表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/13

第11話 雨の夜に託された言葉

カーテンの隙間から、朝の陽射しが恥ずかしそうに差し込んでいた。

イザベルはその光に目を細め、ベッドから身体を起こす。

まだ眠りが完全に覚めていない、ぼんやりとした顔のまま。

いつもの手つきで、ベッド脇の小さな机に手を伸ばし、時計を確認しようとした、その瞬間──


トン、トン。


ひどく控えめなノックの音がした。


「……誰?」


返事はない。

だが、もう一度、同じようにノックが響く。


イザベルは首を傾げた。

こんな早朝に訪ねてくる心当たりはない。


その音は、急かすでもなく、無礼でもなく──

ただ、この扉が開くまで待つつもりだと告げるように、静かに鳴っているだけだった。


「……朝から、何の用かしら」


呟きながら、薄手のガウンを羽織る。

冷たい木の床の感触に、少しだけ意識がはっきりした。


それでも、扉へ向かう足取りは、なぜか重く、遅い。


ドアノブに手をかけた瞬間、外に人の気配を感じた。


理由の分からない、不安。


扉を開けると、朝の空気が一気に流れ込んでくる。


そしてその中に──

イザベルは、そこにいるはずのない顔を見つけた。


「……カリン?」


問いというより、確認だった。

否定したいのに、否定できないと、すでに分かっている者の声。


「お邪魔します、イザベル様」


彼女が、静かに頭を下げる。


イザベルの視線が、その隣へ移った。


見たことのない、美しい顔立ち。

けれど、その紫の瞳の奥には──説明のつかない圧のようなものがあった。


「……あなたは?」


同じく頭を下げたイザベルが顔を上げると、ヘラが答えた。


「願いの魔女、ルベール・ヴィッチです」


「朝早くから、すみません。おばさん。でも……どうしても、知りたいんです」


イザベルは、喉を鳴らした。


ルカリンの口から、何が語られるのか──もう、分かっていた。


「……何を?」


声には、戸惑いだけが滲んでいた。


「雨の降っていた、あの夜。どうして……逃げたのか」


誰のことを指しているのか。

どの夜の話なのか。


すべて、分かっていた。


その瞬間、イザベルは悟った。


──ついに、この日が来てしまったのだと。


知らないままでいてほしかった。

できることなら、永遠に。


テーブルの上に、三つのティーカップが並べられた。


湯気はゆっくりと立ち上るが、誰もすぐには口をつけない。


ただ、互いの視線だけが行き交っていた。


「そんなに見つめられると……さすがに落ち着かないわ、カリン。それに、ルベール・ヴィッチさん」


その言葉で、ルカリンとヘラは、ようやく視線を外した。


イザベルはしばらく、カップを見下ろしていた。


湯気がほとんど消えた頃、ゆっくりと持ち上げる。


飲まない。

ただ、その温もりを確かめるように、両手で包み込むだけ。


「……隠してきた話をする時ってね」


イザベルが、低く口を開く。


「どこから話せばいいのか、いつも分からなくなるものなのよ」


「そのお気持ち……よく分かります」


ヘラが、同意するように頷いた。


イザベルはしばらくヘラの顔を見つめ、首を傾げる。


そして、ルカリンの方を見る。


ルカリンは、小さく頷いた。


──なるほど、噂通り。魔女というのは、少し変わった女だ。


「……まあ、いいわ」


今は詮索している場合ではない、とでも言うように、イザベルは視線をカップへ戻した。


「いずれにせよ……この話は、ずっと前から、カリン、あなたに話すべきことだった」


短い沈黙。


その中で、イザベルは過去を掬い上げるように、息を整えた。


「……あの夜ね。ルエランが、うちに来たの」


声は落ち着いていたが、文の終わりが、わずかに揺れた。


「雨にずぶ濡れで。まるで──誰かに追われているみたいだった」


ルカリンの指先が、震えた。

それでも、彼女は何も言わない。


「だから聞いたのよ。何があったのか、どうしてこんなに濡れているのか。とにかく、家に入りなさいって」


イザベルは一度言葉を切り、首を振って続けた。


「でもね……ルエランは、私の目をまっすぐ見て、こう言ったの」


短い、呼吸。


「……カリンを、お願いしますって」


ルカリンは、ぎゅっと目を閉じた。

握り締めた拳が、抑えきれずに震える。


「ルエランは、もう分かっていたのよ。あの夜を越えたら……二度と、ここには戻れないって」


イザベルは、ゆっくりと息を吐いた。


友を守れなかった無力さが、その吐息に滲んでいた。


「誰だったのかは、私たちにも分からない。王宮の人間だったのか、それより上だったのか……」


「でも、一つだけ、確かなことがあった」


イザベルは顔を上げ、ルカリンを真っ直ぐ見つめる。


「その時、ルエランには選択肢がなかった。隠れる場所も、説明する時間も、ここに留まることも──許可されなかった」


「……でも」


ルカリンが、かすれた声で続ける。


「……でも?」


「……世界で一番大切な娘だけは、守らなきゃいけなかった」


イザベルは、静かに言った。


「どんな方法を使ってでも。だから──彼女が選んだのは、自分が、この場所から消えることだった。自分がそばにいれば、かえって危険になる、と言っていたわ」


その言葉に、ルカリンの呼吸が止まる。


そして、耐えきれないように、俯いた。


頭の中で、何かが静かに崩れ落ちていく。


怒りも、恨みも、これまで縋ってきた感情が、意味を失って散っていった。


──母は、自分を嫌って、去ったのではなかった。


その逆だった。


自分を守るために、去ったのだ。


あの夜の言葉は、決して、嘘なんかじゃなかった。


「……だったら、一言だけでも言ってくれれば……どうして……」


ヘラも、イザベルも、答えなかった。


ただ、視線をカップへ落とすだけ。


長い沈黙のあと、イザベルが、再び口を開く。


「これはね……あの夜、ルエランが、私に託していった言葉だ。いつか、必ず、カリンに伝えてくれって」


ルカリンが、そっと顔を上げる。


赤く滲んだ青い瞳が、言葉を求めていた。


「お母さんは、いつも、あなたのそばにいる。世界で一番愛している娘を置いて、どこかへ行くはずがないでしょう。だから、心配しないで。愛してるわ、私の娘、カリン」


ルカリンは、泣き笑いのまま、答えた。


「……私も、愛してるよ。お母さん」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ