“かみ”が導くクリスマス
リハビリ。
お手軽に軽い気分でお読みください。
感想など賜れますと泣いて喜びます。
――茶色い長い髪が、絡まっている。
季節は冬、主に異性交遊にいそしむ者達が恍惚と飾り立てた松の木を見上げる頃、お風呂場での出来事だった。
シャンプーを洗い流そうと、私専用の赤い櫛を手に取って、私はしばし呆然とした。
「……いや、誰のだよ」
そして、一瞬で理解する。
この家に住んでいるのは、私と、そして出来損ないで脳内バラ色の兄だけである。
つまり、明らかに大和撫子と言えば聞こえのいい真っ黒な髪を持つ私のソレでないこの毛の持ち主は、
「……不純」
兄の彼女の存在しか、ありえないのだ。
「兄さん、トモダチを連れ込むのは良いけどさ、お風呂入るなら私の櫛使わないように言っといてくれる?」
つい言葉の端に棘が混ざる。彼女だなんて、そんなコイツが舞い上がるような呼称でなんか呼んでやるものか。
濡れた髪の毛をわしゃわしゃと拭きながらソファでぐってりと寝そべる兄に向かって、お風呂から上がって開口一番に私はそう言った。
「あー……?」
眠りに落ちるまさに五秒前といった雰囲気のぐでぐで感で兄がまったりと振り返る。
私の足元のあたりを目線がふらついている。
「んー……、あー、あいつかあ。ごめん……次からは言っとくー」
半開きの目で思い出したように二、三度頷いたあと、兄はばふっとまたソファに仰向けになり、目をつむった。
一昨日、大学の友人達とオールして騒いだのが影響して、昨日は帰宅してシャワーを浴びたらすぐに寝てしまったから、彼女さんが来ていたことに気付かなかったのだろう。
現在の時刻は二十二時。まだまだ普通の人なら活動している時間帯だが、兄は相当眠いらしい。
ああ、身体からのぼる熱でメガネが曇ってきてうざったい。
「……そんなとこで寝ると風邪ひくよ」
私の声に、んーと生返事をして、照明の光から逃れるように身じろく。さすがに師走は屋内でも寒い。
ぶるっと震えて縮こまる兄は、まるで小動物だ。
「……聖夜に彼女と過ごせなくなっても知らないからね」
私のそんな皮肉も聞こえていないようで、兄はそのまま寝入ってしまった。
まあ、ぼんやりと日々を生きる兄が定まった場所で寝ないのはいつものことだ。そして、釈然としないながらも、兄の自室から毛布を引っ張ってきてやるのも、またいつものことだった。
今日は最悪な一日だ。
自室の椅子でくるくる回りながら、私はしみじみとそう思った。今日だけで二度の裏切りに遭ってしまった。
一度目は、クリスマスに遊ぶ約束をしていた大学の独り者友達。
ここまできたら独り者同士、パーっと遊ぼう! と数日前まで盛り上がっていたのに。名前はかなり似てるのに、何が違ったというのだろう。
――ごめーん、夕。あたし、やっぱりクリスマスの予定埋まっちゃった。
ハートマークでも飛んできそうな浮かれようだった。幸せの押し売りの何と鬱陶しいことか。
ご丁寧にも、スケジュール帳の二十五日の欄に大きく描かれたハートマークと“DATE”の文字まで見せつけられた。
突然のキャンセルと、その内容に唖然として、私の口からは気の抜けた声しか出なかった。
――ほんっとにごめんね。この埋め合わせは必ずするから!
申し訳なさそうな表情に見え隠れするピンク色。まさしく恋の色。ああ鬱陶しい。
二の句も告げない状態の私に、畳み掛けるようにそれから二言三言話して、
――あたしにも出来たんだから、夕にだってすぐに出来るよ!
私への罪悪感からか、そんなむしろ心をえぐるような、どうしようもないフォローを最後に口にし、裏切り者の南野美夜は愛しのカレの元へと去って行った。
二度目の裏切りは、そう、アホ兄貴だ。
血のつながりか、どちらにも色恋の香りどころか兆候もなく、そのことにある種の仲間意識を抱いていたのは私だけだったのだろうか。
クリスマスの予定の話になったときに話していたトモダチってのは、照れ隠しだったのか。
「……あー、ほんっと最悪……」
大学生となった去年から、上京して兄の借りているアパートに一緒に住んでいるが、兄が家に女性を連れ込んだのは初めてのことだった。
別にブラコンではないので、クリスマスの予定が素敵なコトで埋まっているのが何だか負けたようで悔しいだけで、兄がプライベートで何をしていようが実際どうでもいいのだが、いかんせん私もこの家の住人であるからして、気持ち悪い。
兄の彼女がどんな人間か知らないが、人の櫛を勝手に使うなという話だ。女子なら櫛くらい持ってるだろう。
何となく、兄とそういう関係の女性の生活の匂いを感じるのは生理的に受け付けられない。
考えていても嫌になるだけなので、私はショートカットの髪を手櫛で整え、早々に布団に入ることにした。
そういえば、兄の彼女の髪も、ショートカットくらいだっただろうか、などとしょうもないことを考えていたらいつしか眠りに落ちていた。
十二月二十五日。
昨日からどこもかしこもキリストの生誕を祝ってやまない。さぞやかの御方もお祝いが多くてお喜びのことだろう。
昨日は街の空気に、美夜の上気した顔に、カップルの甘い空気に居た堪れなくなって、大学からさっさと引き上げて家に篭っていた。
何て枯れている、と自分でも思ったけれど仕方がない。テレビから流れる聞き慣れたクリスマスソングに、幼い頃からの刷り込みか、湧き上がる高揚感。せめてケーキだけでも買ってくるんだったと後悔しても、もう家から出る気分にはなれなかった。しかも、ケーキを一人リビングでつつくのは何ともまあ寂しすぎる。
昨日の深夜、ラジオで流れるクリスマスソング特集に耳を傾けていると、玄関から話し声がした。
イヤホンを外して耳を澄ませると、どうやら件の彼女さんを連れて帰宅したようだった。何も聖夜に帰宅しないで欲しかった。今日は独りメリークリスマスで決め込むつもりだったのに。
顔をしかめて、最悪、とつぶやき、イヤホンを付けてラジオの音量を上げた。
流石に妹が在宅の状態でコトに至ることはないだろうが、あの兄だ。脳内がパッパラパーの彼に絶対などない。万が一、億が一を考えてもう眠ってしまおうと、ラジオを付けたまま急いで布団に潜り込んだ。
そして本日、二十五日。時刻は朝十時三十五分。随分と眠ってしまった。
私の今日の予定は、なし。やることもないから一人でDVD鑑賞大会だと張り切ってみたりしている。家に彼女さんがいると思うと気分が落ち込むが、それも仕方がない。昼には出ていくだろう。
だが、起き上がった姿勢で気合を入れたのもつかの間、私はそのことに気付いた。
「……あれ、メガネどこだ……?」
思わず呟く。昨日急いで布団に入ったせいでどこに置いたか全然覚えていない。
外に出るときはコンタクトをしているが、家ではメガネの私は、寝る直前までメガネをしている。机の上などに置いたつもりが、裏などに落ちてしまったのかもしれない。
……それを探すのは視力0.1以下にはきつい動作だった。四つん這いになってまで探すのも面倒だ。
皮肉なくらい萎える一日の始まりだった。
家に篭る算段でいたゆえに、コンタクトは付けたくなかった。
ため息をひとつ吐く。諦めも、肝心。
部屋を出ると、珍しくコーヒーの香りが立ち込めていた。そこに、普段はいない第三者の空気を感じ取る。
リビングには机に座ってコーヒーを飲む人影がいた。ぼやけた視界ではよく分からないが、あの茶色い髪、まず兄の彼女さんに間違いないだろう。やっぱりショートカットだったようだ。
兄さんのグレーのスウェットを身に着けている。何とも仲睦まじいことで。……全く嫌になる。
若干寝癖の付いた頭に寝起きです顔で対面するのはとても好ましくなかったが、仕方がない。挨拶くらいはした方がいいだろう。
よく見えないゆえの警戒感バリバリで近付いていくと、向こうもこちらに気付いたのか、肌色がこちらを向く。
「……おはようございます」
今、目が合ってるんだろうか。というか、目はどこだろうか。目が悪いとこうなるから嫌なのだ。
相手は戸惑っているんだか、数瞬黙りこみ、そして軽く会釈した。まさかアホ兄貴、私のことを説明してないわけじゃないだろうな。
いや、挨拶返してよ、と思いつつ、私はそそくさとトイレへ逃げた。
顔を洗ってリビングに戻ると、彼女は同じ格好のままコーヒーを傾けていた。ちなみにコンタクトはしていない。家にいるなら別に視力が悪くても若干不便なくらいで一応生活はできるし。
本を、読んでいるんだろうか。何をしているんだかもよく分からない。
冷蔵庫から烏龍茶を取り出してコップに注ぐ。正直コーヒーの美味しさなんて一生分からなくても良いと思っている。
二人がけのテーブルしか家にはないので、仕方なく彼女さんの対面に座った。部屋に戻るという選択肢もあったが、何となくこの人と話してみたかった。というよりは、それくらい至近距離に行かなければ顔の造形すら分からないから、という部分が大きかった。
私が座ると、驚いたように彼女はこっちを見た。ぼんやりとしか分からないがパーツが整った綺麗な顔立ちをしているように見える。そして結構背が高いようだ。背の高さについては憧れるしかない遺伝子しか持たぬ私と兄にとっては、まさに尊敬レベルだ。というか、兄と並んだら同じかそれ以上なんじゃないだろうか。
兄と並んだ時のちぐはぐ感を想像して、私は小さく笑みをこぼした。あのアホがねえ……とつい面白くなる。
「兄の、彼女さんですよね。私、妹の夕夜です。よろしくお願いします」
綺麗で、そして背が高い。まさに私の憧れのお姉さんタイプ。兄はこんな人をどうやって陥落させたというんだろう。
友好的に微笑んだ私に彼女は頷くだけだった。結構、無愛想だ。クール系、という位置づけでいいのだろうか。
あまり反応を返さない人と話すのは疲れるから苦手だ。あまり話を振るのは得意じゃないのだが。
「お名前を伺っても?」
逡巡。私の目からでもありありと見える。
「たけおかゆうき……です」
「たけおかさん、ですか。どんな字ですか?」
すると彼女は、戸惑いの後に携帯を取り出して何やら操作し、私に見せた。
メールの新規作成画面には、
『竹岡夕樹』
と書いてあった。
「へえ、私と名前似てますね。私、夕方の夕に夜って書くんです。ちょうど黄昏時に生まれたらしくて」
私のその言葉に、彼女はふんふんと頷く。
く、口下手すぎる。会話が続かない。……兄はいつもどうしているんだろう。烏龍茶に口を付けながら考えてみる。
なら、そうだ、カップルにはカップルらしい質問をぶつけてやろう。
「あのあの、ちょっとお訊きしたいんですけど、竹岡さんは、兄のどんなところを好きになったんですか?」
つい、ずいっと乗り出してしまう。仕方がないだろう。あんな常春頭のどこら辺が彼女の琴線に触れたのだろう。純粋に興味がある。
私のその質問に、彼女はこれ以上ない戸惑いを見せた。カップル揃って恥ずかしがり屋め。ちょっとニヤニヤしている自覚はある。
「教えてくださいよ。あんなポヤポヤ男も、大学では格好良かったりするんですか?」
ちょっと私の質問の仕方にも熱が入ってしまう。そういえば、竹岡さんは兄の同級生ということで良いのだろうか。
私の質問に、更に戸惑い、ついにはきょどきょどとしてしまった。何て初心なんだろう。いや、私もそういった経験はあまりないから人のことは言えないけど。
何だか詮索し過ぎちゃったかなと、少し物足りない気もするが、諦めて部屋に戻ることにした。相手を困らせてしまっているし、沈黙にいつまでも耐えられるほど神経は図太くない。
「ごめんなさい、突然こんなこと訊いちゃって……。忘れてください」
そう言って立ち上がり、冷蔵庫からまた烏龍茶を取り出して、コップに注ぎ足す。彼女の雰囲気にはコーヒーがぴったりとはまっていて、間違っても烏龍茶っぽくはないなと思ったら、悲しくなった。
彼女の前に戻って、
「何のおもてなしも出来なくて申し訳ありませんけど、ゆっくりしてってくださいね」
そう告げた。突然現れたかと思ったら意味不明なことをのたまって、何て残念な人間だと思われてるだろう。ファーストインプレッション作り、失敗。
少なからず落ち込みながらも踵を返して私が部屋に立ち返ろうとしたとき、突然、兄の部屋のドアが勢い良く開いた。
「おい夕樹! お前なにのんびりしてんだ。今日はお前の驕りだろ、早く酒買って来いよ!」
と兄が叫ぶ。珍しく起きがけにしてははっきりした口調だなと思いつつ、そのおよそ恋人に掛けそうにない言葉に思わずポカンとしていると、竹岡さんがもっと衝撃的な口調で喋り出した。
「朝からうるせーぞ。夕夜ちゃんがびっくりしてるだろうが。つかこんな真昼間から飲み始めてたら夜迎える前にお前絶対潰れちまうだろ」
……は?
口がポカンと開く。漫画の絵面で例えたら、瞳孔の開ききった立ち絵に加えて、頭の上にハテナが大量生産されているだろう。そんな私の様子に気付くわけもないアホ兄貴がこっちを向いて、喋り出した。
「あ、おはよう夕夜。俺今日コイツとここで一日中飲むつもりだけど、夕夜は予定あるんだっけ?」
あまりの衝撃に立ち直れていない私は、その言葉に考えなしに素直に首を振り、そして次の瞬間後悔する。
頭を抱えたくなって、片手に持っていたコップに気付き机に置いた。
「よし、じゃあ夕夜も飲もー。俺がサンディ・クローズになって夕夜に楽しい楽しいクリスマスをプレゼントしてあげよう」
「いやいらない」
いつも通り兄は一蹴する。どうせ私の返答なんてこいつは聞いてない。いや、それよりも……。
それよりも、と私は竹岡さんのシルエットへと目を向ける。ぼんやりと見えるその人の両眼は、どうやらこちらに向けられているようだった。
竹岡さんはゆっくりと立ち上がり、そして、こちらへと歩いてきた。
目の前に立つ竹岡さんを見上げて、やっぱり背が高い、と見当違いなことを思った。女性にしては、背が高すぎる、と。
私の手を絡めとるように取り、腰をかがめて至近距離で目を合わせてくる。
その端正な顔立ちを見て、その瞳に宿るイタズラっぽい色に気づいて、私の顔が真っ赤に染まるのが分かった。
“彼”がくすりと笑う。
「ごめんね、面白いからそのまま乗っちゃった。改めて、よろしくね、夕夜ちゃん?」
無意識に顎が震える。恥ずかしさに爆発してしまいそうだ。息を詰めて黙っていると、彼が心底面白そうに笑った。
握られた両手が熱い。彼の体温が、ただのよろしくって意味だけじゃない気がして、それが気のせいなのかそうでないのかももうよく分からなくて、増々混乱した。
男性にしては少し長めの彼の髪が私の頬に触れた。思わず顔をのけぞらせると、更に顔が近づいてきた。
熱のこもった目線。浮かべられた微笑。彼が魅せるそのすべてに耐えられなくなって、私は思わず手を振り払いダッシュで部屋へと逃げこんでしまった。
咄嗟にガチャリと鍵を閉める。
――なんだこれ、なんだこれ!
恥ずかしい、体中が沸騰したように熱い。十二月も終わりかけているというのに、この熱さはなんだというのだ。
彼の表情が目に焼き付いて離れない。裸眼であんなに見えるなんて、どんな至近距離だったんだろうと想像したら、増々恥ずかしくなった。
扉に身を預けたまま頬を冷まし、異常に上がった息を整えていると、扉の外からのんびりした兄の声がした。
「なんだー夕夜、何してんのー? 俺らと一緒に騒がないのー?」
なーんも分かってないボヤボヤした声。いっつもこうだ。雰囲気とかそういうのは一切合切こいつの前では灰と化すのだ。
「うっさい! 私は部屋にいるから!」
つい怒ったような口調で返してしまう。熱い頬にあてた手の震えが止まらない。心臓がドクドクと音を立てている。
何だってんだよ、とボヤきながら、足音が遠ざかっていく。
扉の外がどうなっているかなんてことよりも、自分の精神状態のかつてない動揺に戸惑っていた。
朝だというのに、異様に疲れた。高校生の頃、授業でマラソンをした後はいつも息が苦しくて熱さにあえいでいたが、それと似ている。だけどマラソンよりも確実に心地よいと思い至ってしまって居た堪れなくなった。
無駄に喉が乾くが、烏龍茶はリビングに置いてきてしまった。自分のタイミングの悪さに嫌気が差す。
それから何分経ったのか、突如ノックの音が響いた。ビクリと身体をすくませると、兄の声が外から響いてきた。
「夕夜ー? 俺じゃんけん負けちって、酒買ってこなきゃいけないから、夕樹と留守番頼むなー」
そう、爆弾を投下してまたのびやかに遠ざかっていった。
……なんてことだ。ふたりきりになってしまう。
絶望感に似た緊張が全身をめぐった。
いや、待て、この扉さえ開けなければ大丈夫だ。彼は私に興味を示さないだろうし、私がここを出なければいい話だ。
落ち着け、落ち着け……。
大分冷静な部分を取り戻してきた心で、この後のことを考えていると、玄関の戸がギイィと大きな音を立てるのが聞こえてきた。兄が出たのだろう。ちゃんと身なりは最低限整えたのか心配になる。来年からは社会人なんだし、常識的なラインは守ってほしい。妹としての切なる願いだ。
いつまでも茫々と扉に寄りかかってもいられないので、立ち上がろうとした瞬間、私の耳が人の足音を拾った。今さっき、あのアホ兄貴は出て行った。じゃあ、今家にいるのは――?
そして、それは、どんどん私がいる方へと近づいているように思えた。ペタリペタリと、確実に。
息を詰めて、扉の外の音に耳を澄ます。足音が重なる旅に心拍数まで上がっていくようだった。ドクリドクリと心臓から血液を送り出す音が耳のすぐ側で聞こえてくるようだ。
そして扉の前で、私の背中の板一枚を挟んだ向こう側で、足音が――ピタリと止まった。
FIN