21
世相は悪化する一方だ、
という話は同室の子から聞いた。
その子は、僕と同じ痛みを知る者。辛い経験を経た子供である。
彼は僕と同類であることを自覚しているがゆえに、あえて僕に近づかなかった子であったけれど、ラビトとここ最近距離があることを気にしてくれてか僕が俯いている間に世間話という風を繕いながらも僕の為に話をしてくれた。
僕が外の世界を気にしていることを理解しているようだった。
「たくさん、人が死ぬかもしれないね」
「そうかな」
彼は詩的な言葉を小さな声で紡ぐ。
僕のベッドに座り、隣で足をぶらぶらとさせながら他人事のように呟いていく。
「アーディ王国の首都は、偉大にして華やかなる騎士たちの墓場だからね」
「そうかなあ」
墓場、という響きが僕の中で嫌だと訴えてきたため、顔を顰める。
さも、無数に建ち並ぶお墓の群れに草葉が混じる一陣の風が吹いた景色が瞼の裏に幻視してしまい、ぶるりと震えてしまう。
「アリス、君は強いね」
「そうかな」
言うや、彼はうん、とひとつ頷き。
ひび割れた下唇を突き出して平然と嘯く。
「そうだよ。
だって、怨みは強い。
絶対に忘れられない。憎しみに果てはない」
怨み、憎しみ、苦しみ、痛み。
えげつない穢れ。憎悪。忘れられない思い出。記憶。悲劇。
染みるがごとく、強い感情をいつまでも自傷行為のように蘇らせて悲しむなんて、馬鹿らしいことだ。けれど、それは僕が人間である証でもあった。
……稀に、足元が不如意になることもあるけれど。
―――――そこまで痛みを覚えていられるのが凄いと思う。
だが、疲れるものだ。四六時中憎しみを持つなんて。僕の場合は蓋をした。朝の光を直接目に入れたら染みるように痛むが、目を瞑り、通り過ぎればなんとか我慢できるものなのだ。でないと生きていけない。
礼拝堂へ向かう通路には、窓がある。騎士様も通った場所だ。
変わらない毎日。僕の大事な日常が壊れた日も、こうして温かな光は僕の頬を撫でて床に人影を落としていた。そうして今日もまた僕はこの定まった通路を歩く。変化のない日々。バケツを持って歩くことにも手慣れたものだ。掃除用具の手入れだって、僕は分かっている。むしろ改良の余地がないかと考えてさえいる。誰も分かってくれない時もあるけれど。
通路を過ぎた先にある教会の窓枠からは、かつて若手の騎士に連れられてやってきた道が見える。
あの道から向こうへは、王都に続いている。僕もかつて、あの道の向こう側からやって来た。そして、孤児の一員になった。この窓から、僕を興味深そうに覗いていた孤児と同一の身に。
(復讐)
確かに。僕は、もし目の前に犯人がいて果たすことができるとしたら、間違いなく手を下している。奴らは僕の大事な家族を殺した。みっともない動きをするかもしれないが、しかし、やってやればどれだけスカッとすることか。罪の意識? 理不尽な目に合えば、そんなものはふっ飛ぶ。
それぐらい、怨みや憎しみというものはなかなか心から消えないし、汚れのようにこびりつく。いや、厳密にはそれは汚物ではないけれど、しかし、実に消えない、残りカスのごとく尾さえ引くのだから一旦身についてしまうと面倒なものなのだ、心の傷というものは。折に触れ、蘇る厄介な記憶でもあるからこそ……思い出すたびに嫌な思いをし、心がたびたび傷つけられて血が流れる。そして凍りつく。度々自傷行為を働いてはまた、その氷のようなかさぶたは剥がれる。僕の場合は、蓋を。
この循環はいつまでも続く。
本当にこの感覚は非常に気持ち悪く、なんとかしたいと願っていても、どうしても忘れられなくて息苦しくて誰かに助けてもらいたくて。
でもいざ、誰にも分かってもらえないとも思うと悲しくて、息が苦しい。
僕の場合、復讐そのものの役目は騎士様がやってくれた。
本当なら僕がやればよかったのかもしれないが、僕はこの通りの子供だ。大人三人を野放しにしたところで、力をつけた僕が奴らをとっちめるにしてはさすがに間に合わない。僕がしてやる前に、奴らの生活からして、さっさとくたばっているだろうな。野となれ山となれ。本当に復讐を果たすつもりならば、監禁でもなんでもして、ずーっとどこかに留めさせねば難しいことだ。
そんなこと出来るはずもない。それも、ただのひ弱な孤児が。
だからこそ、騎士様は恩人なのだ。僕の気持ちを、和らげてくれた人。寄り添ってくれた人。
僕の頭を撫でてくれるたびにくすぐったい気持ちになる。
……が、同時に思い起こされる存在もいる。
込み上げてくる、どうしようもなく膨れ上がるどす黒い感情。
(憎しみ)
復讐を果たすことができない。となると、その燃え上がる憎悪の炎が向ける相手なんて。
僕からしてみれば、ただ一人しかいない。
当然、僕はそれが歪んでいる、ことを自覚している。
八つ当たりであることも。
なら、諦めたほうが良い。心身正しく生きるならばあんな子供のやることだ、と少しは年長者としての矜持を取り戻さねばならないものだが。
「放棄だ」
(けどやっぱり、大っ嫌いだ)
蘇る尊大な、幼稚な声は僕を殺そうとする。
あの一言さえなければ、赤毛の子を憎んだりはしなかったのかもしれない。
嗚呼、あの家屋が焼け落ちた臭い、饐えた臭気、血の流れる生温かな音、人の叫び。
そう、誰が叫んでいるのだろうと思った、なんとも甲高くて耳触りの良くない声。
不快だった。あまりにも五月蠅くて、頭が痛いくらいだ。一体誰だと顔を顰めて思えば、それはまさしく僕の喉から絞るようにして飛び出たものだった。狂った、と野盗どもは揃って考えたらしく、似たような嘲笑を僕に浴びせてたっけ。僕も笑った。声にならなかったけれど。涙を流して滲んで乱れる視界は、世界の終わりにしか映らなかった。
(僕は案外と自尊心が高いものらしい)
けどそれは、ラビトにも共通して言えることだった。
ラビトは相変わらずため息をついている。
諦められないのは丸わかりだった。僕の意見を分かっているからこその行動だ。彼はその聖女様に関わらる習慣をやめられず、しっかりと丁寧に日々、司祭様よりも司祭様らしい行動をとるようになった。
それは、掃除のみならず。
朝、昼、晩。
司祭様の後ろで祈りを捧げることも、彼の勤めとして加わった。
孤児にはこのような習いはない。
要は、聖女様の僕としてのお勤めだ。
それを、自発的にする孤児。僕は初めて目にした心地だが、それは司祭様も同様であったものらしい。初めはどういうことか詰問されていたようだったけれど、ラビトは敬虔な信徒として祈りを捧げたいと受け応えをしたようだった。感心したらしい、司祭様。
それから、誰よりも早く食事を摂り聖職者らしい振る舞いをする司祭様の影に、ラビトがその小太りの身体を丸めて聖職者の真似事をするようになってしまった。
傾倒していった。次第にラビトは早々とご飯を食べ、司祭様が頭を垂れて捧げる祈りの時間に介在するような存在となっていった。いつもの光景となり、変わらぬ日常に彼らは混じり合ってしまった。
そこに、僕は当然いないし、ラビトと仲の良かった子たちさえどこか遠巻きに眺めるようになってしまった。孤児としての仕事はしている。だから、ラビトはあえて自分の休息時間をそういった聖女様信仰へ費やしてしまったことになる。眠る時間さえも、消灯のギリギリまで粘る熱心さだ。礼拝堂には置物のように、決して身じろぎをせず祈りを捧げる、一介の孤児の姿があった。
ロウソクの灯にたびたび、照らされていたり。ロウソクを消しに来る司祭様がやってくるまで、ああやってずっと献身的な姿をみせている。
(どうして?)
僕は不思議に思えた。
だって、彼は分かっているはずだった。聖女様なんて、所詮は宗教上の都合だってことぐらい。現在の聖女様は少なくとも初代ではない。ラビトが惚れ込んだ聖女様はいない。
少なくとも、この世には。