第2話 風が村を連れてきた日
風は、世界を旅していた。
果てしなく広がる都市の森を越え、楽園を求めて。
かつて出会った雲は、まるで自分について来いと言うかのように声をかけてきた。
やがて、山と湖に出会う。
そこで風は、初めて立ち止まり、ひと息ついた。
そして──
そこに、村が生まれた。
フラルコタンは、南トランビアの最南端に位置する、静かな楽園だった。
雲でさえ何度も息を整えなければ越えられない高い山脈は、村人たちを戦火から遠ざけてくれた。
青く揺らめく湖は、村の心そのものだった。
人々は、交通の不便なこの村に不満を漏らすこともあった。
だが、それは子どもの駄々のようなものに過ぎない。
青い空と深い緑が溶け合うこの平和を、憎める者など誰一人としていなかった。
「憎む」という言葉さえ、似つかわしくない。
ここは、ただ──
時間が止まった場所。
風が湖畔をなぞり、山鳥の歌が木々のあいだから染み渡る場所だった。
だが、その平和は、長くは続かなかった。
「やっぱり噂ってのは大したもんだな。何もなかったこの村が、こんなに人で溢れるなんて」
筋骨隆々とした、いかつい印象の男が、荷袋を肩に掛けながら、行き交う観光客たちを眺めて独りごちた。
彼は村の中心通りに店を構える、果物屋の主人だった。
その顔立ちと体格に驚き、視線を逸らす者もいたが、彼はいつも笑顔を絶やさなかった。
かつて、この通りの客は風だけだった。
それが今では、足の踏み場もないほどだ。
犯人は──
「口コミ」という名のものだった。
「村が発展するのは悪くないが……どうにも、昔からの息遣いを壊してしまっている気がしてな」
彼は、ため息混じりにそう漏らした。
村外れに咲く野の花。
静かに流れていた川。
暖かな日差しの下で背を伸ばしていた杉の木々。
そして、風に身を任せ、ゆっくりと流れていた雲。
彼の脳裏には、今もなお、かつての村の風景が鮮やかに残っていた。
「おじさん。今日、魔女がこの村に来るって噂、聞きました?」
澄んだ声に、男は視線を落とした。
そこに立っていたのは、長い青髪を揺らす少女。
記憶が正しければ、ハワード氏の娘──リナだ。
「魔女だと?また誰がそんな馬鹿なことを言い出したんだ。言っただろう、魔女なんてものは──もう……」
説教を始めようとした瞬間、リナはうんざりした様子で大きく息を吐いた。
「知ってるよ。魔女なんて、この世界のどこにもいないって」
男は唇を尖らせ、ぶっきらぼうに答えた。
「そうだ。魔女なんていない。だから、気にするんじゃない」
「でもね、パパのお友だちが言ってたもん。いないんじゃなくて、隠れてるだけだって。それに、その魔女を探してる人が、この村にいるらしいよ?誰かは分からないけど」
リナの瞳が、星明かりのようにきらめいた。
男は、その話を馬鹿げていると思った。
やがて決心したように少女を睨み、面倒くさそうに手をひらひらと振る。
「はいはい、その話はもう終わりだ。商売の邪魔だし、さっさと行きな。子どもは子ども同士で遊んでこい、ほれ」
「もうっ!」
何度か手を振ると、文句を言いながらリナは去っていった。
その背中を見送りながら、男はしばし考え込む。
──願いを叶える魔女、か。
もし、それが本当だとしたら……自分はきっと、こう願っただろう。
この村が、昔のように静かであってほしい。
「……馬鹿馬鹿しい。子どもじゃあるまいし」
首を振り、再び客に声をかけようとした、そのときだった。
どこからともなく、いたずら好きな風が吹き抜けた。
林檎を包む紙が、かさりと揺れる。
風が通り過ぎたあと──
そこに、ひとりの人物が静かに立っていた。
深く帽子をかぶり、顔立ちは判然としない若い女性。
片手には大きな鞄、もう片方の手には、×印のついた小さな紙を持っている。
彼女は、男の前に歩み寄った。
「すみません。この家へ行きたいのですが、行き方をご存じでしょうか?」
紙を受け取った男は、やがて眉をひそめた。
その間、女性は周囲を静かに見渡していた。
まるで、何かを観測し、記録するかのような眼差しで。
「うーん……どれどれ。ここは……俺の知る限り、人の住んでいない場所だな。観光地でもない。行くなら……案内人を雇わないと、辿り着けないだろう」
「そうですか。分かりました。ありがとうございます」
女性は軽く頭を下げた。
男は、心の中で思う。
──礼儀正しい人だな。
その瞬間、彼女が小さく囁いた。
男の耳には届かないほどの、微かな声で。
「ここにも……願いの匂いがしますね」
再び──
通りに風が吹いた。
まるで戯れるように、女性の帽子が、ふわりとずれる。
ほんの一瞬だったが、男は、彼女の瞳を見た。
誓いを宿したかのように硬く、そして神秘的な、紫色。
それは、昼の安らぎには決して溶け込めない、夜空の光だった。
「それでは。たくさん売れるといいですね」
その言葉を残し、女性は人混みの中へ溶けるように消えた。
店主は、まだ知らない。
つい先ほど、自分が向き合っていたその女性こそが──
《魔女・ルベール・ヴィッチ》であったことを。
風は、しばらくその場を巡っていた。
この場所が気に入ったかのように、観光客の間を縫って戯れ、やがて空へと舞い上がる。
果物屋の主人は、ふと顔を上げ、空を見つめた。
どこからともなく、桜の花弁のような光の塵が舞い、陽射しの中で、静かにきらめいていた。
それが、ただの見間違いなのか。
それとも、何かの残り香なのか──彼には分からない。
なぜか気分が少しだけ良くなり、彼は今日もまた、いつもと変わらぬ一日を生きていくのだった。




