第11話 雨の夜に託された言葉
カーテンの隙間から、朝の陽射しが恥ずかしそうに差し込んでいた。
イザベルはその光に目を細め、ベッドから身体を起こす。
まだ眠りが完全に覚めていない、ぼんやりとした顔のまま。
いつもの手つきで、ベッド脇の小さな机に手を伸ばし、時計を確認しようとした、その瞬間──
トン、トン。
ひどく控えめなノックの音がした。
「……誰?」
返事はない。
だが、もう一度、同じようにノックが響く。
イザベルは首を傾げた。
こんな早朝に訪ねてくる心当たりはない。
その音は、急かすでもなく、無礼でもなく──
ただ、この扉が開くまで待つつもりだと告げるように、静かに鳴っているだけだった。
「……朝から、何の用かしら」
呟きながら、薄手のガウンを羽織る。
冷たい木の床の感触に、少しだけ意識がはっきりした。
それでも、扉へ向かう足取りは、なぜか重く、遅い。
ドアノブに手をかけた瞬間、外に人の気配を感じた。
理由の分からない、不安。
扉を開けると、朝の空気が一気に流れ込んでくる。
そしてその中に──
イザベルは、そこにいるはずのない顔を見つけた。
「……カリン?」
問いというより、確認だった。
否定したいのに、否定できないと、すでに分かっている者の声。
「お邪魔します、イザベル様」
彼女が、静かに頭を下げる。
イザベルの視線が、その隣へ移った。
見たことのない、美しい顔立ち。
けれど、その紫の瞳の奥には──説明のつかない圧のようなものがあった。
「……あなたは?」
同じく頭を下げたイザベルが顔を上げると、ヘラが答えた。
「願いの魔女、ルベール・ヴィッチです」
「朝早くから、すみません。おばさん。でも……どうしても、知りたいんです」
イザベルは、喉を鳴らした。
ルカリンの口から、何が語られるのか──もう、分かっていた。
「……何を?」
声には、戸惑いだけが滲んでいた。
「雨の降っていた、あの夜。どうして……逃げたのか」
誰のことを指しているのか。
どの夜の話なのか。
すべて、分かっていた。
その瞬間、イザベルは悟った。
──ついに、この日が来てしまったのだと。
知らないままでいてほしかった。
できることなら、永遠に。
テーブルの上に、三つのティーカップが並べられた。
湯気はゆっくりと立ち上るが、誰もすぐには口をつけない。
ただ、互いの視線だけが行き交っていた。
「そんなに見つめられると……さすがに落ち着かないわ、カリン。それに、ルベール・ヴィッチさん」
その言葉で、ルカリンとヘラは、ようやく視線を外した。
イザベルはしばらく、カップを見下ろしていた。
湯気がほとんど消えた頃、ゆっくりと持ち上げる。
飲まない。
ただ、その温もりを確かめるように、両手で包み込むだけ。
「……隠してきた話をする時ってね」
イザベルが、低く口を開く。
「どこから話せばいいのか、いつも分からなくなるものなのよ」
「そのお気持ち……よく分かります」
ヘラが、同意するように頷いた。
イザベルはしばらくヘラの顔を見つめ、首を傾げる。
そして、ルカリンの方を見る。
ルカリンは、小さく頷いた。
──なるほど、噂通り。魔女というのは、少し変わった女だ。
「……まあ、いいわ」
今は詮索している場合ではない、とでも言うように、イザベルは視線をカップへ戻した。
「いずれにせよ……この話は、ずっと前から、カリン、あなたに話すべきことだった」
短い沈黙。
その中で、イザベルは過去を掬い上げるように、息を整えた。
「……あの夜ね。ルエランが、うちに来たの」
声は落ち着いていたが、文の終わりが、わずかに揺れた。
「雨にずぶ濡れで。まるで──誰かに追われているみたいだった」
ルカリンの指先が、震えた。
それでも、彼女は何も言わない。
「だから聞いたのよ。何があったのか、どうしてこんなに濡れているのか。とにかく、家に入りなさいって」
イザベルは一度言葉を切り、首を振って続けた。
「でもね……ルエランは、私の目をまっすぐ見て、こう言ったの」
短い、呼吸。
「……カリンを、お願いしますって」
ルカリンは、ぎゅっと目を閉じた。
握り締めた拳が、抑えきれずに震える。
「ルエランは、もう分かっていたのよ。あの夜を越えたら……二度と、ここには戻れないって」
イザベルは、ゆっくりと息を吐いた。
友を守れなかった無力さが、その吐息に滲んでいた。
「誰だったのかは、私たちにも分からない。王宮の人間だったのか、それより上だったのか……」
「でも、一つだけ、確かなことがあった」
イザベルは顔を上げ、ルカリンを真っ直ぐ見つめる。
「その時、ルエランには選択肢がなかった。隠れる場所も、説明する時間も、ここに留まることも──許可されなかった」
「……でも」
ルカリンが、かすれた声で続ける。
「……でも?」
「……世界で一番大切な娘だけは、守らなきゃいけなかった」
イザベルは、静かに言った。
「どんな方法を使ってでも。だから──彼女が選んだのは、自分が、この場所から消えることだった。自分がそばにいれば、かえって危険になる、と言っていたわ」
その言葉に、ルカリンの呼吸が止まる。
そして、耐えきれないように、俯いた。
頭の中で、何かが静かに崩れ落ちていく。
怒りも、恨みも、これまで縋ってきた感情が、意味を失って散っていった。
──母は、自分を嫌って、去ったのではなかった。
その逆だった。
自分を守るために、去ったのだ。
あの夜の言葉は、決して、嘘なんかじゃなかった。
「……だったら、一言だけでも言ってくれれば……どうして……」
ヘラも、イザベルも、答えなかった。
ただ、視線をカップへ落とすだけ。
長い沈黙のあと、イザベルが、再び口を開く。
「これはね……あの夜、ルエランが、私に託していった言葉だ。いつか、必ず、カリンに伝えてくれって」
ルカリンが、そっと顔を上げる。
赤く滲んだ青い瞳が、言葉を求めていた。
「お母さんは、いつも、あなたのそばにいる。世界で一番愛している娘を置いて、どこかへ行くはずがないでしょう。だから、心配しないで。愛してるわ、私の娘、カリン」
ルカリンは、泣き笑いのまま、答えた。
「……私も、愛してるよ。お母さん」




