第6話 春のふりをした朝
共に迎える朝は、もはや冬ではなかった。
鳥のさえずりと風の音が、失われていた温度を、少しずつ取り戻していくように感じられた。
ルカリンは、布団を頭の先まで引き上げる。
──これが夢なら。
もう少しだけ、見ていたかった。
だが、そのささやかな願いを嘲笑うかのように、階下から小さな生活音が届いた。
器が軽く触れ合う音。
湯が沸く音。
誰かが動く気配。
夢を呼び覚ます、見知らぬ存在のしるし。
それなのに──
なぜか、慣れてしまいたいと思えた。
ルカリンは一度、深く息を整え、ゆっくりと身体を起こす。
この家で、誰かが朝の支度をしている。
その事実が、少しだけくすぐったい。
扉を開けた瞬間、古い階段が、彼女の足音を包み込んだ。
──おかえり。
そう囁かれた気がして、木の階段が、かすかに鳴った。
台所の前で、ルカリンは一度立ち止まった。
中では、変わらず音が続いている。
包丁とまな板。
器と鍋。
整ったリズム。
そこには、迷いも、焦りもない。
まるで当然のことのように、指先が旋律を奏でているかのようだった。
ルカリンは、扉の隙間から見える背中に、思わず微笑んだ。
エプロンをつけ、静かに動くその姿。
それは、紫の瞳の魔女ではなく──
かつて、この家の朝を担っていたあの人のように見えた。
「……あ、起きましたか?」
「……おはよう」
短い挨拶。
だがそれは、この家が長いあいだ待ち続けていた言葉でもあった。
ルカリンは、並べられた皿でいっぱいの台所を眺め、そっと身体を動かす。
「それ……手伝う」
言葉にした瞬間、自分でも驚いたように、ほんの一瞬口を閉ざす。
それでも、手はもう動いていた。
皿を取り、食卓へ運んでいく。
ヘラは横目でその様子を見て、ほんの少しだけ、頷いた。
「……お願いします」
食卓の皿が、ひとつ、またひとつと空いていく頃。
ルカリンは、慎重に口を開いた。
「ヘラ。もし、この質問が嫌なら……答えなくていい。でも、もし大丈夫なら……どうか、教えてほしい」
ヘラは顔を上げ、次の言葉を待った。
「あなたが魔女になった理由。
それから……どうして、人を助けるのか」
質問とともに、スプーンが宙で止まる。
短い。
だが、一食分よりも長く感じられる沈黙だった。
「……約束をしたのです。ずっと昔に、ある人と。これで、十分な答えとは言えませんが……それでも、よろしいでしょうか」
「……聞いて、ごめん」
食卓には、スプーンが皿に触れる音だけが残った。
窓の外では、風が庭を撫でるように、低く鳴いている。
その音の中で、ルカリンは、ふと母の本を思い出した。
――『フラルコタンの歴史』。
見た目は、ごく普通の歴史書。
だが今、この瞬間だけは、
本のほうから自分を見つめられている気がした。
言いかけて、飲み込まれた文章のように。
ページが、かすかに揺れた気がする。
その感覚を胸に留めたまま、
ルカリンは顔を上げた。
「ねえ……
どうやら、村に行ったほうが良さそう。
一緒に、来てくれる?」
「もちろんです」
昨日の言葉が、ふと蘇る。
──願いを叶えるためには、互いに歩み寄らなければならない。
だから、今度は──自分が踏み出す番だった。
フラルコタンは、楽園という別名に違わず、相変わらず平和だった。
中心街には観光客が集い、商人たちは笑顔で品物を売っている。
石畳は清潔で、噴水は今も澄んだ水を噴き上げていた。
子どもたちはパンくずを握りしめ、鳩を追いかけて走り回る。
街路樹は季節を知っているかのように、年老いた葉を、静かに落としていく。
どこにでもある、素朴な田舎町の風景。
「……変だわ」
帽子を深くかぶり、顔を隠したルカリンが、小さく呟いた。
表向きは、間違いなく穏やかだった。
あまりにも──整いすぎているほどに。
人々の笑い声。
水の音。
子どもたちの足音。
どこにも、狂いはない。
それなのに──
この村は、彼女の記憶の中のフラルコタンとは、少し違っていた。
過剰なほどに、整えられている。
まるで誰かが意図的に、平和な形だけを残し、不都合なものを切り落としたかのようだった。
彼女の知るフラルコタンは、こんな空気ではなかった。
「……そうですか?私には、ただの田舎町にしか見えませんが。まだ人混みに慣れていないせいでは?」
「ううん……それは、違うと思う」
ヘラの言葉に、ルカリンは首を振った。
その瞬間──
広場のざわめきが、ふっと沈んだ。
そして。
広場の中央。壇上に、小柄な男が姿を現した。
両脇には、鋭い槍を携えた兵士たち。
高価で華やかな文様の衣を纏った男は、ゆっくりと人々を見渡し、口を開く。
「私は、北トランビアと戦争状態にある、国王陛下の使者──リオンと申します」
リオンは、片腕を掲げ、静かに頭を下げた。
「少しばかり、皆さまのお時間を頂戴したく」




