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勇者のスペア ー魔剣使いの人生譚ー  作者: 黒崎こっこ
エルフィア孤児院 少年期
20/41

第十七話 お姉ちゃんの意義




 レイチェル・エルフィアの妹は、五年前に死んだ。

 姉を庇う形で、魔物に食われて死んだ。


 名前はティアという彼女は、生まれつきに盲目だった。体も弱く、病気にも罹りがちで___貧しい家にとっては重荷だった。

 両親は、決してティアを愛していなかったわけではなかった。

 ただ、自身すら養えずに餓死寸前となってしまえば……切り捨てざるを得なかった。

 そもそも、無責任に子供を作った親が悪いことに変わりはないのだが。


 両親はティアを連れて、しばらく出かけると言ってレイチェルを留守番させた。

 帰ってきたとき、ティアの姿は、どこにもなかった。

 両親はレイチェルに、妹のことは忘れろと疲れたように言った。


 そうして両親はティアを捨てた。

 だが、レイチェルはそれを認めなかった。

 生来正義感の強い女の子だったレイチェルは、妹を守ろうとした。

 両親に詰め寄って妹の行方を聞き出すと、一も二もなく家を飛び出した。

 街中でふらふらしていたところをいじめっ子たちに目をつけられ、ティアは暴行されていた。レイチェルは一人猛然と突撃して子供たちを追い払った。

 

 お姉ちゃん、と何度も呼びながら泣く妹を連れて、姉は裏路地の奥へと消えた。

 二人は両親の元へ帰ることはなかった。

 姉妹は二人で暮らし始めた。


 別段珍しいことではない。

 表向きは治安が良くても内部腐敗の進んだクラヴィウス共和国では、貧富の差は大きくなりつつある。

 騎士階級に与えられる破格の待遇、重めの税率と上がるばかりの物価。

 貧困が原因で生ずる犯罪も比例して増えている。

 孤児や捨て子は、オルレアンのような地方街では日常的に見られる光景だった。

 とある術導教師が見るに見かねて孤児院を設立し、身寄りのない子の保護と親や保護者への説得を始めなければ、今よりもっと酷い事態になっていたかもしれない。


 そんな浮浪児たちがどうやって生きているか。

 食べ物を盗み、ゴミを漁り、獣級の魔物を仕留め、時には人を殺して身包みを剥ぐ。

 当然ながら、レイチェルとティアもそんな生活を強いられることになった。

 もっとも、親と一緒に生活していたときと大して変わらない。食料と、寝床を、自分で確保しなければならなくなっただけだ。

 浮浪児たちが作るコミュニティ的な集団に入り、レイチェルは情報を集めた。

 生き残るための情報を。


 レイチェルは魔法を使えた。

 下級を少しと、中級の火魔法を一つだけ。

 当時、レイチェルは六歳だったが、魔法の理論や魔力回路の原理も知らない状態で中級魔法を使えるというのは天才的だ。

 数年後に孤児院入りする少年が死んだ目をしそうなほどの才能。


 この才能が、レイチェルとティアにとって最大の武器であり、防御でもあった。

 妹に手を出そうとした浮浪児仲間を本気で爆殺しようとしたことで、期せずして彼女の才能は裏の世界に知れ渡ることになり___結果的に、身寄りのない姉妹を人攫いや強盗から守る最大の要因となった。

 所構わず爆撃するクレイジーな女の子を、誰が攫おうとするのかという話だ。

 魔法を抑えても、レイチェルは妹に比べて凄まじく体が頑強だった。

 手足を縛られても歯で敵の喉笛を食い破るような少女を、誰が売ろうとするのかという話だ。

 笑えるようなことではない。

 いつしか姉は、妹を守るためだけに生きる荒んだ目をした猛犬になっていたのだ。

 猛犬は、ひたすら妹を守り続けた。

 自分の身など、一度たりとも顧みたことはなかった。




 ___だが、ティアは死んだ。

 魔物に食われかけたレイチェルを、庇うようにして死んだ。


 曇りの日、街の外で、魔獣級に出くわしたレイチェルは命からがら逃げていた。そして木の根につまづいて転び、そこでレイチェルの人生は終わったはずだった。

 細かい光景はもう思い出せない。

 ただ、その時、ここにいるはずのない妹が目の前にいて、


「お姉ちゃんだ……」


 そう言って、笑っていたのは覚えている。

 その後の記憶は、真っ黒な何かで染まっていて、何がどうなったか分からない。

 気がつけば誰かの腕に抱えられ、街の中に戻っていた。




 ***




 そして、今。

 レイチェルは自分が、生と死の峠の境目にいることを自覚した。


《お姉ちゃん、がんばって》


 ふと、妹の声が聞こえた。

 これが走馬灯なのかな、と、レイチェルはぼんやり思っていた。

 あれからずいぶんと変わった。

 環境も、物の考え方も、生き方も。


 わがままな性格は自覚している。

 自尊心が強いのも自分で分かっている。

 気付かせてくれたのは妹だ。


 最期の、あの言葉、あの笑顔。

 妹の今際の際を思い出す度に、レイチェルは激しく後悔する。

 自分は、妹を守ることで得られるある種の満足感___言わば、独りよがりの正義感に酔っていた。

 結果、妹を蔑ろにしていたのだ。

 ティアはいつも悲しそうな顔をしていた。

 最後の最後に、姉を庇い、笑った。

 そして死んでいった。


 あんな思いは二度としたくない、させてはならない。その一心で、自分なりに孤児院を守ってきた。

 新しくできた家族を失わないために。

 妹が大好きだった自分を殺さないために。

 お姉さんとして。


 こんなところで終わるのか。

 視界は真っ暗闇に覆われ、得体の知れない雑音が耳を叩いている。

 ここは天国か、はたまた地獄か?

 守らなきゃいけないものがある。

 まだ終われない。終われるものか。

 まだ何もやっていない。何も守れてない。ティアに、顔向けできない。


「う……」


 レイチェルは目を開けた。

 朦朧とした頭は、油断するとすぐに意識を失いそうだった。

 泥に沈みそうな体を必死で引き上げる。


(……ここ、は)


 レイチェルはギリギリと歯を食い縛って、渾身の力を振り絞って体を起こす。

 手をつこうとした先に地面がなく、底冷えするような感覚を覚え、慌てて近くの棒状の何かにしがみついた。少しぐらついただけで脳震盪のような痛みが左側頭部を貫く。

 意識が明滅する。


 ダメだ、意識を保たなければ。

 呼吸を整える。

 ゆっくりと思考を回す。


 まず……場所と状況の把握だ。

 ここはどこで、何がどうなっているのか。

 先ほどから、ざぁざぁと耳鳴りのような音がする。


(木、なのかな)


 暗闇の中、手のひらに伝わる感触は、木のそれとよく似ていた。

 自分は木の上にいるのか?

 立って確認しようと足を動かす。

 動かそうとする。


 だが、足は動かなかった。

 というより、そもそも感覚がない。

 恐る恐る下半身を見下ろすと、見るも無残な惨状がそこにあった。

 ありえない方向に両脚が曲がっている。

 それを見た瞬間、骨を火で炙っているかのような痛みがじわじわと脳を侵食し始めた。

 背筋が凍るような恐怖を覚える。


「っ、い、ひぅ!」


 悲鳴を上げそうになるのを、必死で喉奥に押し込めた。

 レイチェルは何とか自制できた。

 折れた足に添え木が巻かれて、応急処置が為されていたからだ。

 どこかに自分を助けてくれた人がいる。


「だれ……か」


 枝に縋りつつ、周囲一帯を見回す。

 と、鳴り止まない耳鳴りのような雑音が下から聞こえてくることに気付き、レイチェルは目を木の下に向けた。



 ___砂嵐が吹き荒れていた。



 魔法に通じる者にとっては、それほど妙な現象ではない。塵風中級魔法『砂塵嵐』でも使えば再現は可能である。

 三位に位置する上位魔法なので、かなりの魔力を消費する。

 しかし、一体誰がそんな魔法を?


 そう考えたとき、一瞬、砂嵐の中に人影が見えたような気がした。


「……、…………エ、ル?」


 足の痛みも忘れて目を凝らす。

 確かにあれはエルだ。

 ちらちらと、小さな少年の姿が見える。

 吹き荒れる砂粒の間を縫うように、あっちこっち走り回っている。

 何をしているのだ、と少年の行く先を目で追うと___巨大なトカゲがいた。


 そこで、レイチェルはようやく気付いた。

 ここは木の上だ。

 だが、その周りに無数の魔物がいた。

 完全に包囲されている。


 しかし魔物たちは、吹き荒れる砂嵐の中でほとんど身動きが取れずにいるようだ。

 もしこの魔法がエルによるものなら、素晴らしい状況判断といえる。ここら一帯の山に生息する魔物には魔法に対する弱点属性の傾向がある。地上の魔物には土、鳥などの魔物には火。

 あの量の魔物を一体ずつ仕留めるのは得策ではない。故に動きを封じ、視界を封じる。非常に効果的だ。

 ただ___問題がある。


「え、エルッ!!」


 この砂嵐は魔物全体の視界を奪うには小規模すぎる上に、維持には莫大な魔力を消費する。

 それに、視界を奪われるのは魔物たちだけではない。

 エルもまた、同じように視界は最悪のはずだ。


 なぜエルが木の下に降りているのか、なぜ非効率的な砂嵐での迎撃を試みているのか、その意図が分からない。

 分からないが、とにかくレイチェルはトゥエルの名を叫んだ。

 叫ばずにはいられなかった。


「……!」


 少年はすぐさま顔を上げてこちらを見た。

 降りかかる砂の粒で目を開けるのも辛いはずだが、エルは砂嵐の影響を受けていないかのようにしっかりと目を開けていた。

 レイチェルと視線が交錯する。


「___、___っ!!」


 彼は何事か叫んだが、嵐に紛れて聞こえない。

 すぐにレイチェルから視線を外し、体を捻って近くのトカゲの足を切りつける。トカゲの体が地面に横倒しになった。

 そのトカゲを足場にして少年は跳躍し、砂嵐に紛れつつ次の魔物に奇襲を仕掛けていく。フォレストリザードたちは為す術なく足を斬られて動きを封じられる。


 ずっとそれを繰り返していく。

 斬って、飛んで、斬って飛んで___止めは刺さず、執拗に足を狙い続けている。不思議なことに、いくら経っても砂嵐は止まず、しかも少年の後に追従するように移動していた。


 普通の『砂塵嵐』に、術者の後を追うような性能はない。

 またお得意の魔法改変とやらだろうか。

 待てども待てども砂嵐はやまない。

 エルはこんな莫大な魔力を隠し持っていたのだろうか。


 レイチェルが複雑な思いを巡らす中、エルは作業のように次々とトカゲの足を狩り続けていた。




 ***




 かれこれ一時間は過ぎたように思えたころ、砂嵐が止んだ。


「はぁっ、はあっ」


 辺り一面は死屍累々の様相を呈していた。

 もっとも、死に至ったトカゲは一匹もいない___どのトカゲも体中砂だらけで、このままでは衰弱死は免れない。

 戦闘を終えた少年は、心底キツそうな顔で荒く呼吸を繰り返していた。死屍累々の渦の中心で危なげなく直立する木に寄りかかり、ずるずると座り込む。


「はぁ、はっ……うぷ。しんど」

「エルっ、大丈夫!?」

「ああ……はい、レイ姉も、無事ですか?」


 エルはのし上げてきた胃酸を唾と一緒に吐き捨てると、おもむろに上を見上げた。

 レイチェルは枝の縁ギリギリまで身を乗り出してエルを見る。

 砂嵐の只中で戦っていたというのに、エルの顔には砂の一粒すら付いていなかった。髪と首から下は隈なく砂にまみれているようだが、一体何をどうすればこうなるのか。

 白いもやのようなものを全身に纏っているようだが……。

 今はそんなことはどうでもいい。


「私は大丈夫よ」

「それはよかったです。足の具合は?」

「……っ」


 エルを心配するあまり、我が身のことはすっかり忘れていた。

 レイチェルは自分の足のひん曲がり具合を思い出して、変な汗が滲むのを感じたが、何とか取り繕う。


「こ……こんなのへっちゃら、よ」

「そうですか。ちょっと待っててください」


 全てお見通しと言わんばかりの顔で笑うと、エルは昆虫のように素早く木を登ってきた。

 吐く程に疲れているというのに、まだこれだけ動けるのか。

 毎日セレナと訓練に明け暮れているだけのことはある。


「傷を見ます」


 エルは添え木に触れた。

 途端にぴきりと神経が割れたような痛みが走り、レイチェルは声を必死で咬み殺す。へっちゃらと言った手前がある。

 レイチェルは涙を目に滲ませながら、痛みをごまかすためにエルに言った。


「あ、ありがとうね。ま……守ってくれて」

「レイ姉も、同じ状況になれば守ってくれたでしょう。そういうのは言いっこなしですよ」


 そうだろうか、とレイチェルは考える。

 こうした窮地に陥ったとき、少なくとも自分が誰かを守ったことはない。

 守り切れるという自信もない。

 守られたことならある。今日のこれで二度目だ。


「エルは、疲れてない? 魔力は大丈夫?」

「はい」

「あんなに長い間、『砂塵嵐』使ってたのに、まだ魔力が残ってるなんて、凄いわね……今まで、なんで隠してたの?」

「隠すって、何をですか?」


 少年はきょとんとした顔になった。

 彼のことだ、年上に気を使って大量の魔力を隠していたのだろうが、ここに来てまだ隠すのか。

 レイチェルは痛みも忘れてエルに迫った。


「だから、その魔力。中級三位の魔法を、一時間も維持できるとか異常でしょ!」

「……ああ、なるほど。いや、アレはただの『剥風』です」


 脆い土などを風化させ、砂に変えて崩し吹き飛ばす、下級二位の風魔法。

 馬鹿なと少女は思う。

 下級程度ではあんな砂嵐は起こせない。

 そもそも『剥風』は、地面に埋まった脆い鉱石などを傷付けずに掘り出すために作られた魔法だ。

 よしんば風は起こせたとしても、地面の土を巻き上げる程度ではあの規模の砂嵐は作れない。もっと大量の土がなければ無理だ。

 ということは、自前で土を用意したことになるが……それもまた決して、簡単にできることではない。


「土でバリケードを作ったんですが、あっさり突破されちゃって。もったいないので砂に変えて再利用しました」

「土の、バリケードって……上級天地魔法の『巨氷鉄砦』?」

「んなわけないでしょう。ただの土を積み上げただけの、アレですよ、土嚢みたいなもんです」

「……土の壁って。それは、一メートルくらいの?」

「はい」


 少年は何でもなさそうな顔で頷いていた。

 自分がどれだけ並外れたことをしているのか、まるで気づいていない顔だ。

 大量の『ただの土』を一度に作り出す。言うは易しだが、そんな魔法は存在しない。存在しない魔法をどう使うというのか?

 レイチェルはじっとエルを見つめる。


「……じゃあ、エルの魔力量って」

「前にも言った通り、レイ姉の一割以下ですよ。姉さんの魔力半分俺にください」

「無理よ」

「それは残念至極……」


 少年はぐったりとうなだれた。

 術導院などでは年に一度、生徒の魔力総量を測定する。

 シェイラの意向で孤児院では行われていないのだが、以前エルは自力で魔力測定の方法を調べて、レイチェルと自分の魔力の比較をしたことがあった。

 魔法使いになるには絶望的な量だ。

 レイチェルは自分の魔力がかなり多い方だということは自覚していたが、それと比較してもエルの魔力はあまりにも少なすぎた。


「……よし、大丈夫そうだ。このまま安静にしててください」

「……」


 立ち上がる少年を、レイチェルは目で追う。


 なぜだろう、とふと思う。

 仮にレイチェルが魔物に包囲されたとして、エルを守り切れると思えない。自慢の魔力も敵の圧倒的物量に押し潰される。

 詠唱すらさせてもらえないだろう。

 一方エルは無傷で、完璧にレイチェルを守り抜いて見せた。

 経験も魔力も技術も、あらゆる点でレイチェルより格下のはずの少年が。


 いったい何が違うのか。

 どこでこんな差がついたのか。

 どうすればエルのように強くなれるのか。


 人一人を守れるだけの力を、少年は既に持っていた。

 レイチェルがずっと目指していた力だ。

 だからレイチェルは、ずっと疑問に思っていたことを聞いてみることにした。


「エルは、なんで___」

「しっ」


 少年の指がレイチェルの口に当たる。

 エルは剣士の目になって、鋭く周囲を見回していた。


「……今度は猿か」


 がささ、と周りの木々が騒がしく音を立て始めていた。

 枝の隙間からこちらを睨む赤い目が、そこいら中に現れて二人を取り囲んでいる。

 獣級、ブリーズエイプ。

 特にこれといった特徴のある魔物ではない。脅威的にもトカゲの足元にも及ばない、言わば雑魚だが、それはあくまで武装した人間が地上で戦ったときの話だ。

 この数を、木の上で相手するとなると、危険度は一気に高まる。

 レイチェルは思わず息を呑み、少年の袖を掴んだ。


「ま、また……こんなに」

「……」


 今度こそダメだと絶望しかけるレイチェル。

 その隣で、エルはただ呆れたように息を吐くと、


「各個投入は愚策だと思うけどなぁ」


 ぽつりと一言零し、手を掲げる。

 ほぼ同時に、周囲の猿が一斉に飛びかかってきた。その爪が少年を切り裂くのに数秒もかからないだろう。

 ただし___エルにとって、その数秒は、猿を駆逐するのに十分すぎるほどの猶予。


「火よ」

 

 少年の魔力が具現化する。

 細かい星屑のような、ごくごく小さな火花が空中に散った。


 こんな小さな火では足止めにもならない。

 レイチェルは愕然として少年を見る。

 そして、今更ながら気付く___少年の体が異常な高熱を帯びている。身体に纏わり付いている白いモヤは蒸気だ。

 魔力切れの症状だ。


 何故今の今まで気づかなかったのか。

 レイチェルは自分を責めつつも魔法を唱えようとするが、魔力の制御に集中しようにも脚の激痛が邪魔をする。

 まただ。

 一度、トカゲと戦うエルを援護しようとしたのだが、そのときも同様に痛みで魔法を使えなかった。

 間に合わない。

 猿たちは全く気にすることなく火花を突っ切り、その剃りのある鋭い爪をエルに振り下ろそうとしていた。

 せめて盾になろうと、レイチェルはエルに覆い被さった。


 しかし、来るべき痛みは来なかった。

 代わりに、猿たちの恐ろしい苦痛の声が耳を突く。


「……!?」


 顔を上げると、目の前で猿が絶叫しながら木から転げ落ちていくところだった。

 ジタバタと身体中を掻き毟りながら悶えている。

 少年はレイチェルの腕の中で、弱々しく笑っていた。


「超熱い土くれをばら撒きました。触っちゃダメですよ」

「エル、もう魔力ないでしょ!? なんでそんな……」

「なんでって、そりゃあ」


 ぐぐぐ、と腕に力を入れてレイチェルを退かす。

 より近くにエルの体を見て、そこにいくつもの傷が刻まれていることに気付く。全身が汗と泥と返り血の混ざった赤黒にまみれ、傷の見分けもつかなかった。


「家族に死んでほしくないって思うのは、別に変なことでも何でもないでしょう」


 満身創痍の体を引きずって、手をかざす。

 二度、火花が散り、数匹の猿が地面に落下する。

 魔力の枯渇による反動で、少年の顔色はますます悪くなる。

 それでも何とか絞り出した三回目の火花で、怯えきった猿たちは夜闇の中に姿をくらましてしまった。


「退治完了。どや」

「どやじゃないわよ……エルは、もう、休んで。後は私がどうにかするから」

「そうですか。では、アレを一人で撃退できますか?」


 少年がおもむろに指を差す。

 目を向けると、一頭の白い猪を先頭に、十数頭もの猪がずらりと首を揃えてこちらに進軍してくるところだった。

 逃げ出した猿の数匹が、無造作に猪の脚に踏み潰されて奇妙な音を立てる。


「……なにあれ」

「どうやらアレが本隊のようですね。統率してるのはディバイン・ボアです。白くてでっかい仙獣級の猪です」

「は!? ……いっつ!!」


 レイチェルは素っ頓狂な声を上げた。

 その拍子に、脚に無駄な負担がかかって激痛が走る。


「う、く。い、痛くなんか、ないっ」

「その様子じゃ魔法も使えないでしょう。正直足手まといなので、安静にしててもらえますか」

「ふ……ふん! そう言って、突き放そうってんでしょう。そうはいかないわよ、私だって戦えるんだから!」

「そうですか」


 少年は白い蒸気の尾を引きながら立ち上がった。

 レイチェルは涙を浮かべながら、小さく唇を噛んでいた。戦えるなどと大口を切ったが、魔法が使えないとどうしようもない。

 だが、それはエルも同じはずだった。


 血と脂肪がこびりついて斬れ味を失った剣が一本。

 魔力は底をつく寸前。

 何時間も戦い続けて極度に消耗した体力。

 背後には使い物にならない足手まといが一人。


 そんな状態で、なお少年の目に絶望はない。

 武器がないのは同じなのに、重傷を負っているのは同じなのに、エルは戦うことができ、レイチェルは戦うことができない。

 何が、いったい何が違うのか?


「では、魔法を使えるようなら、木の上から援護をお願いします。まあ使えなくとも俺が何とかしますので、無理はなさらず」

「…………」


 無力な姉を、エルは責めたりはしなかった。

 黙ったままのレイチェルに背を向けて、彼は飛び降りる。

 木の一本や二本など容易くへし折りそうな猪の群れが迫る、その目の前に、たった一人で降り立つ。


「あ、レイ姉。目瞑っててください」


 エルは上を見上げて、忘れ物でもしたかのような顔で言った。

 次の瞬間、強い閃光が周囲一帯を白く染めた。




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