かつての想いは消え失せずとも、
「いやな予感は〜」続編券過去話。
初めから他の家はどうなのかなど知らず、純粋培養された“神童”であれば、こんなに辛くはなかったのだろうな、と。今ではそう、思う。
かつての想いは消え失せずとも、
五十嵐楓椛の母は、所謂キャリアウーマンという奴だった。だった、というのも、どうやらそのプライドの高さが災いして会社をクビになったらしいが、母はそんな表現はしなかった。「私の才能を認めなかった」「私の能力を活かしきれない会社なんて、こっちからお断り。だから楓椛―…、」
勝ち組になりなさい
母が通えといったから、幾つもの習い事の教室に通った。
あんな低俗な子たちと付き合っちゃダメよと言われたから、友達とは上っ面の付き合いになった。
いい学校に通わなきゃエリートにはなれないわと言われて、必死に勉強した。
何でも一番でなきゃ意味がない、母さんもそうだったと言われて、運動も勉強も、音楽も美術も喧嘩も料理も教養も―…
全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部…全、部。
大人から“神童”と呼ばれるくらい、同級生から“女帝”と呼ばれるくらい。楓椛は、気付けば何でも器用にこなせるようになっていた。
理由など、特に気にしたことは無い。「尊敬する」母がこうだというならこうで、そうしろというならそうするのが最善なのだ。どうしてか、と考えることも無かった。
今思えばそう思っていたことすら母の洗脳のせいだったのだと分かるが、あの頃はそれが楓椛にとっての「普通」で、疑問を感じる方がおかしな話だったのだ。――…例え周りの話からそれがおかしいのだと知っていても。もう嫌だと本当は心が悲鳴を上げていても。楓椛は気付かない振りをした。
―――本当は、やるならもっと完璧にやって欲しかった。外界と完全に遮断して、技能と知識だけを詰め込んで。そうしたらきっと、疑問を感じる余地もなかったから。母の言うことを聞くだけの、優秀な人形になれたのに。
母に畏怖の念を抱く、それ以上に楓椛は母が大好きだった。だから母に逆らい不良になって家を出て行ったお兄ちゃんと同じ様に、見捨てられたくはない。それだけがストッパーになっていた楓椛にとって、一番つらいのが家にいるときだった。
テストの結果を聞かれるのが怖いとか、そういうことではない。第一楓椛は、怒られるような点数など生まれてこの方とったことはないのだ。
家にいるのが辛いのは。ただ一つ、―――………“完璧”を求められるから、だった。
母が仕事で家を開けている間に皿洗い、掃除、風呂の準備、買い物、犬の散歩といった家事を全て片付けておくのは当たり前。母が帰ってきてからも、ほんの些細なことで怒鳴られる。カーテンが閉めなさい。犬の水を補充しなさい。電気を消していきなさい。
これは期待されているからなのだと幾ら自分に言い聞かせても、恐怖に震える体に誤魔化しようはなく。家にいるだけで拒絶反応が出そうになった頃、…―出会ったのが、BLだった。
当時楓椛は中学生で、特定の部には入っていなかったが色んな部に助っ人として駆り出されていた。それがなくとも日々勉強習い事トレーニングと忙しい上に家事まで請け負った楓椛は恐らく、体力的にも精神的にも限界だったのだ。それでも壊れなかったのは、BLのおかげ。ネットで出会ったそれに訳も分からず夢中になった。初めて自分から情熱を傾けられるものを見つけた。それだけで家にいるのが少しだけ楽になった。人として完全であることを求められるあの場所で、楓椛はその頃救われたような気持ちでいた。
――しかしそんな危うい平衡も、少しずつ崩れ始める。
『再婚しようと思うの』
何が原因か当時は知らなかったが、シングルマザーだった母。兄は家を出ていて、楓椛だって今は中学生で家にいるがいつかは家を出る。断定的な言い方にも、母の人生なのだしと特に思うところはなかった。良いと思うよと頷けば、母なりに緊張していたのかホッと息をついたけれど。
『この人が―…』
『橘明良です。よろしくね、えっと…楓椛ちゃん』
母が連れてきた再婚相手は、人の良さそうな顔をしていた。向こうは未婚だと聞いていたから若いのかと思っていたが、母と同じか、少し下くらいで安心したことを覚えている。さすがに余り年下すぎると外聞が悪いと思ったからだ。会話の内容は、こちらこそと頭を下げた、程度のことしか記憶にない。
『大事な話があるの、楓椛。――……あなた、お姉ちゃんにな』
ブツリと、記憶はそこで途切れる。
長年鍛え上げ磨き上げられた思考力判断力で、この後起こることは簡単に予測できたからだ。呆然とする脳は、記憶をシャットダウンする。
お兄ちゃんは、楓椛と同じ―――むしろそれ以上に厳しい“教育”を受けて、耐えきれなくなって逃げ出したのだと。かつて楓椛の元を訪れた、本人がそう言っていた。助けられなくてごめんな、と悔しそうに顔を歪めて。
だから嗚呼。分かっていたのだ。
母が欲した、勝ち組になる子供は、本当は男でなければならなかった。
突然楓椛に対する教育が厳しくなり始めた五歳の頃。兄が家を出て行ったのは―…ちょうどその頃。つまり母は、兄にのみ多大な期待を寄せていて、女である娘――楓椛にはあまり期待していなかったということ。
本人にさえ自覚がないソレは、恐らく会社や社会で何か“女であるが故の”障害にぶつかったせいで無意識に芽生えたものだろう、と楓椛は推測する。そう、…―女では成功者にはなれない、という、母の心の奥に横たわるトラウマ的な潜在意識。
楓椛では終生満たし得ないソレは、もうすぐ生まれる弟ならば成し得るはずだ。
―――諦めに似た心境で見守る楓椛の予想通り、母は次第に楓椛へそういった意味での興味をなくしていった。もちろん、だからといって楓椛を邪険にしたりした訳ではないが、その変化は楓椛にとってかなり顕著で、だから、どうしたらいいか分からなくなった。
いくら予測していたこととはいえ、楓椛は今まで母が言うように生きてきた。また母は仕事を辞めて子育てに専念し始めたおかげで野心も消えていったのか、弟がある程度大きくなっても兄や楓椛にしたような“教育”を施すことはほとんどなかった。家事も楓椛がやる必要はなくなった。
―――分からなかった。
一体自分は、今までどうやって生きてきたのだろう。何を目指して進んできたのだろう。
分からなくて、分からなくて。
ふと縋ったのは、やっぱり前と同じでBLだった。そこを足掛かりに普通の小説を書き始めて。大学に入る頃にデビューを決め、作家として書いて、単行本を出して。そこそこに売れて、ファンレターも貰って。
それでもやはり、淡泊な日々に変わりはなかった。
惰性で書き続けたわけではない。書くのも読むのも好きだったけれど、これほど自分が何でも器用にこなせることに苛立ちを感じたことはなかった。
そんな風に生きる中で、母に勘当を言い渡された。
そして、こんな世界にとばされて。
「波乱万丈、にも程がありますよ」
ねぇ、と呟いて喉元を人差し指で撫でると、ミカンさんは目を細めクルクルと気持ちよさそうに声を漏らしました。ふわふわした白い毛は触り心地がよくて、心情的に和んでいると、バンと机が叩かれる音で現実に引き戻されます。
「……聞いてますか?」
にっこり。そんな効果音が付きそうなくらいに満面の笑みを浮かべた顔から、私は目を逸らしました。
私と彼女の間に置かれたテーブルに両手をついて、凄絶に微笑む表情は、思わず見とれてしまいそうなほどに整っていますが。…………何故でしょう、その目は人間として何か大切なものが欠落している気がするのです。というか、見とれた瞬間に私の人生が終わると推測されるので、そんな命知らずなことはしません。
などと益体の無いことを考えていた私の元に、彼女――小町さんの白い腕が伸びてきて。
「…ひぇえほ、ほまひ、ひゃん?」
「ちゃんと、こっちを、見て、話を聞いてくださいね」
疑問符なんてつきません。まぁ両頬をがっちりと掴まれている時点で、逃げるとか不可能ですし。仕方なく色素の薄い瞳を見つめていると、ゆるゆると小町さんの眉が下がっていき、ついに溜め息を吐いて浮かせていた体を椅子に戻しました。
「………あのですね、」
「…あい、」
そうっと上げた視線の先に、ひらん、と白いものが踊ります。思わず口元が引きつって、更に視線をあげると―…、
「あんまり壊さないで下さいって…言いましたよね?」
あぁ、いい笑顔。
「小町さんもやっとこんな風に笑えるようになって…!」
「話をそらなさいでください」
ばっさりですね。誤魔化せなかったようです。チッと舌打ちをこぼすと、小町さんの口元がひくひくと痙攣しました。………あれ、なんだかヤバい感じでしょうか?
「まぁまぁ小町さん、落ち着いて下さい。ね?お茶でも飲みましょう」
「一体何回言ったら分かるんですか…?」
「嫌ですねぇ、分かってますよ。だからとりあえず落ち着いて、」
「周りのもの無駄に破壊すんなって何度も言ってんでしょうがぁあ!!!!」
……分かってます。公道で思いっきり魔法使って建物ぶっ壊した私が全面的に悪いです。
*
―――……怖かった。怖かったです。怒った小町さんは怖かったです、えぇ。
団内一の強面と頑固者で通ったゲイルが正座してしかも涙ぐみながら説教される光景を偶々目撃した時点でうっすら分かっていたことではありますが。本当に怖かった。怒髪天をつく。私は二度と小町さんを怒らせないことを誓いました。……しかし、
「ちょ、もうっ…。聞いてるんですか?」
「あはぁ、こまたん、諦めた方がいいよぅ?…ああなったらぁ、リーダーもぉ戻ってこないからぁ?」
…何やらひそひそと話す声が聞こえますが、距離的に内容までは聞こえませんね。――まぁとにかく。
『五十嵐さんは凄いね。何でも出来て』
『……そんなこと無いよ』
そう言った“友人”と、対等であったことなんてなかった。
いくら懸命に友人関係を築いても、どうせ自分を見下しているのだろうとみんな楓椛を腫れ物に触るように扱った。
そんなことは無いのに。母からの干渉がなくなって積極的に人と関わろうとしても、相手が避けるのでは意味がなかった。
高校生になっても、大学生になっても、社会人になっても。それは変わらず、あの頃楓椛はほとんど諦めていた。自分の一生は、孤独なまま淡々と終わるのだろうと思っていたのだ。
―――けれど、違った。
この世界の実情を知って、浅ましくも変えなければと思って。救わなければと思って。なりふり構わず必死になって。そうしていくうちに―…いつしか仲間が出来て。規模が大きくなって。
そして今、楓椛には自分と対等な立場で物を言って、怒り心配してくれる仲間が、友達がいる。
「……ふふふ」
「…リーダァ、なに笑ってんのぅ?」
小さく笑った私に、呆れを含んだ目でこちらを見てくるのは、革命軍元幹部のラニア。革命軍の元メンバーはほとんどが裏街・下町の貧しい人間で、だから革命軍の幹部たちが、地球の革命の様に政治の中枢を担うという事態にはなりませんでした。私と他何人か、それから勇者である小町さんだけは例外的に役職を担っていますが、ラニアも元の仕事に戻っています。あっしにはこれが天職だからぁ?と笑っていたので、今の状況に満足しているのでしょう。
「まぁまぁ、いつものことじゃん」
「……失礼ですね」
ニヤニヤ笑いながら会話に割り込んできたのは、革命軍元副リーダーのディノでした。馴れ馴れしく肩を組んでくるのにイラッ…としますが、……残念ながら私が一番信頼する人間です。えぇ、本当に残念で仕方がないですね。仕事は速いのですけれど、人間性に大いに問題がありますから。
人間性に大いに問題がありますから。大事なことなので二回言いました。
「ちょ、フォン、ひどい!」
「…?なんで私が考えてることが分かったんです?気持ち悪い」
「普通に声、出てたから!気持ち悪いとか!!」
「うるさいってばぁ、ディノぅ?ちょっと黙ればぁ?」
「ラニアまで!?」
騒ぐディノと興味なさそうに欠伸を零すラニア。あとさっきから空気ですが額に手を当て俯いている小町さん。
あぁやっぱり。
「この世界に来て、良かった」
私の異様なまでの能力を知ってなお、そばにいてくれる彼らに。共に戦ってくれた彼らに。淡泊な人生に色を与えてくれた彼らに。
出会えて、良かった。
ぽつりと呟いた言葉も、思わず零れた笑みも、ぱたぱた尻尾を振るミカンさん以外には気付かれることはなかったけれど。私は彼らがいるこの世界を、全力で守りたいと。今日もまた、そう強く思うのでした。
革命軍元副リーダー:ディノッレ・カルテオ(いやな〜本編で証拠を送ってきたお調子者っぽい人)
革命軍元幹部①:ラニア・ロバニキード