰子の立后を実現させたのです。


やがて定子は三度、懐妊します。


長保二年(1000年)十二月。


定子は第二皇女、媄子(びし)内親王を出産しますが、その直後に容態が急変。その夜のうちに崩御します。

享年、二十四歳。


生まれたばかりの姫宮の産声が響くなか、定子の兄、伊周、弟の隆家らは定子の亡骸をかき抱いて、声を惜しまずに泣きました。

 彼らにとって定子は、父道隆亡きあとのつらく苦しい時代にあって、変わらず一族を希望の光で照らし続けてくれたかけがえのない存在でした。


 定子の訃報を聞いた一条天皇は、


 あはれ、いかにものを思しつらむ

 げにあるべくもあらず 思ほしたりし御有様をと、

 あはれに悲しう思しめさる


(ああ、宮はどんなに切ないお気持ちであられたことか。

 いかにも、もう生きておられそうもなく沈んだ御有様であられたが…、

 としみじみ悲しく思し召された)


 と仰られたと『栄花物語』にはあります。


 宮たちいと幼きさまにて、いかに

(宮たちもたいそう、幼くていらっしゃるのにどうしているだろう)


 と幼い敦康親王、脩子内親王のことを思いやる御父君らしいお心遣いもみえて、天皇の定子とその御子たちに対する愛情の深さが伺えます。


 定子の亡骸は、本人の希望で当時一般的だった火葬にはされず、鳥辺野のあたりに土葬されました。

 季節は冬。しんしんと冷える、物寂しい葬送の地で、一人眠る定子を思う天皇のお気持ちはいかばかりだったことでしょう。


 定子の辞世とされる歌が残っています。


 夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき


 薄幸の佳人と言われる定子ですが、この辞世の歌を見ても定子が一条天皇が自分を心から愛してくれていたことを知っていたことが伝わってきますね。


  

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