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金の鎖

カチャリ、と物が落ちる音がした。

玄関の大理石の床には金の鎖。とっさに右手でベストの隠しを押さえた。

出勤前の旦那様も物音に気付き、振り向く。

「申し訳ございません。時計の鎖が切れてしまいました」

鎖を拾い上げ、旦那様に伝えると、旦那様は納得するかのように頷いた。

「父さんがお前にやったものか? 随分と古いものだから仕方ないな」

「後で修理に出すことにします」

旦那様はその言葉に軽く頷き、ご出勤された。




       ◇◇◇◇◇




玄関の扉に鍵を掛けながら、この鎖を頂いた時のことを思い出す。

30年ほど前のことだ。私はまだ執事ではなく、第一従僕だった。

先代の旦那様は実にユーモアのある方だった。

身軽さを好み、堅実であり、虚栄を嫌った。

何かの折に……そう、あれは降誕祭。旦那様への贈り物のひとつだったのだ。

精緻な花模様のフォブ(下げ飾り)が付いた、どう見ても女性用にしか思えない細い金の鎖。

最初は店側が品物を間違ったのかと思った。

しかし旦那様曰く、贈り主は古くからのご友人。暇を飽かして些細な悪戯を仕掛けるのだという。

寄宿学校時代から変わり者で有名なそのご友人は未だ独身らしく、贈り物をする女性もいないことを、日頃から家人に詰られているらしい。

「まったく、彼らしいよ」

お返しに来年は彼に金の櫛を贈ってやる。

旦那様はひとしきり笑い、その鎖を化粧箱ごと私に差し出した。

「これは君にやろう」

妻は銀細工が好みだからね、お前の恋人に贈るといい。

「私の恋人はこのお屋敷です」

その瞬間呆気にとられた顔をした旦那様は、再び笑いの発作に見舞われた。

「では……その恋人に嫌気がさして……逃げ出す際の路銀の足しにするといいさ……クックッ……」

震える声がなかなか止まないまま、旦那様に手渡された。

なにも涙まで浮かべる必要はないではないか。

かくして高価な金の鎖は、一介の従僕のものになったのだ。




結局、私はそれを懐中時計に取り付けた。

女性用とはいえ、良い品である。下手に無くしては困る。

身に着けておくのが一番だ。

それから数年後、引退する執事に代わり、私は執事になった。

そしてその頃といえば、旦那様一番の宝物である坊ちゃまが、非常にやんちゃな盛りであった。

ナニーの隙をついては部屋を抜け出すことを繰り返し、庭の木に登り、花壇の土を掘り返しては庭師を嘆かせ、小動物(主に虫)を部屋に溜め込んではメイドに悲鳴を上げさせた。

正直に申し上げよう。

当時の私は犬の躾の方が容易いと思ったものだ。


ある日、坊ちゃまが私に訊ねた。

「それはなに?」 

ぷっくりとした幼児の指が指すのは、私の懐中時計。

「これは時計ですよ」

隠しから取り出して答えたが、坊ちゃまの視線は固定されたままだった。

坊ちゃまは時計ではなく、鎖にご執心らしい。

ベストのボタンホールからフォブが揺れるのをじっと見つめていた。

「これは時計の鎖です。私の宝物です」

「たからもの……」

「ええ、旦那様から頂いた大事なものです」

「おとうさまの……」

すると坊ちゃまは急に興味を無くしたように、走り出した。

私はそっとため息をつくと、坊ちゃまの後を追いかけたのだった。

そんなやり取りがあってから数日。

坊ちゃまは何故か毎日、私の所に奇妙なものを持ってくる。

蝉の抜け殻、小さな貝殻、丸み帯びた小石、紙に包んだビスケット。

そして坊ちゃまが今にも泣きそうな顔で、大事な兵隊人形を差し出したとき、私はやっと理解した。

坊ちゃまは、私に贈り物をして下さっているのだということを。

私は膝を折り、坊ちゃまの目を見つめた。

「ありがとうございます。しかし私は部隊を率いた経験がないのです。ですのでこちらは立派な指揮官である坊ちゃまの配下にお願いしたく存じます」

坊ちゃまの手に人形を握らせると、しばし坊ちゃまは人形と私の顔を交互に見やり、コクリと頷いた。

「坊ちゃまのお気持ちは大変嬉しゅうございますよ。お礼にとっておきのクッキーを差し上げましょう」

小さな手を取りダイニングへ向かいながら、私は人知れずこの小さな幸福に感謝していた。




       ◇◇◇◇◇




あれから成長した坊ちゃまは旦那様の跡を継ぎ、今や立派な紳士となられた。

先代様によく似たその姿を見ると、しみじみと使用人冥利に尽きるものだ。

帰宅した旦那様の部屋にお茶を運ぶ。

ティーカップをテーブルにセットし、ついで包みを置いた。

玄関で受け取ったコートのポケットには、茶色いリボンの包みがあった。

一礼し、立ち去ろうとすると、旦那様の声がかかる。

はい、と振り返ると、旦那様は新聞を読みながら言った。

「それはお前にだ」

「私に、でございますか?」

旦那様は頷き、私はその包みを手にした。

「開けてもよろしいですか」

またも無言で頷く旦那様。

リボンがするりと音を立てて解け、箱を開くと、新しい金の鎖があった。

「お前に贈り物をするのに20年も掛かってしまったよ」

旦那様は悪戯が成功した表情で言った。

そのときの私の胸の内を表現することは、どんなに言葉を尽くしても出来ないだろう。

情けなくも感極まった私はただ、坊ちゃま……としか言えなかったのだから。




旦那様は知らない。

私の机の引き出しにある小箱に、蝉の抜け殻と貝殻と小石が入っていることを。

そしていつか、その宝物を旦那様とまだ見ぬ奥様との坊ちゃまに差し上げることを。

それがこの老人の密かな夢なのである。




fin.


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― 新着の感想 ―
[良い点] 二代の旦那とそれに仕える執事、いい空気吸ってますね [気になる点] だいたいこの手の世界の円満な引継ぎって、引き継ぐ前に当主が手が嫡子の結婚見繕うようですが、 まだ見ぬってことは当代旦那様…
[一言] 好きです、、、胸が暖かくなりました。
[良い点] 美しくておだやかな文章がとても好きです。 古き良き時代のあたたかな物語を、楽しませていただきました。 ありがとうございました。
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