1-1はじめに(セクション1)
はじめに(セクション1)
歴史を学ぶ意味とは何だろうか。
私たちは幼いころから「歴史を学びなさい」と言われ、学校では年号を覚え、人物の名前を暗記し、出来事の順番を追いかけてきた。大人になると、その学びは受験の道具であり、“暗記科目”の代表として語られがちだ。しかし、そうした表面的な位置づけにもかかわらず、歴史は私たちの社会に深く根づいている。むしろ、日本という共同体がかろうじて共有している「共通の知識基盤」の中心に、歴史は静かに存在している。
ほとんどの人は、太平洋戦争で日本が敗れたことを知っている。
江戸時代に武士が存在したことを知り、明治・大正・昭和・平成・令和と続く時代区分をなんとなく理解している。徳川家康、豊臣秀吉、織田信長といった人物を“名前だけは知っている”。坂本龍馬については「なんとなく有名らしい」程度でも、日本人の多くがその名を共有している。こうした基本的な歴史認識は、どれも深い理解には至らないかもしれない。それでも国民の大多数が“同じ時間軸”を知っているという事実は、実はきわめて重要である。
社会とは、一定の共有知識を土台にして展開する。誰もが同じ歴史を学び、同じ物語を最低限共有していることは、複雑な社会で意見を交わし、制度を考え、未来を論じるための前提条件である。歴史を学ぶという行為は、国家の“共通データベース”を構築する作業にほかならない。だからこそ、暗記中心の歴史教育を「無意味だった」と切り捨てる議論には、どこか違和感がある。
むしろ問題は、歴史教育の「暗記」が無価値なのではなく、“そのデータをどう使うか”が提示されてこなかったことにあるのではないか。
学校では「温故知新」という言葉を教わる。「古きをたずねて新しきを知る」。しかし、この言葉はあまりに個人の努力論に還元されすぎている。歴史は学ばせておきながら、その“応用”をどうするのか、専門家はほとんど示してこなかった。過去を知れば自動的に未来が読めるわけではなく、その間には“橋”が必要だ。だが、その橋を設計するのは本来、歴史の専門家であるはずだ。
ところが実際には、歴史学は過去の出来事を精密に記述することには熱心でも、未来について語ることを伝統的に避けてきた。未来を論じることは軽率であり、学問の範囲を逸脱するとみなされる空気がある。だが私たちは本当に、その前提を受け入れてよいのだろうか。過去の連続として現在があり、現在の延長線に未来があるのなら、未来を扱うことは歴史学の自然な射程ではないだろうか。むしろ未来を語らない歴史学のほうが、“不自然”ですらある。
本書は、歴史学を否定するものではない。むしろ、歴史学こそが未来を語るための素地を最も豊かに持っているという主張から出発する。過去の蓄積は巨大なデータベースであり、専門家こそそのデータの扱い方を説明できる立場にある。にもかかわらず、未来への道筋は、長いあいだ曖昧なまま放置されてきた。
では、その空白を埋める新しい知の領域をつくることはできないか。
私はこれを仮に「未来史学」と呼ぶ。
未来史学とは、歴史学・統計学・社会科学・そしてAI技術を横断し、過去から未来へと延びる“連続の構造”を読み解こうとする学問である。未来を予言したり、単純に未来を断定するためのものではない。むしろ、過去の蓄積を用いて未来を考えるための“方法”を確立する試みである。
私は学者ではない。体系化を専門家に任せるべきだとも理解している。だが、概念を提示し、その必要性を示すことは、専門家でなくともできる。むしろ、専門知と一般知の境界にいる人間が、新しい視点を提示することには意味がある。
本書がその“入口”となれば幸いである。




