第9話 何も書かれていない記録
二階へ向かうあいだ、ルカリンは、自分が息を潜めていることに気づいた。
外とは違う時間が流れているような感覚。
ここで息を吐いてしまえば、それすらも記録として刻まれてしまいそうだった。
きしむ木の階段は、古い埃のように、歳月の匂いを放っている。
ルカリンは何度も、──ここから出るべきだ、という感覚に襲われた。
まだ、引き返せる。
逃げるなら、今が最後だと──記録館そのものが、静かに囁いているようだった。
それでも、ルカリンは首を振る。
朝食とともに思い出した、あの人の本。
指先に残っていた、あの奇妙な感触。
それは、まだ語られていない秘密があるのだと、最後まで探してほしいと、確かに叫んでいた。
──だから、逃げられなかった。
いつまでも、
あの日の子どものままでいるわけにはいかなかったのだから。
二階は、想像以上に静かだった。
足音が木の床に触れるたび、その響きが、まるで時間そのものが鳴っているかのように感じられる。
書架に並ぶ本は隙間なく詰め込まれているが、秩序があるとは言いがたい。
年代順でも、文字順でもない。
ただ、置き場所が必要だったからそこに収められたような並びだった。
「……奥でしょうね」
ヘラが指で示す。
小さく頷き、ルカリンはゆっくりと歩みを進めた。
『フラルコタン建国年代記』
『北トランビア戦争史』
『王室公文記録集』
いかにも秘密を抱えていそうな題名。
だが、どれ一つとして、視線は留まらなかった。
ただ、背後にあるヘラの足音を感じながら、さらに奥へと向かう。
もう少し進めば、あの人が、なぜ逃げなければならなかったのか──その輪郭に、触れられる気がしていた。
同じ二階であるはずなのに、内と外では、空気が微かに違う。
息を吸った瞬間、不快な気配が、かすかに喉を掠めた。
光はここまで届かず、書架に並ぶ本たちは、同じ沈黙を共有している。
ここは──フラルコタンにおいて、徹底的に隠された記録。
禁書が集められた場所だった。
「……さっきの司書の少女、どうして私たちを通したのでしょう。どう見ても、人を拒む場所なのに」
「……さあ。それは、私にも分からない」
少しの沈黙のあと、ヘラが続ける。
「ただ……あの少女、あなたの顔を知っているようでした」
「……そんなはず、ないわ」
ルカリンは否定するように首を振り、視線を逸らした。
──そのときだった。
他の本よりも、ひときわ低い位置に差し込まれた一冊。
手を伸ばした瞬間、自分を呼んでいた声は、この本なのだと分かった。
背表紙には、薄く埃が積もっている。
長いあいだ、誰の手にも触れられてこなかった証。
題名は擦り切れて判別できず、書架の分類表にも、この本の位置は空白だった。
仮に誰かが手に取ったとしても、それはただの古い本。
それ以上でも、それ以下でもない。
ルカリンは唾を飲み込み、慎重にページをめくった。
一枚目は、白紙。
題名も、年代も、著者名もない。
何も書かれておらず、何も説明していない。
ただ、古い紙の繊維だけが残っていた。
二枚目をめくる。
その瞬間、ルカリンは息を呑んだ。
一枚目と同じく、題名も、年代も、記されていない。
だが、ひとつだけ、違っていた。
名前。
ルエラン。
続くはずの文章は、存在しなかった。
記録は、そこで終わっている。
切り取られた痕跡もない。
インクは滲まず、紙も破れていない。
ただ──
最初から、存在しなかったかのような沈黙だけが残っていた。
「……消したのね」
「……彼らが、です」
ルカリンは、硬い表情のまま、さらにページをめくる。
だが、結果は同じだった。
空白。
そして、また空白。
どの頁にも、文字は存在しない。
これは、事故ではない。
偶然でも、管理の不備でもない。
──意図的に、何も残さないと決められた記録だった。
「……行きましょう。その本を昼も夜も眺めていても、答えが現れるとは思えません」
ヘラは、ほんの少しだけ微笑んで言った。
「それに……ルカリン様のお住まいまでは、まだ、だいぶ歩くでしょう?」
その気遣いが、ルカリンにはありがたかった。
もし一人だったら、きっと──彼女の言葉通りにできなかった。
一階へ降りると、先ほどの司書の少女が、再び姿を見せた。
彼女の視線が、もう一度、ルカリンの顔を静かに追う。
なぜかその瞳には、先ほどとは違う、柔らかな温もりが宿っていた。
──雲の隙間から、そっと差し込む陽射しのように。
「……少し、複雑です」
言葉を選んでみたが、今のルカリンには、それが限界だった。
ありがとうという言葉は、どうしても口にできなかった。
「お手数をおかけしました。それでは、私たちはこれで」
ヘラが頭を下げ、ルカリンも遅れて倣う。
少女はその様子をしばらく見つめ、やがて、静かに微笑んだ。
二人が背を向け、扉を出ようとした、そのとき。
──まるで、この瞬間を待っていたかのように。
少女が、再び口を開く。
「……戦争というものは、兵士の命だけを奪うわけではありません」
どこか諦めを含み、それでいて、懐かしさを帯びた声だった。
「その定義の中には、きっと……兵士ではない人も、含まれているのでしょう?」
風に乗って、その言葉が届く。
「……どうか、お気をつけて」
扉が、静かに閉じられた。




