第三十三話 『魔剣使い』
どこまでも菲才な少年のお話。
アレクから話を聞いたアンジェは、半ば冗談のような気持ちで階下にエルを待ち伏せていた。
いくらなんでも話が突飛で急すぎる。
彼に限ってそんな無責任なことはしないだろう、と。
だが、二階から降りてきたエルの姿は、卒業の日のエルシリアを彷彿とさせた。
自分の少ない荷物を全てまとめてバッグに背負い、戦闘の準備も野宿の用意もシェイラから教わった通りの完璧な旅装。
それはまさしく、これから世界へ旅立つ準備を終えた卒業生の装いそのものだったのだ。
「……なにやってんの」
「ん、アンか。パーティの準備してたんじゃないのか?」
エルは一瞥もくれずに通り過ぎようとする。
アンジェは反射的にエルの腕を掴んだ。
「あなたの……あなたと、セレナのためのパーティよ。いい加減仲直りしなさいよ」
「セレナがいるなら考えないでもない。帰ってきたのか?」
「……」
「その様子だとお察しだな」
素っ気なく論点を切り返され、手を振り解かれる。
アンジェは唇を噛んだ。
素早く考えを巡らす。
この一週間で、アンジェは指揮する者としての考え方を身につけつつある。
問題点を洗い出し、解決への方法を見出す。
相手がエルでも同じことだ。
「待ってよ。何の説明も無しに行く気っ?」
「やることなくなったから出てく。それじゃダメか?」
「理由になってないわよ!」
ばたばたと居間の方から足音が聞こえた。
皆がアレクから話を聞いたのだろう。
だが、トゥエルは淀みない動作で支度を続ける。
ベルトを外して鞘に通し、剣の刃を軽く拭ってそこに収める。
関節プロテクターと左胸の革鎧の紐を締め、後頭部とうなじを頭巾で覆う。
「もう俺がいなくても何とかなるだろ」
「そんなわけないでしょ。今だって問題山積みで……エルが戻ってくれないと、みんなが困るのよ!」
「そりゃ、お前たちで解決するもんだろう?」
「なんで他人事みたいに言うの。エルも私たちの家族じゃない」
「あのなぁ……」
うんざりしたような声でエルは振り返った。
アンジェの後ろには、孤児院の子供全員が勢ぞろいしている。
パーティの準備の途中だったのか、シノンは輪っかにしたちり紙を繋げて鎖状にした手製の飾り付けを引きずっていた。
全員が困惑した表情だ。
エルは一人一人の顔を見回しながら、ゆっくりと告げる。
「はっきり言うが、もうおままごとは終わりだ。俺にとっては、もう時間の無駄でしかない」
「おままごと……って」
「俺がここで得られるものは、もう何もない」
絶句するアンジェに、エルは背中を向けた。
「もう足を引っ張られるのはごめんだ。自由にさせてくれ」
そして少年は、淡々と身支度を再開した。
アンジェは頭をフル回転させていた。
___もしこれが、普通の子供の、思いつきで実行した家出であれば、引き止める言葉などいくらでもあったろう。
一人で生きていけるのか。
お金はどう稼ぐのか。
住む所食べる物着る服はどうするのか。
問題点を洗い出し、解決への方法を見出す。
相手がエルでも同じことだ。
しかし、そういった『幼さ』に訴えるあらゆる言葉は、エルに何の説得力ももたらさないだろう。出立の動機が、まさしく幼さから来る突発的なものであるとしても。
だからこそ、唇を噛み、素早く考えを巡らして、結局何の答えも見つけ出せない。
アンジェは何もできない。
エルが準備を進めるのを黙って見ていることしかできない。
もっとも、彼を止める方法がない訳ではない。
だが___
「それともなんだ。力づくで止めてみるか?」
それはエルとて分かっていることだ。
再び振り返ったエルの目には、今まで見たことがない強い光があった。
その瞳はいつも余裕を失うことはなかった。
まるで皆を見守るような、柔らかい光を宿していた。
そこでアンジェは気付いた。
皆がその光に甘えていたのだと。
右手を剣の柄に添え、左手を掲げている。
エルの構えは、端的に言うと隙だらけにしか見えない。
わざと隙を見せている、というわけでもない。彼なりに精一杯隙を潰しているのだ。
その通り、彼には剣の才能などひとかけらもない。
だが___その隙を補うために、彼が生涯を懸けて積んできた研鑽も、ここにいる全員が知っている。
と、エルは眼光を弱めて、柔らかく笑った。
いつものように。
「……お世話になりました」
彼はぺこりと一礼し、玄関の扉を開けて出て行った。
誰も動かなかった。
なんとなく、起こるべくして起こった事態のようにも思えた。
まだ時間がある、大丈夫だと、そう思っていた。
そうやって互いが互いを落ち着かせて、余裕が残っているものだと集団心理的に思い込んでいたのだ。
「にーたん」
静寂を破ったのは小さな幼女の声だった。
何が起きたのかよく分かっていない顔で周りを見回す。
「にーたん、どこ行くん?」
「……」
誰も答えられなかった。
ただ確かなのは、もしここで彼を止めることができなければ、二度と会うことはないだろうということ。
そして、これはみんながなんとなく察していたことだが、エルを止めることができるのは一人だけ、ということ。
残念ながら、その唯一の希望はここにはいない。
アンジェは何も思いつかなかった。
思いつかないまま、それでも我に返るやエルを追いかけて玄関を飛び出す。
「エル待って___ッ!?」
瞬間。
ゴガガッと硬い石が砕けるような音が耳を衝いて、アンジェの足がびくりと止まった。
目の前に立つのは白い少女。
とんがった狼の耳に流線型の尻尾。
セレスティナだ。
そして……右手の方に、一人の少年が仰向けに転がって動かなくなっていた。
近くにベルトが千切れた荷物が転がっている。
トゥエル、なのだろうか。
狼少女は見るからにボロボロだった。
服は擦り切れ、尻尾は返り血を浴びてどす黒く染まり、髪の毛は乾いた汗で固まって干からびたようになっていた。
ひたすら狩りを続けて獲物を食らってきた猛獣のような雰囲気を全身にまとっている。
「立って」
孤児院など意にも介さない。
白き猛獣は、刃がこぼれて血糊塗れになり切れ味を失った剣を一振りし、倒れたままの少年に突きつけた。
***
一瞬、気配を感じた。
ほんの少しだけ首筋を撫でた悪寒。
___殺気。
(……くそ)
それは紛れもなく、俺に向けられたものだった。
防御も何もできないまま、全身を袋叩きにされた。
土魔法『硬質化』が間に合わなければ、腕と言わず足と言わず全身を粉砕されていたところだ。
実際、肋骨が数本逝った感覚がある。
一太刀から俺の首を狙った殺すつもりの一撃だった。
しかも、背後からだ。
孤児院の屋根の上に身を潜めてからの奇襲。
よくも凌いだものだと自分で自分を褒めたい。
まったく。
本当に……理不尽にも程がある。
「立って」
再び、狼少女が俺に言う。
喧嘩を売っているんだろうか。
そうなんだろうな。
セレナにとって、俺はもういらない存在ということだろう。
分かっている。
だから出て行ってやろうと、思って、こうして……。
なのに、いなくなるだけじゃ足りないのか。
殺したいほどに俺が憎いのか?
我慢してるじゃないか。
自分を押し殺してみんなを優先してるじゃないか。
お前たちの望むように動いてやってるだろう。
何が悪い?
これ以上俺に何をしろって言うんだ___!
俺の中で。
プツリと何かが切れる音がした。
「万象よ」
暴風を巻き起こす。
多重化して出力を増幅した上昇気流。余波で砂や小石が散弾銃のように撒き散らされる。
セレナを牽制しつつ、俺は空へ飛翔した。
二十メートルほど上空に滞空しながら、眼下で立ち上る砂煙に眼を凝らしてみる。
獣憑きの跳躍力は知っている。
クロウと戦った時を参考にすると五メートル弱。
人としては異常な数値だ。
が、安全マージンを考慮しても高度十メートルほどを飛べば脅威ではない。
まあどうせ、彼女はその壁を超えてしまうんだろうが。
あまりにも簡単に、当然に、そうあるべく。
それでこそ神に祝福されし天稟である。
むしろ、そうやって自由の利かない空中に飛び出してもらうのが狙いだ。
「___がぁあっ!!」
獣のような咆哮が砂煙に大穴を空ける。
旋風を巻き起こしながら、白い槍が俺を貫かんと閃光のように宙空を割く。人が実現し得る脚力を超えた跳躍だった。
ほらやっぱりだ。
相変わらず規格外なことで。
そうやって軽々と俺を超えて……馬鹿にしてるつもりか。
全てを水の泡に帰して、俺を笑うつもりか。
才能も、何もない、努力しかできないこの俺を。
「……」
言葉はない。
ただ、五重の魔法陣が激情を代弁する。
水の刃が大気を両断した。
高圧で放たれた水流は鉄すらも容易に斬り裂く致死性の凶器に姿を変える。
凄まじい轟音がセレナを巻き込み、孤児院の庭を薙ぎ払う。
文字通りセレナが死ぬかもしれない一撃だった。
だが後悔はない。
やってしまったというより、やってやったという感じが強い。
叫んで喚いて感情を発散する気もなかった。
ふつふつと煮えた熱が腹に渦巻いている。
「立て」
向こうが売ってきた喧嘩である。
完膚なきまでに叩きのめさなければ気が済まない。
返り討ちにしてやる。
どうせ孤児院は出て行くのだ。周りにどう思われようと知ったことか。
クズでもクソ野郎でも何とでも言え。
砂埃が晴れた。
セレナがそこに立っていた。
「……」
片腕がだらりと下がり、ゴム人形のように伸びている。
剣が半ばからひん曲がっていた。
脱臼でもしたか。
多重魔法を受けて生きている方が不思議だが。
しかし、俺が見ているのはそこではない。
セレナは___笑っていたのだ。
俺を見上げ、心底嬉しそうな顔で肩を震わせていた。
狂気すら滲んだ笑み。
「……ああそうかい」
この程度はダメージにもならないと。
なるほど。余裕なのか。
失礼してしまった。
出力を上げても問題ないな。
「そら」
五重の魔法陣。___を、四つ。
加速回路を用いて魔力回路の上流と下流を接続。
掃射。
原型の魔法としては、
下級一位火魔法『灼光』、
下級一位水魔法『噴浪』、
下級一位土魔法『排撃』、
下級一位風魔法『斥圧』、
どれも手のひらを起点に指向性を持たせて放つ魔法だ。
違うのは、質量と速度だけ。
それだけの違いが、非殺傷性の魔法を、激甚な破壊をもたらす大規模魔法へ変貌させる。
俺が出し得る、正真正銘の最大火力。
四属性の魔法が、赤と青と緑と茶の四色の閃光となって大地を穿つ。まるで色の違う巨大な杭を次々と打ち込んでいるかのような光景だった。
術導院のクラス遠征に同伴した際、暴風雨を作ったり山火事や土砂崩れを起こしたり、本来の俺の魔力では決して使えなかった大魔法を試す機会は幾度もあった。
不可能を可能にした二人の姉との努力の賜物。
これを見ても、食らっても、お前は俺を笑えるか。
セレナ。
___答えは白刃となって帰ってきた。
「……」
難なく弾き返す。
先ほどのように跳んで、直接斬りかかってくれば、魔法の餌食になるのは明白。だからこうして剣を投げることぐらいしかできないだろう。
それは分かっていた。
そして、それで終わらないのが彼女である。
「《風の精霊よ》!」
短縮詠唱を身につけてきたらしい。
少女は自らを暴風に乗せ、多重魔法の嵐を突っ切って一直線に突進する。
良い手本がずっと側にいたわけだし、そりゃ真似して然るべきだろう。
俺は直線飛行だけでも一年かかったが。
別に今更驚くことでもない。
「___《風の、精霊よ》!」
魔法陣を捕捉し直すと、セレナは横に暴風を射出し、俺の側面に回り込んだ。
見様見真似にしては器用な動きだ。
だが、まだ荒い。
地上のような変幻自在の攻めはできていない。
空中戦の利は、俺にある。
「っと」
セレナの爪攻撃を剣で受け流す。
さらに、超小規模の竜巻で体を包み込み、独楽のようにトルクを利用して体を旋回。慣性を乗せた蹴りを叩き込む。
直線的な動きしかできない彼女は、自由落下を和らげる逆噴射など、柔軟な対応力に欠ける。
この高さから叩き落とせば瀕死だろう。
そしてそのまま、多重魔法の射程に縛り付ける。
それで終わり___
「___っお!?」
鳩尾にめり込んだ俺の足ががっしと掴まれた。
狼少女の燃え盛る眼光が俺を射抜く。
急所への攻撃をまともに受けて、いや、わざと受けたのか。
俺を逃さないために、捕らえるために、そして引きずり落とすために。
「《風の精霊よ》」
「く……!?」
三度の詠唱。
俺も同じく風魔法を使って大気を制御しようとするが、余りに暴力的な突風が俺の魔力ごと喰らい尽くす。
一切のブレーキも無しに、まっすぐ真下へ。
俺とセレナは一緒くたになって地面に突っ込んだ。




