第7話 白い菊が舞う日
男の表情は、あくまで穏やかだった。
だが、その笑みが広場に届いた瞬間──
そこに、笑っている者は一人もいなかった。
楽園と呼ばれる、このフラルコタンにおいて。
ざわめきは、跡形もなく消えていた。
残ったのは、氷のように張りつめた静寂だけ。
視線を逸らすことさえ、許されていないかのようだった。
「皆さま」
その沈黙の只中で、リオンが口を開く。
「北トランビアと、我ら南トランビアとの戦争は──まだ、終結しておりません」
──戦争。
その一語で、息が詰まった。
広場は、まるで一斉に息を吸い込んだかのように静まり返る。
つい先ほどまで笑っていた商人たちの口元は、ゆっくりと硬直し、鳩を追っていた子どもたちは足を止め、親の手を強く握りしめた。
楽園のように見えていた風景に、目に見えない亀裂が走り始める。
「ですから──」
リオンは、ひと呼吸置いてから、手を掲げた。
人々の視線を、まるでその掌の上に載せるかのように。
「私が敬愛する国王陛下は、この地を守るために──皆さまのお力が必要だと、ご判断なされました」
──徴集。
その言葉は、一度も口にされなかった。
だが、意味は誰の耳にも、はっきりと届いていた。
柔らかな口調は、ただの包装紙に過ぎない。
その内側には、刃のような命令が隠されている。
拒否という選択肢は、最初から存在していなかった。
「ご安心ください。選抜は公正に行われ、ご家族には十分な補償が支払われます。栄誉と名誉も──」
声は、終始穏やかなままだった。
だが、その言葉が触れるたびに、氷のような沈黙は、さらに深く、長くなっていく。
広場に集まった人々は、それぞれ異なる表情を浮かべていた。
受け入れる者。
視線を伏せる者。
歯を食いしばる者。
そして──
何の表情も浮かべない者たち。
「この平和を守るために、皆さまの中から、幾人かに、ほんの少しの勇気を示していただきたい」
ルカリンは、無意識のうちに、拳を強く握りしめていた。
どれほど言葉を飾ろうと、それは勇気には聞こえなかった。
陽射しさえ、冷たく感じられるほどに。
そのとき──
誰かの手が、そっと彼女の手の甲に触れた。
驚くほど静かな動きだった。
掴むでも、引き寄せるでもない。
ただ、そこにあるだけの手。
ルカリンは、視線を向けずとも分かっていた。
「……大丈夫です」
ヘラの低い声が、わずかに間を置いて響く。
「もともと平和というものは、誰かの犠牲の上でしか、成り立たないものですから」
そこに、感情は混じっていなかった。
何度も繰り返してきた言葉のように、ヘラは、あまりにも慣れた声音で告げた。
ルカリンは、その言葉を否定できなかった。
否定したかった。
けれど──
すでに知っていたのだ。
父が村を去った、あの日にも。
人々は、同じ言葉を口にしていたということを。
「すまないね」
「どうか、私たちを恨まないでくれ」
「神が、あなたの行く末を祝福してくださいますように」
「必ず、生きて帰ってきてくれ」
手にした花束を受け取りながら、父は、ただ小さく頷いただけだった。
そのとき、ようやく理解した。
平和とは、いつも誰かの名前の上に築かれるものだということ。
そして戦争は、常に──
新しい血を、欲しているのだということを。
「それでは、これにて」
役目は果たしたとばかりに、リオンは演壇を降りた。
兵士たちの護衛に囲まれながら、人々の間を横切っていく。
その顔から、最後まで笑みが消えることはなかった。
あの笑顔は、安心させるためのものではない。
選択肢は、最初からなかった。
──その事実を、村人たちに、改めて突きつけるための、無言の圧力だった。
広場には、拍手も、抗議もなかった。
誰かが声を上げるには、空気は、あまりにも冷たく固まっていた。
誰も彼を引き留めず、誰も背を向けることもできない。
まるで──
時間そのものが、凍りついたかのような光景。
「ああ、そうだ」
人混みを抜けかけたリオンが、何かを思い出したように足を止め、振り返る。
「国王陛下に捧げる勇気が、十分であるならば──二度と、私に会うことはないでしょう。そのほうが……お互いにとって、最善ですから」
そう言い残し、彼は去っていった。
彼の姿が完全に消えてから、ようやく広場は、再び動き出す。
人々は、何事もなかったかのように言葉を交わし、商人たちは、手慣れた動作で商品を整える。
笑い声は、少し遅れて戻ってきた。
凍りついていた表情が、練習でもするかのように、ゆっくりと解けていく。
まるでこの広場が、先ほどの沈黙を──意図的に、記憶から消そうとしているかのようだった。
ルカリンは、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
あまりにも容易く戻ってきた日常が、かえって、息苦しく感じられる。
「……間もなく、この村には──白い菊の花が、舞うことでしょう」
ヘラの声には、何の感情も乗っていなかった。
「平和という名にふさわしく、とても……美しく」
彼女は、すでに知っていたのだ。
これから、何が起こるのかを。




