身体の弱い婚約者
「ゴホゴホッ、ご、ごめんな、さい」
婚約者のために身支度を整え、寝室の隣にある専用の応接間で出迎えたエリーヌお嬢様は、今日も咳きこんでしまった。
「お嬢様、咳が出るときはお話しにならないほうが」
この家の従僕である僕、レジスは喉を潤すための特製のお茶を差し出す。
「でも、せっかく、マリユス……コホッ、さま、が」
「気にするな、ゆっくり養生してくれ。
せっかくの観劇チケットだから、友人と行ってくる。
君とはまたいずれ。失礼する」
養生してくれと言いながら、喉の弱いお嬢様の前で派手な外套を翻し出て行くのは、お嬢様の婚約者であるマリユス・ラファラン。子爵家の長男である。
長男ではあるが、この家に婿入りする予定となれば察しが付くだろう。
玄関で出迎えた時に『外套をお預かりいたします』と言ったのに『すぐに暇するので構わん』と脱がなかった奴。
隅から隅まで僕がきっちり掃除した応接間には塵ひとつない。
お嬢様の咳の原因は間違いなく、奴の趣味の悪い毛皮の外套のせいである。
マリユスは婚約者の身体が弱く臥せりがちなのをいいことに、前日に予定を告げて来て、当日迎えに来る。
迎えに来るという事実は律儀に見えなくもないが、言い訳のための実績づくりであるのは明白だ。
お嬢様が外出不可能な前提で、勝手に自分の予定を立てているだけなのである。
律儀なのはお嬢様も同じで、寝室の隣とはいえ、僕の介添えでようやっと歩いてくるような状況なのに無理をして着替え、応対するのである。
かねてより車椅子をお勧めしているが『少しでも歩かなければ身体に悪いわ』と儚げに微笑まれれば何も言えない。
というわけで何かあればさっと抱き上げてどこまでも運べるよう、体力づくりに励む日々である。
お嬢様とマリユスの婚約は、マリユスの母親であるティファニー・ラファラン子爵夫人の猛烈なごり押しで決められた。
二年前、不慮の事故でご両親を失われたお嬢様は病弱であったため、一時は寄り親である伯爵様に一切をお任せして貴族籍を抜けるということも考えたそうである。
ダンドリュー子爵家は手堅く経営されていたので、平民となっても療養に専念するだけの個人資産は十分にあった。
ところが、そこに付け込んできたのがティファニー夫人である。
『わたくしの息子マリユスを婚約者に迎えてくだされば、援助は惜しみませんわ』
などと言って乗り込んできたが、ただただ威張り散らすだけ。
その結果、それまでいた使用人たちは逃げ出してしまった。
ティファニー夫人は領地経営も家の切り盛りも不得手で、そのため夫に蔑ろにされているというのは婚約した後で発覚した事実である。
ダンドリュー家と縁がある僕たち親子は、話を聞いて慌てて駆けつけた。
お世話をする者が誰もいなくなってはお嬢様がお困りになるのだ。
それに、お嬢様の面倒と家の最低限のことなら僕たち一家で十分賄える。
父エドモンは執事として、母ジネットは家政婦長として、僕レジスは従僕として仕えることになった。
僕たちが来た後も威張り散らして邪魔をしてきたティファニー夫人だが、僕の母から『ダンドリュー家は使用人に厳しく、給料が安いと噂になってしまったので、必要な人数が集まりません。手が足りないので、奥様もお手伝いくださいませ』としつこく言われて堪りかねたようだ。
今ではすっかり姿を見せなくなった。
毛皮のせいで少々悪くなった応接間の空気を交換するため窓を開ければ、僕の父に見送られて馬車に乗り込むマリユスの野郎が見えた。
開かれた馬車の扉からは豊満な体つきの着飾った女が、まるで奴を引き込むように腕を伸ばす。
あれは、マリユスの愛人ヴィヴィアーヌだ。
マリユスの言によれば、一緒に観劇に行く友人である。
婚約者を迎えに来たはずの馬車に、どうしてあんなケバい女が同乗しているのか。
胸の谷間を存分に見せつけながら腕に抱きつく友人とは、なんとも珍種ではないか。
「わかっているのかしら?
わたしが婚姻前に死んだら、マリユス様が勝手に使ったお金は全額返金の義務があるのだけれど」
咳が落ち着いたお嬢様は、なかなかに辛辣な一言を放った。
だがそれよりも聞き逃せないのは死という言葉。
いまのところ僕の母の細かい世話でなんとか生き延びているが、医師によれば現在の医学で病状を改善することは難しいらしいけれども。
「お嬢様、死ぬなどということはおっしゃらないでください」
「ごめんなさい。
こんなにも皆にお世話してもらっているのに弱気になって」
マリユスのいけ好かない毛皮の外套も、ヴィヴィアーヌのケバいドレスも、更には観劇のチケット代も全てはダンドリュー子爵家の付けである。
あの野郎は理解していないようだが、ダンドリュー家の付けで購入したものは全て記録が残っている。
注文者や購入者としてお嬢様の名前を使ったとしても、対応した商人たちは実際にやり取りした相手の顔も名前も確認している。
ダンドリュー家に婿入り予定のマリユス様、という立場だから付けが許されているだけなのだ。
「でも、わたしが婚姻するまで生き延びたら、残った財産はマリユス様とティファニー夫人の好きにされてしまうのね」
お嬢様は寂し気につぶやいた。
それから一週間後、お嬢様は完全に寝付いてしまい面会謝絶となった。
婚約者マリユスはそれをいいことに、それまでより贅沢にふけるようになったのである。
一度、豪勢な花束を贈って来たが、それもダンドリュー家の付け。
しかも、喉の弱いお嬢様に花粉の多い派手な花を選ぶとは。
花屋には花束を持ち帰ってもらい、今後は注文を受けた振りだけしてくれるように頼んだ。
どうせ奴はヴィヴィアーヌとの気ままな街歩きの途中で、思いついて花屋に寄っただけなのだ。
奴の顔が利く花屋は一軒だけだから、たぶんもう余計な花粉は送られてこないだろう。
そして、更に二か月が経過したある日。
ダンドリュー子爵家からの呼び出しで、屋敷にマリユス・ラファラン子爵家令息とその母親、ティファニー・ラファラン子爵夫人が来た。
『えー、お話長いなら、馬車にいたらタイクツ~』という理屈でヴィヴィアーヌも付いてきた。
今日も胸の谷間がケバい。
「本日は、何の呼び出しかしら?」
傍らに控えている家政婦長に少し怯えながらティファニー夫人が言う。
トラウマを植え付けた母はいい仕事をした。
「本日は婚約解消のための手続きを進めたいと思います」
応えるのは僕の父、執事のエドモンだ。
「わざわざ婚約を解消するのか?
エリーヌが死んでも、俺はこの家の養子として子爵位を継ぐので無駄手間ではないか?」
「養子ですか? どなたの?」
父の眼鏡がキラリと光る。
「エリーヌには叔父がいるだろう?
今は平民になって行方が知れないそうだが、彼がまだ貴族籍を抜ける前に俺を養子にしている」
そんなわけがあるか。
どんな捏造だよ。全く意味が分からない。
だが当人が戻ってきて事実を知り、訴えることがなければ見過ごされる場合もなくはない。
行方不明の平民など役所が探しだして確認するわけがないし、書類が整っていればマリユスが子爵になれる可能性はある。
「あなたを我が子と認めた覚えがないのですがね」
「執事ごときが何を言い出すのだ?」
「私がエリーヌの叔父、エドモンです。
外国で働いていたので兄の葬儀には間に合いませんでしたが、姪の窮状を救うのには間に合った。
婚約を勝手に結ばれた後でしたので、使用人として潜り込んでいたのですよ」
「そんな、今さら平民ごときが訴えたところで、婚約も養子の件もひっくり返ったりしないわ」
ティファニー夫人が少し焦りながらも言い返す。
「そうでしょうか?
裏でいろいろなさったようですが、全て調べがついております」
「何ですって!?」
「ティファニー夫人、いえ、ティファニーさん。
あなた、いろいろと裏社会の力を利用したようですが、そのせいで夫君から離縁を申請されて貴族院が受諾したそうですよ。
すでに一文無しの平民だ。
いや、息子の借金がありますから、強制労働の借金奴隷ですかね。
ああ、借金はまとめてラファラン子爵に買い取っていただきました。
今後一切、あなた方はダンドリュー子爵家とは無関係です」
ダンドリュー子爵家の財政は豊かだ。
所詮は小悪党のティファニー夫人の後ろにいた人間を寝返らせるくらいの金は用意できる。
「あ、あいつ、裏切ったのね!
でも、伯爵家に領地を返すだけなら、うちの息子に継がせたっていいじゃないの!」
「伯爵様が認めませんよ。
エリーヌを可愛がっていらっしゃいますからね。
あの子が、少しでも生きる気力を得られるならと婚約を認められていましたが、実情がこれではね」
「死んだ娘の代わりに、わたくしたちが幸福になってもいいじゃないの」
「夫人、いえ、ティファニーさんでしたね。
わたし、生きておりますが」
その時、家政婦長である母の隣に控えていたメイドが顔を上げた。
「誰?」
「ふふ、元気になってからは初めてお会いするのでおわかりになりませんか?」
「エリーヌ?」
さすがにマリユスは気づいたようだ。
つやつやふっくらと復活したエリーヌは、従兄の僕も驚くほどの美少女になった。
いや、もともと可愛いけれども。
「え? 何? なにが起きてるの?」
目を白黒させるだけのヴィヴィアーヌとともに、令息と夫人は迎えに来たラファラン子爵家の騎士に回収され護送されていく。
そうして悪縁を切った翌日には、寄り親の伯爵が訪ねてきた。
「この子爵家は伯爵様にお返しします」
エリーヌは揺るがぬ決心を、伯爵様に告げる。
「本当にいいのか?」
「はい。病み上がりのわたしでは跡継ぎが務まるとは思えませんし、どうしてもエドモン叔父様は子爵位を継いでくださらないのですもの」
「そうか、エドモンはまた旅に出たいのか?」
「いえ、そろそろこの国で落ち着こうとは思っていますが」
「ではエドモンには子爵領の代官になってもらおう。
住まいはこの屋敷でいいだろう」
「お役目承りました」
父は渋々という顔をして見せる。
だが本心としては、生まれ育った場所で暮らせることを悪く思っていないだろう。
「エリーヌはどうする?」
「わたしは、レジスお従兄様のお嫁さんにしてもらいます」
伯爵様に訊ねられたエリーヌは、当たり前のように答えた。
え? ちょっといきなり過ぎやしませんか?
「エリーヌ、急に何を言い出すんだ!?」
「せっかく平民になったのだし、いいでしょ?」
「えーと、それはだな~」
エリーヌは可愛い従妹だ。それ以上ではない……はず?
「急がなくてもいいでしょう?
ここで皆で一緒に暮らしていけば、いつか答えが出るわ」
「そうですね、ジネットお母様。
これからいろいろ教えてください、よろしくお願いします」
「もちろんよ、エリーヌ。
でも、やっと身体が治ったのだから、まずはゆっくり慣らしていかないと」
「あまり甘やかさないでください。
もう、お嬢様ではないんですから」
「これからは家族として暮らすのだから、娘として甘やかしたいのよ」
「お母様」
本当の母子のように抱き合う二人。
ああ、さっき素直に返事をしていれば、僕がエリーヌと抱き合っていたかもしれないのに。
それはさておき、今こうしてエリーヌが元気になったのにはわけがある。
衰弱していくばかりの身体と婚約者の暴挙に、彼女は一大決心をした。
外国で開発された特効薬を試すことにしたのだ。
僕の父エドモンは気の向くまま各地に赴き、時には外国まで行って商会や貴族家で働き経験と知識を蓄えてきた。
おかげで執事として子爵家をうまく回すことも出来たわけだ。
そして、途中で知り合った人々の中には最先端の医学の研究者もいる。
その伝手で特効薬の開発を知った父は、エリーヌの主治医と相談して薬を試す可能性を探って来た。
ありがたいことに薬は彼女に回復をもたらし、ついでに寄生虫どもも駆逐された。
その後の二年ほどは、エリーヌは寝付いていた間の遅れた勉強と体力作りに励んだ。
僕には自由に外へ出る機会もあったが、なぜかそんな気になれず子爵領に留まった。
すると父は、それならば代官の手伝いをと猛特訓を課してくる。
このままいけば、エリーヌと夫婦になって代官を継ぐ未来もあるのだろう。
母の仕込みですっかり料理上手になってきたエリーヌのこしらえたチェリーパイを味わっていると妄想が膨らむ。
「エリーヌは可愛いし資産もある。
僕には彼女に相応しいところは、あるんでしょうか?」
仕事の手伝いの合間に父に訊ねる。
「資産がなくとも、確かにエリーヌはお前にはもったいない娘だ」
正論が返って来た。
「だがな、一生かけてあの子と、あの子の故郷を守れたら、それで十分だろう」
「確かに、それが全う出来たら、そうかもしれません」
「大丈夫だ、私がまだまだ仕込んでやるから」
「よ、よろしくお願いします」
幸福への道は、まだもう少し遠くにありそうだ。




