12<発熱>
「おはよう、アリ……、うわ、
ほっぺが赤いね、林檎みたい」
ラビトは案の定、昨日のことなんか忘れてしまったかのように僕の顔色を窺った。
「熱は……」
「少し、あると思う」
「そうかぁ。
じゃあ、孤児院特製のふやけたパンにする?」
「何それ」
小鼻を膨らませたラビト、ふんぞり返って自慢してきた。
「スープにね、細かくちぎったパンを入れて柔らかくするんだよ」
「……それ、いつ、も、の食事じゃん」
「いいや! 違わないね、ほら、口に入れるとさ、
すんなりと呑み込みやすくなるんだ」
「げほ、ごほ」
(そりゃあ、食べやすいのはありがたいけどさぁ)
咳き込みながらももう少しマシなものはないのかと思ったが、掠れ声しか出ない僕にはありがたい申し出なのかもしれない。果物さえそうやすやすとテーブルに上がらない孤児院だし、薬だって与えられないあたりで察してしかるべし。
(……貧しいにもほどがあるよ……)
正直、ラビトの提案は微妙に感じていた僕であったが、こんな選択の自由さえないところでは、子供の知恵で出来る範囲でやるしかない。ふやけたパンというものを食べ、生き延びてきた孤児院の子供たちによるひもじい努力には涙がちょちょぎれる思いだ。
なんだろう、この胸を塞ぐ気持ちは……。
(頼れる大人がいない)
騎士様が脳裏に浮かぶが、孤児院から出ることは叶わない。
彼だけが僕のために来てくれたけれど、でも、あれから再来訪するなんて気配はなかった。
「会い、たいなぁ」
――――茜色の空を背景に、軍馬に騎乗する威風堂々とした騎士様のお姿は、今も僕の胸に焼き付いている。
「え?」
「…えほ、げほ」
意識をせずともこみ上げてくる咳をしながら背を丸めていると、困惑しっぱなしのラビト。
ベッド脇の枕元で立ちっぱなしだ。まごついている。
……これは彼が悪い訳じゃなく、ただ単にどうすればいいのか分からなくって、でも僕が苦しんでいるのをどうにかしたくて、うろうろとうろついているのだ。孤児院育ちで外の世界を知らない彼は、司祭様にお伺いを立てることしかできず、俗に言う指示待ち状態のままに戸惑っている。
孤児院流がどうあれ、代々受け継がれた方法であれこれと僕の為にかって出てくれる良い奴だ。周囲の孤児たちも軒並み似たようなものだった。新人孤児たる僕をどう扱えば良いのか不安顔で、深手を負った野生動物のように、静かな場所で休ませることしかできないのが彼らの限界である。
ん、と喉の痛みを我慢しつつ、
(昨日のこともあり気恥ずかしいけれど、)
せめてと思い、僕はそっと仕舞い込んでいた片手を布団から抜き出し、浮いた手をラビトに向けてお願いしようとした。
「ねぇ」
「ああ! あれだろ、額にあれ載せないとだよな」
「……」
急に思い出したものらしい、ばたばたと重たい体重を床に踏みつけて飛ぶようにして部屋から出て行ったラビトの少年らしい後姿をみやりながら、僕はひっそりとため息をついた。
ぱたりと浮いた手を胸に置く。
下段ベッドで横たわる僕の周りには、他の孤児たちが雁首揃えて集まっている。外から来た孤児は、僕の様子をなんだか探るように伺っているし、他の部屋に住む幼児でさえ、僕の弱弱しい姿が気になるものか、ベッドの縁を掴んでから、穴が開くかといわんばかりに見詰め続け、仕舞には普段より赤味のある頬を突こうとしてきた。
「……あんまり、僕、に近づかないほうがいいよ。
うつっちゃうよ」
「うつるって何?」
(はあ)
両目を覆った。
服の継ぎ足し用に使われていた中途半端な布きれが宛がわれ、冷んやりとした布地の向こう側にいる小太りな少年を見上げようとしたが。
「げほ、げほ」
「具合、まだ悪い?」
「ん」
喉はイガイガ、胃の中も調子悪い。顔を上げる元気さえない。
身体全体がふわふわとしていて、浮ついている。
(天井が近く感じる……)
普段とは別の視点で見上げているかのような、妙な感覚に違和感を覚えて仕方ない。
「うーん……、司祭様にまた掛け合ってみるけど。
ゆっくり寝とけよ、アリス」
うん、と返事をしたかは定かではないけれど、そのような言葉を夢うつつで対話した気がする。
僕の小さな唇から、熱い吐息がふう、と排出された。
ここしばらく、微熱のままだった。高熱にならないのは幸いだが、じりじりと焦らされる体熱はなけなしの体力を奪い去り、ただでさえ小柄な僕を軟弱にさせた。
今日も今日とて、僕はひとりでお留守番だ。
孤児に与えるにはあまりにも狭い居場所で、下段ベッドの固さを背中で味わいながら仰ぎ見る。
上段ベッドの底にあたる天井は小汚く、陽に焼けている。水拭きしてマシにはなったが、使用され続けた古い二段ベッドに綺麗さを求めるのは酷というものである。これでもまだ新しいほうだというのだから、どれだけの孤児たちがこの部屋に住み、出て行ったことか。考えれば考えるほど熱が上がりそうだ。
(今日もふやけたパンなんだろうなあ……)
それも美味しくない黒いパン……。
とろとろと半分ふやけた頭で思考を走らせていた。
美味しくない食事だが、ラビトを初めとして孤児たちが懸命に千切ってくれたパンである、他に食べるものもないのだから我慢するしかない。
こういうとき、思い起こされるのが母お手製の病人用の食事だった。
不思議と、こういうときに作られる手料理はどうにも優しい味がするのだ。孤児たちの千切りパンの味わいはどう取り繕ってもただのパンの味でしかないが、しかし、こういう時、母が生きていたら、と思うとあまりにもむなしい気持ちで空寒くなる。まるで夢のようだ、こんな境遇が。
(母さん……)
背中をゆっくりと擦ってくれただろうし。額の布も冷たく固く絞った布にして、ひっきりなしに交換してくれただろう。すりおろした林檎も喉をさほど刺激せず、滑らかに呑み込めるようにしただろうし、もう少し厚手の布団を用意してくれたはずだ。薬だって手ずから飲ませてくれて、場合によっては兄さんや妹たちが顔を出して大丈夫かと騒がしく静かにしなさいと怒られて。
なんだかんだで母さんの手伝いをして僕を労わってくれた兄妹たち。
幻の匂いを嗅いだ気がした。
母さんの、得意料理のシチューの匂い……。
生温かな風が部屋の中を巡っていた。
――――ゆるゆると、目を閉じた。
どれだけの秒針が動いたことだろう、気付かぬうちに、僕は眠っていたのかもしれない。浅い、眠りを。
床が軋む音を、僕の寝ぼけ気味な耳が拾った。
(……ん?)
気のせいかな。でも、足音にも思えた。
そろりと痛む喉を我慢し部屋の入口に視線をやるが、誰もいない。
瞬く。
ドアは閉めっぱなしだ。
(今日、って朝から野菜の虫とりじゃなかったっけ)
葉物野菜に付着する虫とりは、女子には不人気なものである。でも、やらないと孤児たちの食事にさらなるひもじさが待ち受けている。糞なんて気にせず、黙々と排除する仕事は誰もやりたがらないけれど、でも、誰かがやらねばならない仕事だ。
だから、ここには僕以外の孤児はいないはずだった。女の子たちが幼い子を背負っているし、現在孤児院には赤ん坊はいない。
「……あれ?」
横目で、僕は見つけた。
窓だ。窓が、僅かな隙間、空いていたのだ。
道理で、風の通りがある訳だ。
誰かが閉め忘れたんだろう、と霞がかる頭でひとりごちた途端、僕は不自然な人影を見つけてしまった。
「え?」
一瞬、心臓が止まる。
「よお、チビ。お前がアリス、だな?」
全身に冷や汗をかいた。
(どどどど、どうしよ……)
何かを投げつければ良いのだろうか? しかし、現状、この部屋にははっきりいって物なんてものさえも置かれていなかった。
片手をあげ、陽気そうに喋っているが……、
「リディに頼まれて、お前の様子を見にきたんだ」
見知らぬ青年の出現に、僕はどうにも悲鳴さえ上げることができずにぐるぐると唸る声を、痛む喉の奥に仕舞い込むばかりだ。