6.嵐の予兆
ああ。
待ちに待った金色の天使の寝顔に、サラサはうっとりと見下ろす。
サラサにとって、出産と同時に他界してしまった義姉であり親友でもあったセーラ。彼女に代わって、母としてジュリアンに接してきた。最初はセーラと兄の為だったけれど、今はジュリアンがかわいくてかわいくて仕方ない。
今まではほとんどの幼児や乳児に顔を見せるだけで泣かれてしまうので、サラサのほうから側によることを避けていた。かわいいな、抱きしめたいなって言う思いを我慢しながら。
しかし、甥のジュリアンだけは目がしっかり開く前から、メイドに「そこまでお嬢さまがする必要ございません!」と頭を抱えられるほど世話していたおかげで、サラサにべったりだ。初めて味わうことのできた小さな生命との触れ合い、特にこぼれんばかりの無邪気な満開の笑顔に、サラサは当たり前のように溺れきっていた。
今日は特に疲れることばかりだったから、あなたのその寝顔には癒されるわ、ジュリアン。
起こさないよう気をつけながらも何回もふっくらと膨らんだきめ細かいお肌の頬に唇を寄せる。
この感触、なんと気持ちのいいこと。もっとしたいけどあまりしたら起こしてしまうわよね。
サラサはぐっと我慢して寝ている甥のベッドから離れる。
明日からしばらくはずっと一緒にいられるのだからいいわ。久しぶりにちょっと遠出してもいいわね。暑くなってきたから湖まで行こう。ジュリアンは水遊びが大好きだから喜ぶわ。
サラサはそう頭の中で明日の計画を立てながら、甥の寝室から音を立てずにでていった。
「はい?もう一度、おっしゃって頂けますか?」
とんでもなく厄介な面倒事をわざわざ朝食の食卓で言う兄のガイヤに、サラサは思わず聞き返してしまう。今まで隣でメイドに汚れた手と顔を拭いてもらっているジュリアンの姿に見とれていたのだが、その視線を一気に兄に向ける。
「王妃からサラサにお茶会の招待状が来ていると言ったんですが?」
な、なぜ?
令嬢の間では男を侍らせる悪女として悪名高い自分の評判が、王妃の耳に入っていないわけがないだろう。現に曲がりなりにも公爵令嬢として、それなりに位が高いはずなのに今までは全くそういう誘いはおろか、社交の場でも王妃とは表面上の挨拶を一言、二言をこちらからする程度でしかない。女性の社交界の権力などに全く興味のないサラサとしたら、大変ありがたいことだったのでその評判を消そうともしなかったのだが。
それがなぜ今になって?
「わからないのですか?」
ガイヤは食後のお茶の入ったカップを手に、少し楽しそうな表情でこちらを見ている。
全く心当たりないので頷くことにした。
「原因は先日の舞踏会で会った御仁ですよ」
そう言われて数日まえに出会ってしまった少年を思い出す。
ああ、そういうことね。彼の名前での呼び出しでないのはまだよかったかもしれないが、その母である王妃にどんな話がいっているのか、想像するだけでおそろしい。
と、そこで一つの矛盾点に気がつく。あの件を兄に報告していないのになぜ彼が知っているのか?
「薄情な妹ですね。こんな大切なことをきちんと教えてくれないなんて。ディランがものすごく不機嫌そうな顔で謝ってきましたよ」
納得。幼馴染みが兄にわざわざ伝えてくれていたんだ。
ディランも余計な事を・・・と思ってしまうが、どうせこういう事態になってしまえば、兄のほうからサラサにあれこれと詮索するので、遅かれ早かればれてしまうことだったのだろう。逆にそうなると兄はサラサにお説教を延々としてくるはずだ。
「すみません、お兄様。ただすれ違った程度でしたので・・・」
先手必勝。負けるが勝ちだ。謝ってしまえばそれほど説教されなくてすむだろう。
「まあ、起こってしまったことはしかたないですね。後は公爵家のものとして役目を果たしてくれたら私は何も言いませんよ?」
通訳すると、王妃からのお茶会にさっさと参加して家の面目を保ってこいということだ。
あ~、行きたくない・・・。
王妃と対面するのも正直めんどくさいけど、その取り巻きたちに何とも言えない嫌な目つきで見られて、こそこそと聞こえるような陰口を叩かれるのかと思うと、心底からぞっとする。
サラサはその現場を想像して顔に手を当てた。本当はいやだ~と叫んでしまいたいが、幾ら自分の家であっても数人がそばで給仕している食卓でそのようなことはできない。
「サ~ラ?いちゃいの~?」
隣から鈴が鳴るような可愛らしい声が聞こえてくる。最近、自分の名前をサーラと呼んでくれるようになった2歳のジュリアンのものだ。
「ジュリアン!サラサは大丈夫よ。心配してくれるなんて本当に優しい子ね」
抱きしめて頬にすりすりしてしまいたいほどかわいいけれど、金色のくせ毛の髪の頭をなでるだけに止まることにした。その理由は先ほどと同じである。
「ともかく、招待状に目を通して準備しておくようにしてくださいね。なんでも明後日らしいですから早めに準備しないと間に合いませんよ?」
はい?明後日?
あり得ないほどの早い招待である。王妃とのお茶会となれば、大抵の令嬢たちはそれなりに身なりに気合を入れていく。新しくドレスを新調する者も少なくないだろう。サラサはそんなに衣装にこだわりがないので新調するつもりもないが。
正直新調するたびに行われる生地選びから採寸などの時間が苦手なので、作るときに一気に数枚作ってもらっている。流行などどうでもいい。恥にならない程度でいい。
そんな本人とはうらはらに、周りのメイドや針子は事あるごとに、服を作らせようとたくらんでいる。ここの主人の公爵も快くスポンサーを買ってでている。サラサ自身が無精だからというのもあるが、メイドたちにしたらうつくしい主人を着飾って自慢したいのだ。針子たちにすれば、サラサが社交界などで自分のドレスを着ればかなりの確率でその形が流行になるのだから、それはそれは気合をいれてデザインを仕上げてくる。それで自分の名声があがるのだ。どうでもいいはずのサラサは本人が意識しないまま、ファッションリーダーになっていた。
つまりはそれほど女性は衣装に気合を入れている。だからとても仲の良い間柄でなければ大抵の招待状は、せめて1週間後とかの場合が多い。王妃のお茶会で明後日などありえないだろう。
もしかして嫌がらせも含んでいるのかしら・・・。
ついサラサは疑心暗鬼になってしまう。
悪名高い女が可愛い息子に近づいてきたからさっさと追い払ってしまおうとか?
十分あり得る。ジュリアンにそんな女が近付いてきたら、サラサとしても確かめずにはいられない。
そう思うと諦めがついた。もっとも、この国の一番権力のある女性からの招待をサラサが断れるはずもなかったのだが、気持ち的に行く決心がついた。母としての気持ちがよく分かるからだ。
ただ偶然お会いしただけで、なんの関係もございません。だからそんなにご心配される必要ないです。
会ってそれを確かめて頂けたらいいだけね。ああ、そうだわ。ジュリアンを連れていって説明すれば一発で分かってもらえるかも。
そう思いながらジュリアンを見つめていたら、ジュリアンもこっちを見て満面の笑みをうかべてくれる。
ああ。かわいい。
「そうそう。ジュリアンを連れて行くなどとは馬鹿なことは言わないでくださいね。招待されたのはサラサだけなのですから」
現実逃避で考えていたことを兄に見事に当てられてしまう。
本当にできるとは元より思ってはいない。それは失礼に値するからだ。
でも・・・。可能であれば本当に連れて行きたいものだ。
「わ、わかってますわ。きちんと参加させて頂きます」
サラサはわずかに眉に皺をよせながら小さな声でそう言うしかなかった。
その返事を聞いて、ガイヤは役目を果たしたとばかりに席を立ち、そばのメイドに何かを告げるとその場から退出していった。
兄の後ろ姿を見ながらサラサは思わず大きなため息をつきそうになるが、こちらを覗きこんでいるジュリアンに気がついて思い止まる。
「さぁ~ジュリアン。朝食も終わりましたし、一緒にサラサとお部屋に行きましょうか?お昼まではしなくてはいけないことがあるけど、お昼食べたら一緒に散歩しましょうね」
サラサはそう言って甥の手を握りながらジュリアンの部屋に戻ることにした。