第二十五話 無心にもなりきれず
ひたすら仕事に従事していたら夜になっていた。
苦しい、早く終われ、とか考えながら過ごす時間はとてつもなく長く感じるものだ。
こうして無心で取り組むか、夢中でのめり込むか、幸せな気分でいる時間は、あっという間に過ぎ去る。
「……」
今日は曇りで、月は顔を出していない。
暗夜、俺は屋根の上で瞑想していた___水平に伸ばした両腕に重しを乗せて、流脈機関を維持し、風で体を浮かしながら。
ここまで負荷をかけたトレーニングは久しぶりだ。
発汗がやばくなってきたので上着は脱いだが、俺も成長したか、まだまだ余裕がある。
さらに負荷をかけるため、水の輪と火の玉を作り、輪の中に玉を通す。一回成功するごとに輪を縮めて、玉を大きくしてみる。
……キツイ、これ超キツイ。
階下から、子供たちの笑い声が聞こえてくる。
午後の剣術稽古も終わり、宿題のことも忘れて楽しくおしゃべりしているのだろう。ついでに風を操作して聞き耳を立てる。
「___いや、セレス……セレナとは幼なじみだけど、そんな一緒に風呂入ったりする仲じゃ___」
ガコガコン!という重い音がして、クロウの声が途切れた。
体勢が崩れて、重しが屋根に落ちてしまった音だ。
風の制御ミスった。
ふう、やれやれ負荷を掛けすぎたようだ。
俺は屋根に着地し、仰向けに倒れた。
天を見上げながら荒く呼吸する。
筋肉の疲労、魔力制御の疲労、そして精神的な疲労。混沌とした疲れがごちゃ混ぜになって体の中を渦巻いている。
頭も体も心も、節々がどろどろとした脱力感に埋まっていく。
(あぁー……これは割と、重症だな)
思い起こすのは、獣憑きの少年少女___二人のやり取りを見ただけで、これほど心を掻き回されるとは。
まったくもって無様である。
肉体と精神の相違は、ああいう心に直接影響する場面でとりわけ大きく表出する。
そして、否応なく思い知らされた。
唐突だが独白しよう。
女子のパンツだとか裸だとかで興奮、欲情する、大人としての俺。
それはいつしか、精神が身につけた仮面になっていた。
生来自分はそういう人間だと思っていたものが、いつしか自分を覆い隠すための仮面になった。
良い年した大人の俺が、十歳も年下の異性を真面目に好きになるとか無い無い、ありえない___俺がセレナを目で追ってしまうのは、単にロリコンだからなのだと。
そんな過剰で派手な嘘で塗り固めて隠したかったのは、その下に潜んでいた、現実の自分だったのだ。
それを認めたくなくて、俺は無意識のうちに仮面を被って、見て見ぬふりをした。
とまあこんなざまなので、いつからだとか、何をきっかけにだとか、分かるわけがない。
しかしまあ、ある意味では自然な流れと言えよう。
肉体の方はそろそろ思春期を迎えようという時期である。
その影響は予想以上に強烈で、未成熟な肉体を冷静な思考で制御していた今までのようには行かなくなった、ということだろう。
いっそ受け入れた方が楽だとは思う。
思うが、
(……簡単にそうなれたら苦労しない、か)
歳を重ねるにつれ、精神は縮まる。
心的な視野が狭窄する。
理論的な考え方ができるために、かえって余計そこに固執しようとするのだ。
実際、俺も院長代理の仕事を引き受けてから、どうにも思考から柔軟性が失われてきた気がしなくもない。
そして現に、精神は頑なに仮面を脱ぎ捨てようとはせず、自分を偽って肉体に嘘をつく。
___いやはや、面倒なことになった。
ややこしく聞こえたかもしれないが、こんな俺に言うべき言葉があるとすれば『素直になれ』ってだけである。
仮面を全部剥ぎ取って告白でも何でもすりゃいいのだ。
それができないから、というか、それで傷付くのが怖いのだろうが、精神の方が意固地に仮面を脱ごうとしないもんだから、こんなうじうじ状態になっているわけで……。
ああもう厄介すぎる。
情緒不安定すぎて悶える。
これ転生して以来の最大の難題かもしれない。
「ぬあーっ」
この悶々とした状態から脱する一番良い方法は、運動だ。
それも相当にキツイ負荷をかけたものだ。
俺はブリッジから逆立ち状態になり、そのまま倒立腕立て伏せを始める。
できるようになったらカッコ良いなというロマンから、いつの間にか本当にできるようになった。
鍛えてる感じがしないのであまりやらないが。
しかしその時、ぶっ続けでトレーニングを行って酷使した筋肉がついに悲鳴を上げた。十回を数えたところで腕が体を持ち上げられなくなり、下半身から頽れてV字開脚みたいな格好になった。
屋根の傾斜に負けて転がり落ちそうになって焦った。
柔軟体操を続けてきたので、割と無茶に見えるこんな体勢だって全然余裕だ。
と、何の前触れもなく、いきなり目の前に逆さまの狼少女の顔がひょっこり現れた。
「……」
「……」
そのまま数秒間、互いに何を言うでもなく見つめ合う。
一応、俺も剣士の端くれである。
必要な技能の訓練は、一通り受けてきた。
しかしながら、視界に入るまで気付けないとか、気配察知という技能の存在意義が問われる。
そこそこ訓練積んだつもりなのに……。
とりあえず俺は足を下ろして仰向けになった。
「おはよう」
「……今、夜だよ?」
「うん知ってる」
汗だくになった額を拭う。
さっきまでトレーニングをしていたわけだからな。
そう、別に、好きな女の子に超恥ずかしい格好見られて焦ってるわけではないのだ。
「またトレーニングしてたの?」
「うん、まあ……」
「どれくらい?」
「……あれ、今何時?」
「十一時」
「もうそんな時間か……ざっと三時間くらいだな」
逆に言うと、三時間も屋根の上で一人悶絶していたということでもある。
我ながら呆れるというか何というか。
恥ずかしくてセレナの顔が見れなかった。
「みんなは寝たか?」
「まだ下でおしゃべりしてる」
「あいつら……明日絞ってやる」
寝坊してきた奴には宿題を倍にしてプレゼントだ。
ちょうど連立方程式の課題が余分に余っていたところだし。
トミー……達者でな。
もっとも、俺も他人事ではない。
院長代理として示しがつくような振る舞いが見せねばならない。寝坊なんてもってのほかだ。
実のところ、今日ももっと早く寝るつもりだったのだが。
さっさと水浴びを済ませて寝なければ。
「セレナも早く寝ろよ。おやすみ」
「……」
「ちょい……セレナさん?」
そうは思えど、屋根から下に降りる階段はセレナが立ち塞がって通れない。近付いても退いてくれなかった。
てか、なんか……うわ待て、ちょっと待たれい。
なんで泣いてんの!?
「せ、セレナ? どうした?」
「……エルは」
「えっと俺? 俺が何?」
セレナは、ギロリと鋭い眼光で俺を睨みつけてきた。
俺は少し怯んで後ずさる。
その潤んだ赤い瞳には、今にも涙がこぼれ落ちそうな危うさと、殺気にすら見える剣呑な光が同居していた。
泣いているのか怒っているのか分からない。
ひたすらおろおろする俺に、セレナは低い声で言った。
「エルは、弱いままで、いい」
……。
理解が追いつかずに呆然とする。
その間に、セレナは踵を返して俺の前から消えていた。
***
翌日、俺は何とか定刻に起床できた。
色々考えてたら全然寝付けなくて超焦った。
しかも妙な夢を見たのか(内容は忘れた)目覚めが悪く、危うく二度寝するところだった。
そんな俺の尻を引っ叩いたのは、庭から響く剣戟の音だった。
「……せっ!」
「ぜァッ!」
セレナとクロウが、とんでもない速度で打ち合っていた。
木刀同士がぶつかり合う音ではなかった。
コンクリートを砕く掘削機みたいな音だった。
昨夜のアレはこういう意味だったのか、と俺は寝不足の頭で納得する。
そりゃあ退屈だったろう。
俺みたいなトロい剣士の相手なんてやってられない。
魔法を使った姑息な手しか使ってこない俺との戦いは、さぞかしストレスが溜まっていたに違いない。
だからクロウを選んだ。
よろしいことだ。
何かあると言えば俺が寂しくなるだけだ。
そんなことセレナは気にも留めないのだろうな。
留めてほしいなんて思ってないもん。
「……」
そう、それだけならよかった。
より近しい実力者と戦いたくなるのも当然だ。
ただ『弱いままでいい』という言葉が致命的だった。
それは、俺のこれまでの努力と、これからの先行きを、全て否定する言葉だった。
木刀を握り締める。
必要ないのに、いつものクセで取りに行ってしまった木刀。
何度もへし折られて、俺が使う木刀としては三代目となる。
初代と二代目は、何の意味もなく散ったのか?
この三代目に刻まれた、傷も、凹みも、何もかも、意味はないのだろうか?
間違いではないかもしれない。
ゲームで言うなら、トゥエル・エルフィアというキャラクターは初期から大量の基本スキルを獲得できる代わり、基礎ステータス値と成長率が極端に低く設定された、言わば地雷キャラだ。
……自分で言ってて泣きたくなるが、実際、ゲームの魔法剣士はハズレ職の典型だった。
だから弱いままでいろ、と。
お前はどう足掻いたって強くなれないのだから諦めろと。
言われても納得できる道理はなかった。
そのはずだった。
___ただ、一つだけ。
言った相手がセレナだった。
それだけで話は百八十度変わってしまった。
木刀が床に落ちた。
俺は目的を失い、気力を失った。
…。
………。
うん、そうだな。
良い転機だと考えよう。
積み重ねてきた下地もそろそろ完成してきた頃合いだ。
ならば次は、それをどう活かすかを試さなければ。
クロウにやったような実験___ただし今度は、ちゃんと許可を得た上での実戦。
前々から考えていたことだ。
近く会いに行こうと思っていたところだし。
明日から……いや今日からにしよう。
早い方がいいな。
事前に連絡もしてないし、向こうの予定が空いているかどうかは分からないが、多分大丈夫だろう。
ルクと年長組には色々と話しておかなければなるまい。
俺の勝手なわがままで迷惑をかけるが、これまで相応に頑張ってきた。
少しくらいみんなにも負担してもらおう。
そうと決まれば、今からでも行動を開始せねば。
___こうして空元気を振り絞るのが精一杯な中で、
一つだけ、引っかかるものがあった。
あの涙。
悲しみと怒りの入り混じった目。
セレナがあんな複雑な表情をするのを見たのは初めてだ。
あれは一体、どういう意味だったのだろうか……?
***
今日の昼食当番はウォルターだった。
怪獣のような外見とは裏腹に、繊細な味付けの為されたスープがこれまた絶品だ。
もっとも、調味料なんて贅沢な物はうちには塩しかない。
つまり繊細な味付け=絶妙な塩加減ってことなるが、たったそれだけのことがどれほど大切なのか、アレクとかシノンとかの若い奴らには分からんのです。
あいつらの料理は塩っ辛くて食えたものではない。
目分量ったって限度があるだろうに、袋ごとぶち込む馬鹿がいるだろうか。
今日は実戦メンバーも昼に帰ってきたので、食卓はひしめき合う子供たちの乱戦じみた様相を呈していた。
俺は少し急いでいたので、騒がしい食事の間に怒鳴るようにして連絡事項を伝えることにする。
「はいはい、ちょーっとお話します! 聞くも聞かないも勝手にしてください! 午後は俺いないんでどうなっても知りません!」
年長組から徐々に話が止まっていく。
最後まで騒がしかったアレクの頭をルクが引っ叩き、みんなの顔が俺の方を向いた。
「ちっとばかし早いですが、明日から時間割を後期に変更します」
孤児院での授業カリキュラムは、シェイラが決めたもので、前期と後期に分かれている。俺が代理となってからそこに多少の変更が加えられたが、根幹の部分は変わっていない。
前期、今日まで続けてきた時間割は、俺が年中組、ルクが年長組を受け持っていた。
午前中の合同稽古が終えて、年中組は俺の授業を受ける。ルクは年長組を連れて実戦に行く。
昼ご飯を食べ、今度は年中組が実戦訓練を行う、リーダーは俺が務める。年長組は課題をこなす、ルクがそれを監督する。
だいたいこんな感じの流れである。
各年代の技術と知識が一定域に達したら、カリキュラムを後期に移し、より現実に即した授業と実戦に取り組む。
具体的に変わる点は一つ。
俺が『授業組』を、ルクが『実戦組』を受け持つようになる。
年代別のグループから実力主義のグループに変わるのだ。
「これから班の入れ替わりが多くなります。分かってると思うけど俺は一度しか言わない。話を聞いて、覚えて、自分のことは自分で把握するように」
「「「「「はーい」」」」」
「あともう一つ。さっき言いましたが、今日以降の午後、俺は用があるので、遅くまで帰りません」
この件については、昼前に年長組に話を通してある。
実質的に孤児院をまとめるのは年長の、特にクレイとミシェルの二人に任せることにした。
嫌そうな顔をされたが無理を言った。
が、それとは別の役割として一人。
副院長を任命しようということになった。
「なのでその間、副院長に孤児院を取りまとめてもらいます」
多人数でまとめにかかるよりは、声の大きい子が一人先頭に出た方がやりやすい。
今朝のミーティングでそう提案したルクのアイデアを、ミシェルが副院長という役割として整えたものだ。
年長組を閣僚とするなら、副院長は政治家か。
「その副院長って誰?」
そう聞いてきたのはアンジェだった。
これまた奇遇というか何というか。
「アンジェです」
「……へっ!? わたっ、私!?」
「以上です。では俺もう行くので」
「ちょっ待てぇいコラ!」
伝えるべきことは全部伝えたので早々に離脱しようとしたところが、アンジェのヘッドロックで身動きが取れなくなった。
痛い痛い……マジで痛い。く、首がもげる。
「なんでいきなり!? 私エルの代わりなんてできないわよ!」
「よ、良かったですね。言われたのが今で。ぐえっ」
「どういう意味よっ!?」
アンジェの腕にタップアウトすると、拘束が少し緩んだ。
息を整え、俺は真面目な顔で彼女を見上げる。
「今、実戦訓練では俺がリーダーを務めてるけど、いきなり事故で俺が死んだとき、アンはどうする?」
「どうする……って……まさか」
「そういうことだ。アンには副リーダーになってもらう予定」
他のみんなには聞こえないよう、小声でそう告げる。
パーティでの戦闘では、リーダーの意志が絶対だ。
命令系統が一本化されることにより、状況に応じて迅速な対応が可能になるわけだが、付随するデメリットとして、リーダーに責任が一極化してしまう点がある。
それを回避するための副リーダーである。
リーダーに信頼できる振る舞いが期待できない状況下において、代わりにパーティ全体の判断と指示を担う者。
クレイやミシェルの年代の次に卒業するのは俺たちだ。
メンバーとしては、俺とセレナ、そしてアンジェ___クロウが孤児院に住み続けることになったら彼も入るか。
自惚れでも何でもなく、メンツ的に俺かアンジェが指揮を執るのが最適だ。なのでアンジェには、今のうちから指揮に慣れてほしいと考えていたのだ。
「俺じゃなくてアンがリーダーになるかもしれんしな」
「……それはないわよ」
「さて、どうかなぁ」
心をぽっきり折られた状態なだけに自信が持てない。
ともあれ、アンジェなら数日で要領を得るだろう。バックアップには頼れる年長組もいる。
俺がいなくても何とかするはずだ。
ていうかいつも俺に任せっぱなしなのが納得いかないくらいには能力がある子だし、この程度の無茶ぶりは許容して頂きたい。
「何かあったら、俺術導院にいるから」
「術導院って……これから? 何しに行くの?」
「まあ色々な」
言葉を濁しつつアンジェから逃れて、俺は荷物を背負った。
「じゃ、お先に行ってきます」
誰に向かって言うでもなくそう言って、俺は逃げるように孤児院を後にした。
か、書けたので投稿。
プロットが消滅してしまったのが痛い……。




