第10話 黄昏のあとに残るもの
二人が家に辿り着いたころ、太陽はすでに半分ほど欠けていた。
地平線に引っかかった赤い光は、消えゆく一日を、名残惜しげに引き留めているように見える。
夜が過ぎれば、また朝日は昇る。
それでも──今日の太陽は、もう二度と見られない。
だから人は、黄昏を前にして、祈るように郷愁を抱くのかもしれない。
失われていくものに、そっと願いを託しながら。
ルカリンは扉を閉め、その景色をしばらく見つめていた。
瞳の奥に、何かが浮かび──そして、消える。
家は何も変わっていない。
けれど、自分は確かに変わっていた。
その事実が、彼女を静かに混乱させていた。
「……夕食にしましょうか」
「そうだね」
二人の夕食は、驚くほど静かに終わった。
皿の触れ合う音も、湯の沸く音もない。
記録館で纏ってきた沈黙が、そのままこの家までついてきたかのように、重たい空気が漂っていた。
ヘラは、それ以上何も語らなかった。
ルカリンも同じだった。
言葉を交わさなくても、この空間では、それで十分だった。
片づけがすべて終わると、ヘラは静かにエプロンを外した。
そのあいだ、ルカリンはぼんやりと、食卓を見つめていた。
そんな彼女に向けて、ヘラが低く言う。
「今夜の月が……誰かを慰める、優しい夜であればいいですね」
ルカリンは小さく頷き、何も言わずに自室へ向かった。
部屋の中は、すでに薄暗い。
窓越しの月明かりは、彼女と同じように、何も語らない。
ただ、そこにあるというように、床を淡く照らしているだけだった。
ルカリンは蝋燭に火を灯し、机の前に座って、しばらくその本を見つめた。
『フラルコタンの歴史』
あの人が残した本。
記録館で目にした空白は、間違いなく、この本の内容だった。
開かなくても、何が書かれているかは分かっている。
それでも視線は、何度もその本へと戻ってしまう。
まるで中から、誰かが語りかけてくるかのように。
ルカリンは手を伸ばし──
止めた。
もう一度、伸ばし──
また、止める。
ページを開きたい気持ちと、何も知らないまま、沈黙していたい気持ちが、互いを押し合っていた。
この本を開いた瞬間、真実だと信じてきたものが、すべて崩れてしまいそうで。
そのとき、扉のほうから、ごく小さな音がした。
ノックと呼ぶには、あまりにも慎ましい音。
ルカリンが顔を上げるより先に、ヘラはすでに部屋の中にいた。
蝋燭の炎が一瞬揺れたが、風は、静かなままだった。
「……深い静けさの夜の海は、何も言わずに、人を見つめているものです」
ベッドに腰掛けたヘラは、窓の外へ視線を向ける。
ルカリンも、それに倣った。
「だからでしょうか。ある人は、その海へ──自ら身を投げてしまう」
「自分は駄目だ、とか。どうせ無理だ、とか……」
ルカリンは、その言葉を否定できなかった。
自分は駄目だ。
どうせ、うまくいかない。
──あの人が去ってから、ずっと、抱いてきた思いだった。
「……でも」
ヘラは視線を戻さず、淡々と続ける。
「その深淵に落ちてみて、初めて見える景色も、あるんですよ」
「……もし」
静かに聞いていたルカリンが、ようやく口を開いた。
「もし……その深淵から、戻れなかったら……?」
ヘラは、すぐには答えなかった。
再び口を開いたのは、窓の外の闇が、もう一段、濃くなった頃だった。
「それは、それで……悪くないのでは?」
「少なくとも……まだ生きているということですから」
ルカリンの視線が、自然と机の上の本へ向かう。
手を伸ばしかけて、一瞬、躊躇し──
そして、言った。
「……直接、聞きたい」
「誰に、ですか?」
その問いに、ルカリンはヘラへ小さく微笑みかける。
「ラファエルおじさんと、イザベルおばさんに。母の代わりに、私を育ててくれた二人に……直接」
ヘラは、ふっと微笑み、ベッドから立ち上がった。
「それなら……明日も忙しくなりそうですね」
蝋燭の炎が、小さく揺れた。
けれど、その揺らぎは、先ほどとは違っていた。
「わざわざ来てくれて、ありがとう。……心配、してたんでしょ?」
「さあ。契約者に何かあったら、魔女が面倒になるだけです……それだけ、ですよ」
ルカリンは、苦笑する。
この空間に、ヘラが──魔女がいることに、確かな安堵を覚えていた。
「明日も村に行くなら、朝から忙しくなりそうだね」
ヘラはドアノブに手をかけた。
「少し早く動きましょう。……おやすみなさい」
「ヘラも」
階下へと去る足音とともに、深い静寂が、再び部屋を包み込む。
ルカリンは手を伸ばして蝋燭を消し、ベッドへ潜り込んだ。
──その夜、彼女は久しぶりに、何の夢も見なかった。




