2話 Breakfast
「リディア様」
ベアトリスの呼びかけに、リディアはぴくりと身体を震わせて我に返る。
「お食事にされますか?」
そう訊ねられると、何だかお腹が空いている気がしてきた。
夜に起きるときは、もちろんお腹が減っている。1日分の食事を、1回で済まさなければならなかったからだ。
朝の食事、いわゆる朝食というのは、リディアにとっては初めてに近い経験だった。
病に伏せる前は朝食を食べていただろうが、10年以上前の話だ。
「ええ、お願い」
リディアは緊張を頬ににじませながら、遠慮がちに呟く。
「承知いたしました」
するとベアトリスは、部屋の入り口横に控えていたもう一人のメイドに、そっと合図を送る。メイドは小さくうなずき、軽い足取りで部屋の外へと出ていった。
しばらくして、廊下からワゴンを引く音が聞こえてきた。
扉が開き、ベッド脇にワゴンが運ばれる。するとメイドたちが手際よくベッドを跨るようなテーブルが整え、ワゴンに載せられていたお皿が次々と並べられてく。
焼きたてのパン、黄金色に輝くスープ、そして山盛りの果物や野菜。香ばしい香りや、果物の瑞々しい匂いが混じり合い、リディアの鼻をくすぐる。
朝に相応しい軽やかなメニューだ。
「短いお目覚めでしたが、お体が栄養を欲しておいでかと」
ベアトリスが言い終えるより早く、リディアの腹の奥がぐぅと音を立てた。思わず頬が熱くなる。
「どうぞお召し上がりくださいませ」
ベアトリスの言葉にうなずくと、リディアはゆっくりとスプーンを取った。
湯気が立ち込めるスープを掬い、ゆっくりと啜る。ハーブの芳醇な香りが鼻に抜け、優しい塩気が舌の上に広がった。体の奥から温かさが湧き上がる。
それから焼きたてのパンを一口かじる。外は香ばしく、中はふんわりとしていて、ほのかな甘みが広がった。
するとベアトリスがそのままお聞きください、と言って話しかけてくる。
「リディア様、医師がこの後お見えになる予定です」
「お医者様が?」
「ええ。お体の様子を詳しく診ていただきます。もし病が癒えているようでしたら、陛下とお妃様にお伝えいたします」
リディアは軽く頷きながら、お父さまとお母さまに会うのも久しぶりだった。同じ城に住んでいるというのに、久しぶりというのは、奇妙な感覚だ。
何を話せばいいのか、緊張してしまいそうだ。
それからフォークの先に刺した果物を口へ運ぶ。熟れた果汁が舌に広がり、酸味に口を窄める。
「もちろん。ご姉妹にもお伝えすべきですが、残念ながら、長女のナタリア様と三女のソフィア様は、今は王城にいらっしゃいません」
「……そう。どうしているの?」
どこか寂しげに呟くと、ベアトリスは静かに続けた。
「ナタリア様は軍の指揮のため、戦場後方支援へ赴いておられます。陛下からは戦火へ近づくなと幾度もお達しがありましたが、お聞き入れにならず、戦地へと向かわれているようです」
リディアは少し視線を伏せた。記憶の中の姉の姿は、毅然とした瞳と、決して曲げない意志を宿した顔つきをしていた。
どれほど止められても、自らの信念のために歩み続ける人だ。今も変わっていないようだ。
「お姉さまらしいわ」
「ソフィア様とエミリア様については、リディア様はあまりご存じではありませんね」
フォークを動かす手が一瞬止まる。リディアは視線を上げ、ベアトリスの顔を見た。
「ええ、彼女が生まれたころには、私は病に伏せていましたから」
ソフィアはリディアが4歳のころに、エミリアは8歳のころに生まれた妹だった。ベアトリスから話は聞いたことがあるが、どんな妹たちなのか、ほとんど知らない。
「ソフィア様はいつもどこかへ出かけてしまわれるのです。お付きのメイドすら巻いてしまうほどで。夜になるとひょっこり戻ってこられますが、奔放なお方で皆を困らせております」
ベアトリスはわずかに肩をすくめてみせた。
その仕草は呆れよりも、愛情を含んだものに見える。
「エミリア様は物静かな方です。まだ6歳ということもあり、外遊はあまりされません。お会いすることはできると思います」
「そう、なのね」
リディアは食べ終わったお皿を眺めながら、まだ会ったことのない姉妹に思いを馳せる。
それからベアトリスは、一呼吸おいて、考えを整理してから、口を開く。
「ですが、今はまだご姉妹には会わないかも知れません」
「……ベアトリス」
リディアはゆっくりとフォークを置き、薄く開いた唇から問いを漏らした。
「まだ会わない方がいいって、どういう意味?」
ベアトリスの手が一瞬だけ止まった。
冷静沈着なはずの瞳が微かに揺れ、ほんの短い沈黙が落ちる。だがすぐに、メイドは表情を整えてリディアの目を見返した。
「実のところ、城内では後継者問題が囁かれております」
「後継者、問題?」
リディアは目を瞬かせる。
「はい。先日、陛下がご病気で伏せられてから、次の王位をどなたが継ぐか、声が大きくなりつつあります」
「お父様のご病気って……」
リディアは胸が詰まるような感覚を覚えた。あの堂々とした父が病に伏している。それを想像すると、胸の奥に冷たいものが流れ込む。
「ご安心ください。陛下のご病気は風邪のようなもので、数日お休みしただけです。命に関わることはありません。現在は公務を取り行っています」
ベアトリスは言葉を切り、静かに続けた。
「しかし王家の血を継ぐ姉妹たちやその従者の間では、水面下で牽制が起きています。次期国王の座を巡る思惑が、周囲の者たちに影響を与え始めているのです」
その声色はいつもの柔らかさを保ちながらも、ひやりとした緊張が漂っていた。
「そんな中で、長く眠り続けていたリディア様が突然目を覚ましてしまえば……」
ベアトリスは軽く首を振る。
リディアにもその先の言葉は想像できた。
「この問題をさらに拗らせかねません。まだご姉妹と内談をして、ご快癒の兆しをお伝えするには、時期が早いかと」
リディアはそっと視線を落とした。
私が目覚めたことで、家族の間に争いが起きる……?
小さな胸の奥に、名状しがたい重みがのしかかった。