21話 姉
園遊会の朝。
まだ陽は昇りきらず、空の端にかすかな金色が差し始めたころ。
リディアは回廊を歩いていた。園遊会を目前に控えているせいか、昨夜は胸がそわそわしてなかなか眠りにつけなかった。
長く眠り続けていた自分が「寝られない」という感覚を味わうのは、不思議で、少し可笑しくも思える。それだけ自分に朝夜が馴染んだのだと思うと、少し誇らしい。
冷たい朝の空気が頬を撫で、足音だけが石畳に響く。そんな静けさの中、ふと視線の先に動きがあった。
中庭に差し込む淡い朝日を背に、剣を振るうナタリアの影が目に映った。
彼女は一糸乱れぬ動作で、淡々と剣を振り下ろしている。呼吸は乱れず、無駄な力もない。動きのすべてが洗練され、凛とした気配を纏っていた。まるで彼女自身が一つの剣になったかのようだった。
リディアは思わず立ち止まり、その姿に見入ってしまう。
剣を振る音が、朝の静寂に溶けて規則正しく響いていた。
やがてその動きが止まると、ナタリアが肩の力を抜いて、こちらを振り返った。
「おぉ、リディアじゃないか」
「ナタリア姉様」
リディアは小走りに近づき、思わず口にする。
「朝から鍛錬なんて、すごいです」
だがナタリアは苦笑して剣を納め、軽く肩をすくめた。
「いや、違う。眠れなかっただけだ」
「眠れなかった……?」
思いもよらない答えに、リディアは意外そうに瞬きをする。
ナタリアは少し気まずそうに視線を逸らし、朝露に濡れた芝を見下ろした。
「園遊会は舞踏会と違って、食事や踊りが主ではない。王族同士、貴族同士がじっくりと話す場だ。会話が増えれば、それだけ気疲れもする」
最後の言葉は吐息に紛れるほど小さく、ほんのわずか弱さを滲ませていた。
「ナタリア姉様でも、緊張するのですね」
リディアがぽつりと呟くと、ナタリアはわずかに眉を動かし、苦笑めいた吐息をもらした。
「国事にまともに参加せず、好き勝手に剣ばかり振ってきたからな。たまに顔を出せば、周りからの期待や視線が面倒で仕方ない」
なるほど、とリディアは胸の内で頷く。
陛下や后だけでなく、貴族たちや従者までもが、戦場で名を上げた姉に声をかけるのだろう。称賛も、好奇の目も、時には探りの視線さえも。
彼らたちの目線は、防ぎようのない剣だ。どれだけ鍛えたところで、お構いなしに切りかかってくる。想像するだけで気が滅入りそうだ。
きっと私たちに降りかかった後継者問題という重荷も、そうした周囲の目から尾を引いたものなのだろう。リディアはそう推測した。
ナタリアはふと表情を和らげ、剣を収めながら言葉を続ける。
「そういえば、今日の園遊会はソフィアも参加すると聞いた。お前が説得してくれたのだろう?」
「ええ。その方がきっといいと思いましたから」
「……ありがとう」
ナタリアは短く息をつく。その声音には確かな安堵が混じっていた。
「どうやらソフィアはリディアに懐いているようだな。同じように不参加続きの私にはかける言葉が無いが……」
ひと息落ち着けるように肩を回すと、ナタリアは妹を振り返った。
「……さて、そろそろ戻るとするか。まだドレスも決まっていない。お前の方はもう準備はできているか?」
「ええ。ドレスでしたら、エミリアさんが用意してくれました」
その答えに、ナタリアの目がわずかに見開かれた。
「エミリアが……?」
普段は凛々しい顔しか見せない姉の、ほんの一瞬の驚きに、リディアは思わず小さく笑みを浮かべた。
ナタリアはふと剣の柄に触れながら、小さく呟いた。
「仲良くしているようだな」
「ええ。お2人とも良い子ですね」
リディアの言葉に、ナタリアはそっと顔を伏せる。ブロンドの前髪が垂れ下がり、目元が陰になる。
「……私は姉として、不十分だな」
まるで沼の底から湧き出たかのような口調に、リディアは瞬きをした。
「えっ……」
思わず問い返す。しかしナタリアは、わずかに視線を逸らして口元だけで笑い、
「何でもない」と、それ以上は語ろうとしなかった。
庭に吹き抜ける朝の風が、ナタリアの長い髪をさらりと揺らす。鍛錬で汗を帯びた衣がきらりと光を反射し、その背はまっすぐに空へ伸びていた。
「それじゃあ、園遊会で会おう」
軽く手を上げ、背を向ける。
去っていく横顔は、戦場を渡り歩く者としての鋭さと、王女としての気高さを同時に宿していた。
残されたリディアは胸に小さなざわめきを抱えながら、その背中を静かに見送った。




