10<騎士様との邂逅>
紫色の花が頭を揺らし、爽やかな香りを辺りに振り撒く。
一陣の風が吹き抜け、さあ、と僕の桃色の毛先をも攫った。
ふと、足元を見やれば赤茶けた土が隆起している。
(ムム……)
足を動かし靴の裏で平らにした。そうしないと誰かが転ぶかもしれないし。
目線を戻せば、遠巻き気味だった孤児たちが騎士様に纏わりついていた。戯れている、というか。騎士様にたかっている。僕の鼻先には小さな虫が飛んだ。邪魔くさい。片手で振り払えば、彼方まで飛んでいくかの虫を目で追えるほどに手持無沙汰の暇だった。
(ムムムム……)
子供たちの笑い声が大気に響き渡る。
(……司祭様だって、少しは叱りつけてやればいいのに)
ラベンダーは日当たりの良い場所を好む。
水もあまりやらなくていいのは楽でいい。ただし、肥料を丹念にやらねば大きくならないし、上手く育たないと僕たちの飯のタネが萎む。ラベンダーは育てるのがやや難しくて面倒なところがあり、手数に余裕のある孤児院にとっては最大の収入源でもあった。
(僕が住んでいた村じゃ、雨が降る時期が今なのに)
アーディ王国王都の気候はカラッとしたもので過ごしやすい。湿気も少なく、洗濯物がよく乾いた。
一本、ラベンダーの株から鄙びたそれを引き抜き、すっと横に振る。
紫の花びらを摘み、横にひいてやればぱらぱらと砕け落ちる紫色の粒。匂い袋にさえならず、次代への命の引き継ぎが失敗してしまったくたびれラベンダーの向こう側では、小さな女の子が騎士様に頭を撫でられてはにかんでいる。
ざあ、と抜けていく横風は強かった。
枯草が飛び、申し合わせたかのように子供たちは嬉々としてラベンダー畑の土壌を走り抜けていった。佇む騎士様の後ろにて折よく司祭様が孤児たちへ睨みを利かせているが、騎士様がいる以上下手に声を荒げることができないでいる。そんな老年の司祭様を目にいれてようやく溜飲は下がったけれど。
指先で遊ばせているラベンダーの茎を、くるりと回した。
草原を騎士様の愛馬が食んでいる。空気を読めない幼な子は、遠慮なく野菜畑にまでついきて見知らぬ人だがそれなりに対処してもらえる大人に興味津々である。また、そんな小さな子供たちの露骨な視線にも騎士様は拒絶することなく受け入れてしまうため、なかなかに司祭様も声を荒げることができなかった。僕だってそう。自分より小さな子を押し退ける訳にもいかず、新人孤児たる僕は大人しく彼らの賑やかしを指をくわえて眺めるばかりで、あっという間に時間がきてしまった。
大気の青が少しずつ茜色に染まりかけた頃に、騎士様は帰るということになった。
「そんなあ」
えー、と不平不満を爆発させる孤児たちに僕の声も混じったが、騎士様は案外に子供慣れしていた。
「後日、お菓子を送るよう手配しておく。
苦手なものがあった場合、他の子に譲るんだぞ」
はぁい、と素直に返す孤児たちの狭間で一瞬喜んでしまった僕は慌てて頭を横に振って、不平不満を溜め込むことしかできない。トリモチみたいにくっ付きまわっていた腕白たちはようやく立ち去ったが、まさか夕食の時間一歩手前どきにまで騎士様に纏わりつくなんて。予想外だ。
結局、僕は大して騎士様に構ってもらえなかった。
(他の子たちばかり……)
正直涙目である。
「さて……そろそろ、城に帰らねばなりません。
名残り惜しいことですが」
愛馬の手綱を引っ張り、教会の出入口まで移動する騎士様に合わせ、僕と司祭様もお見送りに行くことになった。
司祭様、安堵の表情である。
「そうですか。いや、こちらとしても、
もう少し見ていただきたいところでしたが。
近衛騎士団の副団長ですものなあ。お忙しいのでしょう?
それなら仕方ありませんな、ははは」
しかし、騎士様は追い打ちをかける。
「また、来ますので」
これには司祭様も少々、おべんちゃらな口の形が引きつった。
(もしかして、騎士様気付いてる?)
明け透けというほどではないが、子供の僕でも分かりやすいほどの下手には出ていた。終始和やかな空気ではあったが、思うところがあったのかもしれない。
ゴホンとひとつ、咳をした騎士様。
腰を落とし、僕の為に、その目線を僕の背に合わせた。
「アリス」
ドキりとする。
眉根を寄せ、困惑した眼差しもそうだけど。
その目で見つめられると、どうにも恥ずかしい。
「すまなかったな、あまり話をしてやれないで」
「騎士様……」
ううん、と頭を横に振り、否定する。
すると、騎士様は明らかにほっとした笑みをしてみせた。取り繕うようにして、またぐりぐりと頭を掻き乱されるが。
(見捨てられていなかった。ちゃんと僕のことを意識してくれていた)
ちょっとだけ、落ち込み気味だった心が浮上する。
(騎士様の碧眼が、好きだ)
(いつまでも、この時間のままであればいいのに)
騎士様の背中越しに、浮雲が早く流れて行った。
強い風が吹き付けていき、茜色の空が世界を支配している。
(……僕を連れ去ってくれた人)
「ところで、サトゥーン伯爵様。
少々、お願いしたいことがありまして。
あぁ、いえ! どちらかというと、
ひとつ、御相談、といったものですが」
ただ黙っているばかりの大人ではない、訝しげに司祭様に顔を向ける騎士様へこれ幸いと早口で用件を言い始めた。僕もまた、視点を皺の寄った聖職者をまじまじと見詰める。
「お帰りの前になんと申し上げたら良いのやら、なんですが。
教会と合わせての、孤児院運営は、聖国からのお金も
当然ながら、アーディ王国からも数多の寄付をいただくことで、
どうにかその日の食事を整えることができました。
しかし、いくらあっても足りないと言う訳ではないのでしてね、
少しばかりは現実をお見知りおきいただいたという訳で、
えー、聖女様の御威光を知らしめるためにも、
心ばかりのものを頂戴したいと言う訳でして」
「……あぁ、そうだった。
手渡しそびれていた」
納得いったとばかりに騎士様は立ち上がり、懐からごそごそと何かを取り出した。
「これはアリスを保護してくれた礼と、
他の孤児たちへの援助も含まれている。
どうか、孤児院に役立ててもらいたい」
「これは、これは! まことにありがとうございます。
さすがはサトゥーン伯爵様だ、太っ腹ですな」
大人の話し合いというものは子供には良くわからないものだが、まるで牛や羊の買い付けに見える。
「……アリスはずいぶんと、サトゥーン伯爵に気に入られてますな」
「そうか? まぁ、アリスは可愛いからな」
「さようでございましょうとも」
ちら、と僕をちょっとばかり見てきた司祭様の目には、なんとも言いようのないものが含まれている気がして僕は少し、怖く思えた。
(……なんだろ)
たじろぐ僕から、司祭様は視線を外した。
「ま、よろしいでしょう。
わたくしめが、しっかりとアリスをお預かりいたしますので」
「ん、あぁ。よろしく頼む」
騎士様も若干不思議そうな表情をしてみせているが、気にも留めず。
「アリス。では、また息災でな」
「騎士様……」
「なぁに。すぐにまた会える。
……というか、そうしないと不味そうだしな」
「え?」
「いや、何でもない」
彼の持つ金色の、撫でつけたはずの髪が風で乱れた。
馬に乗り上げ、僕を見詰める碧眼。
このときばかりは、騎士様も僕だけをその瞳に映してくれていた。
「アリス。
……いずれ、戦乱が訪れるだろうが、
生き残るためにも、色々と覚えるんだぞ。
いいな?」
「騎士様……?」
強まってきた風により、赤色の強まる雲が飛ぶようにして騎士様の後ろを通り過ぎていく。金色の前髪がふわりと吹き上がり、と同時に騎士様は、ふ、と頬を緩め手綱を引き締める。
「ではな」
馬の尻尾を揺らし、元来た道を引き返す騎士の姿を僕は、いつまでも見送り続けた。
司祭様がやれやれ、といった態で教会へ入ったあとも。
ずっと、王都の方角を。