第十九話 顛末と、心の変遷
トゥエルとレイチェルが崖から落ちた後。
エルシリアたちは街に戻り、二手に分かれていた。
まずミシェル、クレイ、アンジェリカ。
三人は孤児院へ帰投した。体力的に限界のアンジェをミシェルが背負い、クレイが道中魔物を薙ぎ倒す。シェイラに経緯を報告して人員を補充、街へとんぼ返りする。アンジェはここで離脱。
エルシリア、トミー、セレナは術導院に留まり、あるパーティの帰投を待っていた。
あるパーティとはすなわち、ダンたち最年長組のパーティのことだ。
巣立ちの準備を着々と進めている、孤児院の最大戦力。
術導院で森の異常を伝えた後、ミシェルたちが帰ってくるまで、エルシリアたちは最年長組を待ち続けたのだ。
術導院側は、孤児院の子供たちの高い依頼達成率を非常に重要視していた。
院長は抜け目のない男で、この話を聞き、ダンたちのパーティを呼び出すよう手配した。恩を売るという打算的な考えや、良き仕事相手の窮地を救って信頼関係を厚くするという狙いもあるが、実は今、術導院の一部で、シェイラが手塩にかけて育てた優秀な子供を引き抜こうという動きがあるのだった。
すでにダンに話を持ちかけ、彼も少し興味を示している。
術導院としては、信頼性を強める良い機会となったわけだ。
そんな裏事情もあって、街の東、都へ通ずる道にて魔物の討伐に勤しんでいたダンのパーティは、すぐに術導院へ戻ってくることができたのだった。
術導院に合流した一行は、エルシリアの指揮のもと、森に再突入した。索敵と同時に討伐を行うペース無視の強行軍である。
かなり迅速な対応で捜索に着手した一行だったが、ここまで実に一時間が経過していた。
エルとレイチェルがどうなったか分からない。
もし……レイチェルが何らかの傷を負い、エルを守れない状態であった場合、状況は極めて絶望的だ。
まして彼女は、転落の直前、フォレストリザードの奇襲を受けて頭を強く打っている。
レイチェルが戦闘不能になっている可能性は高かった。
トゥエルは頭のいい子供だが、まだ七歳である。
剣も魔法も圧倒的に未熟な子供が魔獣級の群れの中、たった一人で策を巡らしたところで数分も保つまい。
その奇襲の件に加え、待ち伏せされていたことなども含め、此度のトカゲの群れは何かがおかしいとエルシリアは危惧していた。
焦りが、捜索を行うパーティの脚を一層速めさせた。
ただ、もしレイチェルが無事であるなら、シェイラに教えられた遭難時の対処法を速やかに実行しているはずだ。
エルの年齢で教えられることではないが、危機意識の塊のような少年のことだ、足手まといにはならないだろうと皆は努めて希望的に考えるようにしていた。
一時間ほどで、エルとレイチェルが落ちた崖の上に到着。
そこからパーティは左右二手に分かれ、下へ向かう道を探した。
右方、エルシリア、セレナ、ハリエット、ロルフはすぐに崖下へ降れそうな場所を見つけた。
土魔法で足場を補強しながら崖を下っていく。
三十分ほど探したものの見つからず、パーティ全体に疲労の色も見えてきた頃に___セレナの耳がそれを捉えた。
木が倒れる音だ。
次いで、大量の剣が雨あられと地面に突き刺さるような轟音。
彼女たちはその場に急行した。
そしてついに見つけた。
死屍累々と広がる、死んだ魔物たちの山。
満身創痍で倒れ伏す少年と、巨大な白い猪の魔物。
直後、その白い猪が錐揉み回転しながら吹き飛んだ。
反対側から崖を下りてきたパーティの片割れがそこにいた。猪を吹き飛ばしたのはダンの剣だった。
風の魔法剣『蒼龍』。
蒼風流七の太刀を体得した者が使うことを許される技だ。
土魔法で皮膚を固めた猪にとっては急所に等しい弱点属性の猛撃で、白い猪は崖に叩きつけられ、動かなくなった。
手負いとはいえ、仙獣級を一撃必殺。
この二年でダンがどのくらい強く成長したのかは、今はさておくとしよう。
エルとレイチェルは救出され、治療院に搬送された。
レイチェルは両足を骨折していた他は側頭部に巨大なたんこぶができただけで、適切な処置もされていたため大事には至らなかったが、問題はエルの方だ。
肋骨五本にひびがあった。腕の裂傷はトカゲの鱗で傷付いたものらしく、酷く膿んでいた。手のひらの皮はべろりと剥がれ、細かい打撲傷や擦り傷を挙げればきりがない。
心身共に疲労の蓄積が凄まじく、昼夜問わず手足の筋肉が何度もつった。足の甲に疲労骨折のような痛みがあり、エルは心底辛そうな顔で『レイ姉のせいですよ責任取ってください、具体的には今日の夜ベッドで添い寝してください』と弱音を吐くほどだった。
髪を逆立てたセレナによって阻止され、レイチェルの貞操は無事守られることとなったのだが。
魔力切れによるものと思しき頭痛は割と軽症だった。これはエル自身の魔力総量が少なかったためだ。
失われた魔力の回復速度は、種族ごとの違いを除けば、ほぼ一定であることで知られる。彼程度の魔力であれば一日で全魔力が回復するが、レイチェルほど多ければ早くても一週間はかかる。
そのため、魔力切れの反動は、魔力量の少ない者ほど軽症で済む傾向にあるのだ。
エルに体に残った戦いの爪痕は主にこれくらいだ。
彼は最後まで、自らの腕に残り続ける痺れたような感覚のことを他言することはなかった。
ちなみに、この世界の医療技術は高度ではない。
古人族が秘匿する古代魔法術の中で唯一、外界へ広められた回復魔法は、良くも悪くも万能だった。
重軽度にも左右されるが、回復魔法はほぼ全ての病と外傷に効果を発揮する。扱いに熟達した者が使えば、患者の負担を減らしつつ治療することも可能だ。
さらに、比較的簡単に扱うことができ、かつ対象者の体力が保つ限りという制限があるにせよ、確実に回復を促進できる。
このようなオーバーテクノロジーじみた魔法が広まっているために医学の進歩は遅れ、特に重度の病や感染病などといった長期的な治療を必要とする分野の研究は完全に停止し___一方で、研究が進んだのは『応急処置』の分野だった。
詰まるところ、一命さえ取り留めればあとは回復魔法でどうにかできる、という形で研究が進んでいったわけだ。
治療院に勤めている者たちは、医学や薬学に通ずる識者、というわけではなく、回復魔法の使える魔法使いなのである。
一部の識者たちは、魔力切れなど、回復魔法の効かないごく一部の症状の対症療法を研究しているのだが。
そういうわけで、治療院で働いているのは『薬学や医学に通じる識者』ではなく『回復魔法の使える魔法使い』となっている。
回復魔法は、熟達していなくとも使えるだけで雇ってもらえるので、もっぱら術導院のひよっこ魔法使いたちの小遣い稼ぎか善意のボランティアが勤めている。
宿屋の看板娘イーナも何気に回復魔法が得意で、偶々顔を出したときにエルとばったり遭遇したという。
その時のエルは、頭のてっぺんからつま先まで包帯だらけという格好で、最初気付いてもらえなかったというオチがある。
ともあれ、これにて遭難事件の幕は降りた。
さして大きな騒動にはならなかった。せいぜい、傷口にたっぷり入り込んで固まった泥を掻き出すところから始まった治療でエルがガチ泣きしたくらいだ。
幸い、エルの腕の『痺れ』も一週間ほどで立ち消えた。
後遺症もなく、何かが失われるでもなく、日常は戻ってきた。
一方で、変わったものもあった。
***
エルシリアには、一つ秘密がある。
と言っても、実は彼女自身、それがどういった秘密であるのかは知らない。
否、覚えていないと言った方が正しいだろうか。
秘密の真実を知っているのは、三人。
一人は孤児院の院長、シェイラ・ドワ・エルフィア。
残りの二人は、とある魔法を研究していた識者にして、シェイラの古い友人でもあった___今は亡きエルシリアの両親だ。
エルシリアが四歳の時、二人はこの世を去った。
両親のことはよく覚えている。
とはいえ、幼児期の記憶など朧げなもので、両親の性格や考え方などをシェイラから聞いた話で曖昧な部分を補強した、いわば脳内補完の入った記憶だが。
記憶の中にある両親はとても優しかった。
研究で常に忙しなく動いていたが、エルシリアが泣いたりした時に、放って置かれたことは一度もない。二人は、エルシリアと一緒に暮らすために研究をしていたのだとシェイラは言った。
シェイラは度々研究室を訪れていたことがあり、幼きエルシリアと面識があった。
裕福とは言えない暮らしだったが、エルシリアは幸せだった。
父か母のどちらか一方がエルシリアの相手をして、他方が研究を進める。三日に一度は川の字で一緒に眠り、翌朝は仄暗い研究室を出て街へ食べ物や生活必需品を買いに行った。
三人で手を繋ぎながら、お喋りしたり遊んだり、親に甘えられる一時___その日がとても待ち遠しかったのを覚えている。
エルシリアは両親が大好きだった。
だが、ずっと続くと思っていた日常は、ある日突然崩れた。
その日は、三人で街へ買い出しに行く日だった。朝起きてみるとエルシリアは一人で、母と父がいなかった。
机に一枚の紙が置いてあった。そこには感謝と謝罪と『秘密』が書かれていた。残念ながら内容はほとんど覚えていない。読めない字も多く、走り書きのようで解読も困難だった。
しばらくするとシェイラがやってきて、エルシリアはその手紙を渡した。
シェイラは手紙を読み、泣き崩れてエルシリアに抱きついた。
そして___エルシリアは両親の死を知ったのだ。
詰まるところ、エルシリアの秘密とはそのことである。
両親の死。理由も言わないままエルシリアの前から姿を消した、二人の研究者のことだ。
今までずっとエルシリアは親のことを考えていた。
なぜ黙って死んでしまったのか。
手紙の詳しい内容はなんだったのか。
秘密とは何なのか。
手紙を預かっているシェイラに聞いてみても、彼女は『その時が来たら教える』と言って、未だに教えてくれない。
ただ、その時のシェイラの表情は辛そうで、エルシリアのことを慮っていることは分かったので、それ以上は追求しなかったが。
一つだけうっすらと覚えていることは、その秘密が、父と母とが研究していた魔法に深く関わっていることだ___だからお父さんとお母さんは忙しいんだなと、手紙を読み、子供ながらに納得した覚えがある。
それ以上は何も覚えていない。
親が死んでから五年以上経った今でも。
大好きな親の記憶は薄れていくばかりだった。
だが___。
エルシリアは、孤児院の廊下を歩いていた。
夜もとっぷりと更けて、星の光が煌々と明るく窓から差し込んでいる。
就寝時間はとっくに過ぎている。シェイラに見つかったら大目玉を食らうだろうが、子供たちとていたずら盛りだ。
シェイラの見回り経路と時刻を大まかに調べて抜け出したりする子は少なからずいたりする。
もっともエルシリアの歳にもなれば、シェイラがあえて抜け出しを見過ごしてくれていることくらいには気付けるものだが。
ちなみに、エルもしばしば夜中に得体の知れないことをしているが、見過ごしてもらっていることには気付いていない。
この辺は年相応というよりは、単に抜けているだけである。
「……」
エルシリアは、一室の扉の前で立ち止まった。
ドアの隙間から光が漏れており、中にいる人間がまだ起きていることを示している。
というか、パキパキと謎の音がする。
とりあえずコンコンと扉をノックしてみる。
「エル、起きてるかい?」
パキパキ音がぴたりと止まった。
かさこそと何か片付けている音が聞こえてくる。
最後にばふんと音がして、光も消えた。
「出てこないとシェイラ母さんに言い付けるよ」
静かな廊下に、自分の声がやたらと大きく聞こえる。
風魔法で音を多少遮断しているので、周囲十メートルから外には聞こえないようになっているが。
しばらくすると、神妙な顔つきのエルが部屋から顔を出した。
「やるならいっそひと思いにやってください」
「ボクが何すると思ってるのかな君は」
まるで斬り落とせと言わんばかりに首を差し出してきた少年の頬をぺちりと叩く。
割とシャレになってないのでやめていただきたい。
それともこれは、彼なりの茶目っ気だろうか。
まあどうでもいいか。
「ついてきて。ちょっと散歩しよう」
エルシリアはそう言って、またすたすたと廊下を歩き出した。
___もう、両親のことはいいのだ。
過去に引っ張られるのは、もうこれまでにしよう。
エルシリアは今を生きている。新しくできた家族___孤児院のみんなと一緒に。




