第二十九話 涙を越えて
セレナに引き続き、アンジェ視点に入ります。
アンジェは女子部屋で泣いていた。
何もできなかった。
昼食の片付けにまごまごとし、実戦訓練の班分けでみんなを混乱させ、自分の勝手な判断で年長組まで振り回した。
間延びした時間を取り戻すこともできず、やるべきことの半分も終わっていない。
当日になっていきなり院長の代わりをやれというのも中々理不尽な話だが、子供ながら、エルにできるなら自分にもできると思っていただけに無力感は痛烈だった。
無論、シェイラやトゥエルとて、何の段取りも組まずに孤児院をコントロールできるわけはないのだが、彼女には知る由もない。
___アンジェは、自信がほしかった。
自分には、エルやセレナにも比肩する力があるのだと。
誰にも負けないほどの努力を積んできたつもりだし、力も確かに伸びているはずだった。
しかし、それが自信に繋がることはなかった。
トゥエルには、勝てない。
アンジェは今日、そう思ってしまった。
彼は常にアンジェの上を行く。
知識や技術___その習得速度や練度まで、アンジェが覚えたと思った頃には一歩どころか百歩も二百歩も先を行っていた。
反面、その全ての『才能』においては、エルは常にアンジェの下を行っていたこともあり、派生的な使い道の発想などを別にすれば彼女はエルに負け得ぬスペックに成長している。
問題なのは、既にエルが当たり前のように使い熟していたものをアンジェが真似したところで、それを褒めたり、妬んだりする人がほとんどいなかったということだ。
世間一般的に見ると、魔法に関しては、今の孤児院でアンジェが一番だ。火、水、風の中級までをマスターし、下級魔法はほぼ全て短縮詠唱で発動でき、放散置換や加速回路の技術にも通ずる。
近距離戦でも黒水流の四段、そこらの剣士なら一人で相手取れる技量に達している。勉学にいたってはユークリッド語とコノン語の二ヶ国語を話せる上に、足し引き掛け算の暗算はエルより正答率が高い。割り算は消えて無くなれ思っているが。
レイチェルのようにド派手な魔法を使えるわけではない。
トミーのように卓越した剣の腕があるわけでもない。
が、この時期に習得したスキルの数を見れば、歴代卒業メンバーで最強のダンに匹敵するレベルだ。
いま卒業したって世の中で通ずるくらいだというのに、これでもまだ不十分と言われたらシェイラが半べそになる。今でさえ相当に厳しく指導しているというのに、まだ足りないというのだから。
アンジェがここまで能力を伸ばしたのは、ひとえに努力のおかげだ。
彼女は決して、才能豊かではない。
ただ、エルのそれ以上に、やればやった分だけ自分の力が伸びる傾向にあった。
伸びてはいるのに、手応えが掴めない。
その矛盾は加速度的にアンジェの心を削っていた。
何のために努力しているのか、その目的を度々見失う。
アンジェはきっかけを欲していた。
自分という存在に、自信を持てるようなきっかけを。
今日与えられた副院長というキャストは、そのきっかけとしてはうってつけな気がした。
唐突に、しかも相当に難しい役どころを吹っかけられたが、この逆境を跳ね返せれば確実に自分の力の証明になる。
今までの努力が無駄ではなかったと、思えるようになる。
そのはずだった。
それがどうだ。
みんなにまともな指示も出せず、混乱させただけ、挙句にセレナとエルを仲違いさせてしまった。
何もできないどころか事態を悪化させる一方だった。
「アンジェ姉ちゃん、大丈夫ー?」
「……ぶー?」
「ふ、ぅ……ん、大丈夫よ。ありがとね……」
そろりそろりとドアを開け、隙間からひょっこり顔を出したのはアレクとイリスだった。
努めて平静を装おうとするが、鼻が鳴ってしまう。
アンジェは両手で顔を覆って俯いた。
(……はあ、悔しい、恥ずかしい。こんなの自分らしくない)
がんばってきたという自負はある。
それなのに、報われない。心が折れそうだった。
(こんな時……どうすればいいのか、分かんないよ、お姉ちゃん)
不意に、アンジェの頭を小さな手が撫でた。
イリスの小さな声が聞こえる。
「……いいこ、いいこ」
セレナが、幼児をあやすときに言う言葉だった。
甘えん坊のイリスが、見様見真似で自分を慰めようとしてくれている。
アンジェは必死で嗚咽を噛み殺す。
___アンジェは、自分と他を比較して、敗北を経験し、悔しさをバネに自らを高めるというタイプではない。
みんなと仲良く平穏無事に、それだけで良かった。
食後のおしゃべりが大好きだった。稽古の後の水浴びで遊ぶのが楽しみだった。夜に部屋を抜け出して男子の部屋を覗き、その寝相を見て(なぜかエルは毎日直立不動だった)明日の運勢を占ったりもした。週末は、日向ぼっこしながら、セレナの尻尾を抱いて昼寝するのが一番の幸せだった。
こんな日々がいつまでも続いてくれればいい、と思った。
休憩時間もひたすらに剣を振り、ひたすらに本を読むエルは、何と言うか、生き急いでいるように見えた。
そんなアンジェの中で『エルに対する競争心』が明確に現れたのは、二年前の夜の屋根の上、エルとエルシリアが話していたことを盗み聞きした時だ。
いや、当時は『競争心』という形ではなかった。
嫉妬……というのも少し違う。
どちらかといえば、羨望だろうか。
エルシリアに大事にされているエルが、羨ましかった。
私もあんな風に大事にされたい、という思いがある種のきっかけだったのだろう。
とりわけ、アンジェはエルシリアのことが一番好きだった。
初めて孤児院に来たとき、今まで経験したことがないような規則正しい生活に戸惑う中、色々と教えてくれたのがエルシリアだ。
厳しいことも言われたけれど、それも含めて、アンジェにとってエルシー姉はかけがえのない存在だった。
それを、奪われた。
そう感じたのだ___トゥエルとエルシリア、そしてレイチェルが、三人で何やら魔法の研究を始めたとき。
日を追うごとに、エルシリアと話せる時間は減り、三人が書庫に引き篭る時間が長くなった。
自分がまったく大事にされていないと考え至った時、長年の相棒だったランドリザードのライザーが死んでしまったのと同じくらい大きなショックを受けた。
この時初めて、アンジェは『エルに負けたくない』という思いを抱くようになった。
アンジェは本気で努力を積み始めた。
日頃からエルがどれほど頑張っているかは知っていたが、この時はまだ、追いつけないなどとは露程も思っていなかった。
ここに一つ、誤算というか、油断があった。
エルのやっていることがそれほど凄いことのように見えなかったことだ。
さして苦労せず、自分にもできるようになるだろう。
そう時間もかからず、姉は自分のもとに戻ってくるだろう。
当初はそんな風に考えていた。
それが、血の滲むような努力の継続と知識の積層から身につけたものであると分かったのは、エルシリアが卒業したときだった。
自分なりに全力で努力したつもりだった。
それなのに、まるで追いつけなかった。
エルシリアは、そのままアンジェの前から姿を消した。
アンジェは一人になった。
路頭に迷った子供のような孤独感を、残り火のように燃え続ける対抗心で塗り潰してきたのだ。
ガチャリ、と再びドアの開く音がした。
気配で誰が来たのかは分かったが、アンジェは肩を震わせたまま顔を上げようとはしない。
「アン、大丈夫?」
ミシェルの気遣わしげな声。
同情されているような気がして、腹の底から『出てって』と叫びそうになるが、堪える。
側にイリスがいる。怖がらせちゃダメだ。
ひっく、と喉の奥が鳴りそうになるのを抑えながら、アンジェはふーっと息を吐き、無理やりに呼吸を整えた。
「もう、無理」
「……」
「ダメなの、私。何にも分かんない。わ、かんなくなっちゃった」
肩を揺らして笑ってみせる。
声の芯が震える。抑えられない。
泣き声を漏らすまいと、アンジェは膝に顔を押し付けた。
これ以上一言も喋れそうになかった。
すとん、と小柄な少女が隣に座る気配がした。
「エルって、凄いよねぇ」
イリスもアレクも、息を詰めたように押し黙っていた。
階下からの雲間を通したような声が背景を踊る。
「私より三歳も下なのに、立派にリーダーやってるし。剣も魔法も勉強も、毎日毎日、誰よりも頑張った上で、新しい魔法なんか開発しちゃってるしねー」
「……」
「だから、最初……シェイラ母さんから、院長代理やってくれないかって言われた時も、断ったんだ。自信なかったから」
アンジェは鼻を鳴らしながら、少し顔を上げた。
初めて聞く話だ。
ちらりとミシェルの方を窺ってみる。
ミシェルは自分の髪を弄っていた。
「エルには話してないんだけどね。自分にはとても務まらないって思って、エルにやらせてみたらどうかって答えたの」
「……ミミ姉、いつもパーティリーダー、やってるのに?」
「メンバー数人をまとめるのとじゃ話が全然違うよ。日程管理とか班分けとか、授業のカリキュラムとか、孤児院全体を把握しながら動くなんて無理無理。まして人に教えるなんてね」
「でも、エルは……」
「やってるから凄いよね、ホントに。でも、エルも最初からできたわけじゃないの。何回も何回も私に相談してきたんだー」
ミシェルの呑気な声色は、棘を逆立てたアンジェの意識の中にもするりと抵抗なく入り込んでいく。
心の中に吹き荒れていた嵐が少しだけ収まる。
頭が冷えて、普段に近い冷静な思考が戻ってくる。
「今なら分かるよ。最初から何でもできる人なんていない。周りに相談したり、自分なりに考えたり迷ったりしながら、できるようになって行くんだって。それが努力っていうものなんだって」
「……」
「エルは凄いよ、確かに。だけど、それと同じくらいアンも凄いと思う。何度壁にぶつかったって乗り越えてきたじゃんさー。それは当たり前にできることじゃない」
「……そんなこと、ない。ミミ姉だって……」
「いーや、私にはアンみたいに鬼気迫る勢いで机に嚙りつける気概はないよん」
そんなことを言われたのは、初めてだ。
自分が積み重ねてきたものを肯定する言葉。
しかしやはり、エルに比べたら……と考え出すと止まらない。
「でも、やっぱり……分かんないよ。どうやって乗り越えればいいの? 副院長なんて、私には……」
「副院長になっても、やることは変わらないよ。分からなかったら聞けばいいし、間違えたらやり直せばいい。悩み事があれば何でも相談に乗るよ。苦しかったら我慢しなくていいの。ね?」
そして、ミシェルはアンジェの肩を抱いた。
いつもそれほど口数が多い方ではないミシェルにしては、相当に雄弁な語り口であった。呼吸で肩が大きく上下し、心臓がドクドクと脈打っているのが分かる。
泣いていい。
そう言われて、しかし込み上げてくるのは涙ではなく、感謝の念だった。
背負っていた重荷が軽くなった気がした。
いや違う。ミシェルが一緒に背負ってくれているからだ。
気持ちが楽になり、不安定で崩れそうだった足場が固まった。
ふと顔を上げてみると、イリスが布切れを押し付けてきた。
……これで涙と鼻水を拭えということらしい。
「ふへっ。……ありがと、ね」
変な笑い声を漏らしながら、アンジェは目を乱暴に擦り、鼻水を思い切りかんだ。
後ろ向きな考えもまとめてくしゃくしゃに丸める。
意識を切り替える。
「ミミ姉。早速だけど、私、何からやればいい?」
「えぇー……ほぼ丸投げじゃん、それ」
「仕方ないでしょ! 自分で考えるにも取っ掛かりが必要なのっ」
真っ赤に充血した目を吊り上げて、アンジェは言い募った。
ミシェルは口元を緩め、腕組みして頭を左右に揺らす。
「んーと。エルはね、やっぱりみんなのことを知らないとどうにもならないって言ってたかな。誰に何を教えるか、っていうのもそうだけど……なんだっけ、基盤?みたいなのが必要なんだって」
「ふーん基盤かー。相変わらず意味分からんねー」
「ねー。やれそうなことと言えば……昨日とか、新しくクロウくん来たからさー、いつもの歓迎会開いて、クロウくんのことをもっとよく知る機会を設けたらどうかな。今の空気だとぎくしゃくしててやりにくいだろうし」
「歓迎会か。なるほど……でも、今、セレナどっか行っちゃってるから、そっちもどうにかしないと」
「そういう仕事は我ら年長組に押し付けていいのだよー。なんでもかんでも一人で背負うなってのはそういうこと」
「そっか……うん、そうだったね。えへ」
アンジェとミシェルはにへらと笑い合った。
その後、滅多に能動的行動を見せないイリスがアンジェの布切れを奪い取って洗濯に行き、ごく自然な流れでその場から退散しようとしたアレクは勝手に女子部屋に入った挙句にまじまじと泣き顔を拝んでくれた罰で尻をキツくシバかれた。
今までの卒業生や、ミシェル、トミー、クレイ、ローランドやウォルターもそれぞれの悩みや苦難を乗り越えています。
一人一人のエピソードを書いてみたいという思いも強くありますが、物語のテンポが悪くなりそうなので割愛。
幕間とかで書けたらいいな。
……ぶっちゃけ今代孤児院メンバーの悩みはほぼ全部エルが原因です。




